新選組の本を読む ~誠の栞~

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 国枝史郎「甲州鎮撫隊」 

短編小説。戦列を離れ病床に伏す沖田総司と、彼をめぐる愛憎・陰謀劇を描き出す。

国枝史郎(1888~1943)は、主に伝奇・怪奇幻想小説で人気を博した作家。
長編『蔦葛木曽桟』『八ヶ嶽の魔神』『神州纐纈城』が、国枝三大伝奇としてよく知られている。
新選組を題材とした著作は、どうやら本作だけらしい。短編ながら印象的な秀作なので、今回紹介する。
以下あらすじ(前半のみ)。

千駄ヶ谷の植木屋「植甚」の親方は、自宅の庭に大きな池と滝を設えていた。
そして、住み込んだばかりの職人・留吉に「この水がうちの植木を良く育てる」と自慢する。

その「植甚」の離れ座敷に、沖田総司が療養していた。
ある夜のこと、すぐ近くの往来で、複数の浪人者が斬り合いを始める。
通りすがりの女がひとり、巻き添えを恐れ、庭へ逃げ込んできた。
匿って欲しいと懇願された総司は、騒ぎが収まるまでと女を離れ座敷に入れてやる。
総司の病篤い様子を見て、女は介抱の手をさしのべるのだった。

お力と名乗った女は、それから毎日のように、総司のもとへ通ってきて世話をする。
総司は何か悩みを抱えているらしく、うなされつつ「お千代」「細木永之丞」という名前を寝言に漏らす。

それからまもない日、近藤勇が総司を訪ねてきた。
甲府城防衛の任を受け、近く出陣することになったものの、総司を連れていくことはできない、と告げる。
なんとしても従軍したい総司だが、勇に説き伏せられて断念するしかなかった。

その後、お力は総司の面倒を見ながら、何気ない口ぶりで寝言のわけを尋ねる。
「お千代」とは、深く慕いあいながらも、故あって泣く泣く別れた恋人だった。
そして「細木永之丞」は、親友ともいうべき同志であった。しかし……と総司は語る。

総司の話を聞いたお力は、やがてお千代その人と思いがけず出会う。


タイトルから、甲陽鎮撫隊(作中では「甲州鎮撫隊」)が勝沼柏尾で戦う話を想像した。
しかし読んでみると、柏尾戦争は背景にすぎず、主題は病臥に残された沖田総司と、彼に関わる人物たちとの因縁話である。
子母澤寛『新選組遺聞』あたりを参考にした節が窺えるが、独自の展開を描いている。

人物の言葉遣いが、所々でクラシカル。
特に、総司が「左様じゃ」「わしは思う」などと言う場面はちょっと笑える。
これがサムライらしい話し方、ということか。

説明的な会話がやや多い。
特に、お力に問われるまま過去を語る総司は、幼い子供のように警戒心が薄くて素直。
聞き出し方が巧いにしても、これほど何でも打ち明けてしまうのは、病気で心が弱っているせいなのか。

お力は、実に強かな女。その抜け目なさ、大胆さには舌を巻く。
彼女が陰の主人公であり、その心情や行動が活き活きと描かれるからこそ、本作は面白いとも言える。

作中の植木屋「植甚」は屋号だけで、主人(親方)の名前は出てこない。
『新選組遺聞』に、屋号だけ書かれているせいかもしれない。)
この「植甚」が千駄ヶ谷に実在したことは、ほぼ間違いないようだ。主人の名は「平五郎」、姓は「柴田」だったということも判明している。

この「植甚」の親方は、本作では総司を匿うのみならず、ほかにも重要な役目を密かに負う。
冒頭の何気ない滝の自慢話にも、その秘密が隠されていた。
実在の平五郎も、こういう気っ風の好い親方だったのでは、という気がする。

何気なく読み流してしまうと気づきにくいが、出来事の順番は史実に沿っていない。
ストーリー展開を整理すると、以下のような経緯となっている。(※年次は慶応4年)

2月   沖田総司、植甚の離れ座敷に療養する(横浜の病院から浅草今戸を経て移転)
     近藤勇、甲州出陣について総司を説得する
3月 6日 甲州鎮撫隊、勝沼で敗退する
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 沖田総司、病没する 江戸城、明け渡しとなる(近藤勇はすでに死去)
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する


一方、実際の流れは以下のとおり。(※参考『新選組日誌』ほか)

1月18日 沖田総司、神田和泉橋の医学所に入院する(2~3月に浅草今戸へ転院か)
2月28日 新選組、甲府鎮撫を命じられる
2月30日 甲陽鎮撫隊、江戸より出陣する
3月 2日 甲陽鎮撫隊、日野の佐藤彦五郎方に立ち寄る(総司も同行、翌日に離脱か)
3月 6日 甲陽鎮撫隊、柏尾の戦いに敗れ退却する(この直後に総司は千駄ヶ谷へ移転か)
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 江戸城明け渡し
4月25日 近藤勇、板橋で処刑される
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
5月30日 沖田総司、病没する(グレゴリオ暦では1868年7月19日、ユリウス暦では同年7月7日)


最大の違いは、作中の総司が実際より約1ヶ月半も早く没したことである。
作者は何故そのように設定したのだろうか。
江戸城が新政府軍に明け渡された日、すなわち徳川幕府が終焉を迎えた日に、総司もその命を終えた……
あくまで想像だが、両者を重ね合わせて意味を持たせたように思える。

作中に描かれる総司の臨終は、心安らかなものではない。
望みが達せられた悦びの一方で、怨嗟と憎悪を吐き出すさまは痛ましく衝撃的。
これが最後の最後に、彼の無念を晴らそうとする者たちの、精一杯の一撃へとつながっていく。

「植甚」の(何も彼(か)も是(これ)で片がついた)という感慨込めた呟きが、物語を締めくくる。
この言葉には、二重の意味がある。
ひとつは、総司の鎮魂のために、残された者たちが報復を遂げたこと。
もうひとつは、彰義隊が敗北し、徳川時代が完全に終わったと江戸の民衆が実感したこと。
旧幕方と新政府方の戦いは翌年まで続いたけれども、上野戦争がひとつの節目となったことは間違いないだろう。

沖田総司への、そして去りゆく江戸への名残を惜しむ心情が、本作の底流に感じられた。

本作「甲州鎮撫隊」の初出は、1938年の『講談倶楽部』(大日本雄弁会講談社)。
下記の書籍に収録されている。

『国枝史郎名作選』 新正堂刊 1942
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990 ←本項の参考書
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003
『国枝史郎歴史小説傑作選』 末國善己編 作品社 2006

このほかにもありそうだが、生憎とデータを見出せなかった。
なお、青空文庫でも読むことかできる。

新選組興亡録
(角川文庫)
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国枝史郎
歴史小説傑作選
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 井上友一郎「武田観柳斎」 

短編小説。新選組の幹部隊士・武田観柳斎が、非業の死を遂げる経緯を描く。

◆作者・井上友一郎
井上友一郎(1909~1997)は、大阪出身。都新聞の記者を経て、作家となる。
特に風俗小説で人気を集めた。幕末維新史を題材とした作品も手がけている。下記はその一部。
『清河八郎』 大觀堂出版 1944
『近藤勇』 新潮社/1953 鱒書房/1955/1990 六興出版部/1958 双葉社/1964
『幕末刺客伝』 鱒書房 1955
『幕末長恨歌』 光風社出版 1985

◆「武田観柳斎」(前半あらすじ)
武田観柳斎は、副長助勤や文学師範を務める新選組の幹部である。
長沼流兵法を修め、隊士の調練の指揮を任されてもいる。
その立場をよいことに、若い隊士たちを些細な理由でネチネチいびり、己の機嫌を取る者だけを贔屓した。

観柳斎に追従する者の中に、梅崎実之助という若者がいた。観柳斎も彼に何かと目をかけてやる。
やがて、新選組に西洋式調練が導入されると、長沼流兵法とともに観柳斎の存在感は薄くなっていく。
威勢の衰えを感じた観柳斎は、むしろ己のほうが梅崎を頼りにするような言葉も洩らすのだった。

その頃、梅崎は菓子屋の若後家おらくと懇ろになり、それを観柳斎に打ち明けた。
町屋の女房との私通など、本来は切腹に値する隊規違反である。しかし観柳斎は、大目に見てやった。
ところが、梅崎とおらくの逢引を、土方歳三が知ってしまう。
詰問された梅崎は、しらを切り通す。観柳斎も、事実を隠して梅崎を庇った。
彼らの言い分を信じたのかどうか、土方は観柳斎に意外なことを告げる――


◆作品と観柳斎の人物像
子母澤寛『新選組始末記』「隊士ぞくぞく斃る」に、観柳斎の逸話がある。
本作「武田観柳斎」は、この逸話をベースに、架空の隊士を登場させて独自のストーリーとした作品。
土方の観柳斎に対する態度は、本意とも罠ともつかず、なかなかスリリングな展開となる。
「隊士ぞくぞく斃る」ではいささか唐突な伏見の薩摩屋敷のことも、本作は巧く関連づけてある。

子母澤描くところの観柳斎は、西村兼文『新撰組始末記(一名壬生浪士始末記)』が元ネタとなっている。
西村の書く人物像もかなりユニークだが、子母澤はいっそう特異なキャラクターに潤色した。
『新選組物語』「隊中美男五人衆」にも再登場させ、強烈な印象を残している。
おかげで以後、観柳斎という隊士は、多くの作家によって多数の作品に描かれることとなった。

観柳斎が実在の隊士であることは、複数の史料により裏づけられており、間違いない。
ただし、本当に西村や子母澤が書くとおりの人物であったかどうかは、不明である。
「隊中美男五人衆」の、馬越三郎に言い寄ったというくだりは、おそらく子母澤の創作であろう。

◆観柳斎の死
観柳斎の死亡状況もまた、西村の記述に詳しく、子母澤がドラマチックに盛った。
要するに、慶応2年9月28日の夜、近藤勇の意を受けた斎藤一と篠原泰之進が、観柳斎を伏見へ送っていく途中、銭取橋で斬り殺したのだという。本作「武田観柳斎」にも反映されている。
ただ、この説は、現在では疑問視されている。

【疑問その壱 日時】
研究家諸氏の指摘によると、尾張藩士が書き残した『世態志』に以下の記述がある。
(慶応3年)六月二十二日、油小路竹田街道にて元新選組武田某、肩先より大ケサに切害におよびあい果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし」(『新選組大人名事典』より引用)
西村の記述は明治22年の出版物なので、それより同時代史料『世態志』に信憑性がある、と判断される。
ちなみに、別の同時代史料『新選組金談一件』から、「慶応2年9月28日」はどうやら観柳斎が新選組を脱走した時期(死亡したのはその8ヶ月余後)と推測可能である。

【疑問その弐 実行犯】
斎藤一と篠原泰之進が斬ったとする点も、事実ではないと指摘されている。
なぜなら、両人とも伊東甲子太郎の分離脱盟に加わり、慶応3年3月、新選組を離れている。新選組隊士ではなくなった彼らが、近藤や土方の命令によって観柳斎を斬る、という道理はない。
もっとも、葉室麟『影踏み鬼』では、両人が伊東配下の御陵衛士でありながら観柳斎粛清に関わる経緯を、巧みに処理している。フィクションとはいえ、そのような可能性も捨てきれないと考えさせる好例。

【疑問その参 場所】
現場を銭取橋とする点も、『ふぃーるどわーく京都 南』(歳月堂/2001)によると疑わしい。
そもそもは「油小路通を南に向かい(中略)、銭取橋にさしかかったが、本街道に出ると人通りが多くなるので、橋を渡ったとたん背後から斬った」との旨を西村が記し、そのとおりに信じられてきた。
しかし、『世態志』に信憑性があるとすれば、現場は「油小路竹田街道」のどこかである。
この「油小路竹田街道」は、銭取橋を通らないのだ。

京都と伏見とを結ぶ竹田街道は、二通りの道筋がある。
  (1)東洞院通を南下し、勧進橋(=銭取橋)で鴨川を渡り、竹田村領の東端を通り、伏見に入る本街道
  (2)油小路通を南下し、竹田橋で鴨川を渡り、竹田村の集落を通り、竹田村の南で(1)に合流する

「竹田街道」とは、狭義には(1)を指し、広義には(1)(2)の両方を指す。
そして、「油小路竹田街道」は(2)を意味する表現、と捉えるのが順当であろう。(1)と区別するため「油小路」を補ったと思われるからだ。

つまり、現場が銭取橋(もしくは(1)上のどこか)であったならば、わざわざ「油小路竹田街道」と表現するのは不自然であり、そのような必然性がない。

ひょっとすると、現場は「油小路竹田街道」が通る竹田橋だったのではないだろうか。
西村の記述には矛盾があるものの、「銭取橋」を「竹田橋」に置き換えさえすれば意味が通るのだ。
本願寺の寺侍であった彼が、京都の地理に疎いはずはないと思えるが、何か勘違いした可能性もあろう。
よしんば場所を特定できないとしても、銭取橋とする説は根拠薄弱と言わざるをえない。

◆出版情報
本作「武田観柳斎」は、井上友一郎の短編集『新選組外伝』(久保書店/1965)に収録されている。
『新選組外伝』の収録作品は「武田観柳斎」のほか、「壬生の風雲児」「高台寺党」「無法の剣」「祇園心中」「深雪太夫」「人斬り以蔵」の全7編。
久保書店が2017年より、オンデマンド版(ペーパーバック)を取り扱っている。
全7作をまとめたもののほか、1作品ずつの分冊版もある様子。

このほか、短編「武田観柳斎」を収録した書籍は、下記のとおり。
『武田観柳斎』 河出書房/新書 1956 …井上友一郎の短編集、表題作を含む全6編を収録。
『新選組傑作コレクション 烈士の巻』 河出書房新社 1990 …縄田一男編のアンソロジー、本項の参考書。

新選組外伝
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 葉室麟、木下昌輝ほか『決戦!新選組』 

アンソロジー。6人の作家による新選組の短編小説を収録。
作家6人は、葉室麟、門井慶喜、小松エメル、土橋章宏、天野純希、木下昌輝。
本書の責任表示にも「著者」として6人が列記されている。ただ、当記事タイトルには全員を書き切れないので、便宜的に最初と最後の2人を挙げた。悪しからずご了承いただきたい。

収録作品6編は、以下のとおり。

葉室麟「鬼火」
沖田総司は、少年期の忌まわしい体験によって心的外傷を負う。
以来、感情をうまく表わせない、人に心を許すことができない性格となり、そのまま成長した。
試衛館一党が浪士組に加わって京に上った後、残留者同士の間で勢力争いが起きる。
邪魔者を粛清するよう命じられた総司だが、敵に後れを取ってしまう。その危機を救ったのは芹沢鴨だった。
芹沢は、壬生浪士組を土台に「尊王義軍」を組織しようと、様々な方策を果敢に断行していく。
一方、富商からの押し借り、大坂力士との乱闘事件、大和屋焼き討ち事件などで、乱暴者と恐れられた。
芹沢の優しさを知る総司は、彼の生き方に惹かれ、その行く末を見届けたいと思う。ところが――


本作の沖田総司は、周囲の人間に心から打ち解けられない。土方歳三に対しても、常に距離をおいている。
そんな総司が、芹沢鴨に対して単なる親愛以上の感情を抱く展開は、珍しいと思う。

本作の芹沢鴨は、武田耕雲斎や藤田小四郎と連携して攘夷を実行するため、浪士組に加わった。
壬生浪士組を「尊王義軍」にするため、戦闘集団として組織編成し、鉄の規律を設けたのも芹沢である。既成の作品では、土方が組織編成や法度の制定を行なったとされる例が多い。しかし、本作では「農民出身の近藤や土方にできることではなかった」と記述されている。
芹沢が有栖川宮に接近したのも、攘夷を実行するための一方策。
これほど具体的な目標を持ち、ひたすら努力・邁進する芹沢の人物造形は、ユニークで興味深い。

ちなみに、作者が新選組を描いた作品に、篠原泰之進を主人公とする長編『影踏み鬼』がある。
作者はおそらく、近藤・土方体制に従わない人物のほうが好きなのだろう。

門井慶喜「戦いを避ける」
元治元年6月5日の夜。
近藤勇は、わずかな人数を率いて、池田屋へ御用改めに立ち寄る。
思いがけずここが過激志士らの会合場所と知ったとたん、不本意ながら戦闘に突入してしまう。
焦燥の中、養子の周平が一刻も早くこの場へやってくるよう、ひたすら念じた。
近藤が谷三兄弟の末弟・喬太郎こと周平を養子に迎えたのは、ある大きな計画のためであった。
それは、この皇国(日本)を革めること、そのため新選組を強力な組織に仕立てて資することに他ならない。
やがて土方歳三のグループが駆けつけ、周平もようやく姿を現すが――


大坂にある谷道場を、近藤と原田左之助が訪問する場面が印象的。
本作の谷三十郎は、備中松山の元藩士というより、まるで「浪花の商人」。近藤とのやりとりがユーモラス。
万太郎と喬太郎が評価されると、すかさず自分も売り込む抜け目なさに、近藤もたじたじ。

近藤と周平との関係を描く小説は複数あるが、本作の場合は、板倉勝静(老中、備中松山藩主)が関連した新選組増強計画のあたりにオリジナリティを感じる。
司馬遼太郎「槍は宝蔵院流」、早乙女貢「槍の三十郎」、小松エメル「流木」などと読み比べるのも面白い。
また、近藤の熱しやすく醒めやすい性格は、作者の『新選組颯爽録』にも描かれている。

小松エメル「足りぬ月」
藤堂平助は、幼少期「藤堂和泉守の御落胤」を口実に実母から厄介払いされた、と信じて成長した。
人に必要なのは才と運。運はあれど才が今ひとつ及ばない己には、才のある誰かが必要だった。
山南敬助と出会い、彼の力量を頼みにして、いつか成功を得ようと決める。
山南の伝手で知りあった伊東甲子太郎は、さらに優れた容姿と文武の才を持つ魅力的な人物であった。
それに引き換え、近藤勇は剣・学問・要領・容姿いずれも秀でたもののない凡庸な人物、と目に映る。
やがて「夜道を照らす月」とも頼んだ山南を失った時、伊東を新選組にぜひ入隊させようと企図する――


本作の平助は、複雑な生い立ちから、人間関係を益になるか否かで判断する習慣がある。
損得ぬきの信頼なぞ理想論に過ぎないと思ってきたが、心の奥底では何よりそれを渇望していた。

プライドが高い一方で自己評価の低い平助が、それを自覚しないまま人生を模索する姿は、苦しく切ない。
得がたいものを得ようとする努力は大切だが、すでに得たものの価値に気づかず投げ捨てて「もっと素晴らしい何か」を探し求める生き方は不幸だ。
ただ、それは平助に限った話ではなく、人はこうした面を多かれ少なかれ持っている気がする。

こういう人柄の平助を、卑小な者ではなく共感できる主人公として描いた、作者の力量を感じる。
そのほか、近藤勇、伊東甲子太郎、斎藤一といった脇役の人物も魅力的。
作者の『夢の燈影』『総司の夢』とのつながりを見出すのも、楽しめると思う。

「足りぬ月」というタイトルは、少しだけ欠けた姿の月を意味している。
昨年12月13日の当方ツイートを引用しておく↓

【慶応3年11月18日=1867年12月13日・京都の夜空】
現地時刻で月出18:54、月没9:10(翌日)、月齢16.9(右側が少し欠けている)。
嵯峨實愛の日記によると、18日は晴れて雲が南へ行くのが見えたとか。
油小路事件の時、雲さえ無ければ月もよく見えたはず。
>>Twitter「誠の栞」‎@bkmakoto 2016/12/13

完璧なものだけに価値があるのではなく、多少不足があっても素晴らしいものは素晴らしい。
そのことに平助が気づいたのは、命が尽きようとする瞬間だった。

土橋章宏「決死剣」
慶応3年末、新選組を含めた幕府勢力は京都を引き払う。
永倉新八は、愛する内妻の小常を亡くし、生後まもない娘お磯とも別れ、戦いに臨む覚悟を決める。
負傷した近藤勇、病状が進んだ沖田総司は、戦列を離れた。
布陣した伏見で戦端が開かれると、ここを死に場所と定めた新八は、獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
新八にとって、時流も政治も思想も関係ない。剣を極め、信頼する仲間とともに戦うこと、先行きはわからなくても命あるかぎり今を生きることが、何より大切だった――


戦いの描写は迫力満点。
沖田が得意の三段突きを凌駕する必殺技を繰り出したり、新八が剣で薩摩の銃隊を圧倒したり、アクション映画的な味わいがある。

鳥羽・伏見戦争の場面で、新政府方の先込ミニエー銃に対し、新選組は火縄銃を装備している。
幕末、短期間に銃器が目覚ましく発展したのは事実。とはいえ、火縄銃から一足飛びにミニエー銃が導入されたわけではない。時期や地域によって、ゲベール銃やヤーゲル銃が用いられもしたし、幕府方にもミニエー銃・ドライゼ銃・シャスポー銃などを導入していた部隊はあった。
幕府や会津藩が軍制改革を進めていたのだから、新選組もゲベール銃くらいは装備していたと思う。
戊辰戦争で火縄銃が投入されたのは、軍備が遅れていた小藩の勢力、もしくは装備や人員が極端に不足した局面ではなかろうか。

新八の、同志たちと別れても戦いぬき、時代の移り変わりを見つめつつ、己の生を全うした生涯。
本人に「死に遅れた」という思いはあったかもしれないが、亡き盟友たちの分まで生きた、と感じられた。

天野純希「死にぞこないの剣」
会津にやってきた斎藤一は、土方歳三の代理として新選組隊長の任に就く。
松平容保に初めて親しく言葉をかけられ、この主君のために戦おうと決意を新たにした。
白河の攻防戦では、同盟軍の一翼を担って戦い、敵を退ける。しかしその後、新たに着任した総督の指揮が振るわず、劣勢に陥り撤退を余儀なくされた。
次いで、母成峠の守備につく。ところが、傷が癒えて戦線に復帰した土方は、会津藩の敗北を予言する。
曰く、兵員不足の母成峠は突破され、城下戦になる。そうなれば同盟は瓦解するだろう。
「会津を出て蝦夷地へ渡り、徳川旧臣による新政権を樹立する」という壮大な計画に誘われ、一の心は迷う。
やがて、霧を衝き山中の険路を踏破した敵軍が、猛攻を開始する。応戦する守備勢だが――


斎藤一の視点から、会津戦争の苦しさが描写される。
軍事能力より家柄を重視した同盟側の人事。たとえ能力があろうと、軽格者の進言は採用されない。
それらが影響して敗色が濃くなると、ついに心が離れていく者も出る。
このような状況の中、一が敢えて会津に残り戦い続けるに至った理由は、単純だけれども深く大きい。

土方は、合理的な判断から見切りをつけ、新天地を求める。
ただ本作では、一と対比させるため、このように描かれているのだろう。
実際のところ、当初は救援要請が第一だったと思われる。最初から旧幕海軍との合流が目的ならば、新選組を大鳥圭介に預けて米沢方面へ向かう必要はなかった。

戊辰戦争後、明治を生きる一の心境には、土橋章宏「決死剣」の永倉新八に似通ったものを感じた。
性格や生き方はそれぞれ違っても、生き残り幹部としての精神には共通項がありそうだ。
戦後にこのふたりが会ったとしたら、どんな話をしたのか……そんな想像をせずにいられない。

木下昌輝「慈母のごとく」
土方歳三は、鳥羽・伏見の戦場で、旧幕将兵の士気がまったく振るわず、逃げ出すさまを多く目撃する。
やはり鬼となって叱咤激励する指揮官がいなければ、勝てはしない。己は、部下に怯懦の振る舞いを許さない。
近藤勇は、そんな歳三を「厳しいだけでは人はついてこない」と諫める。
それでも歳三は、自分の正しさを信じて疑わなかった。
流山で敵に包囲された時、近藤は指揮官として責任を取り、武士として死ぬため、切腹しようとする。
それを止めた歳三は、一か八かの起死回生に賭け、新政府方へ出頭せよと勧める。
やむなく応じた近藤は、別れ際、歳三にある「約束」をさせるのだった――


「鬼」と畏れられた土方歳三が、戊辰戦争の中で「仏」に変わり部下たちから慕われるようになった経緯の裏には、近藤勇との「約束」があった、という物語。
歳三は、近藤を死なせた償いとして「約束」を守るが、最後の戦いでは破らなければと心に決めた。
ところが激戦の最中、目の当たりにしたのは、歳三のそんな思いとはまったく裏腹な光景だったのだ。
予測が外れてむしろ良かったと思わせる結末が、切なくも温かい。

脇役の野村利三郎と島田魁が、それぞれ妙味を見せている。
野村は、意欲的だけれど強情な性格。何かにつけ他人の非を糺しては叱りつける。しかし、戦いでは常に危険な役回りを引き受けるので、人望がある。
島田は、野村をかつての歳三に似ていると評するが、歳三は「俺はあんな馬鹿じゃない」と不満顔。
そして宮古湾海戦では、やはり野村が真っ先に敵艦へ飛び込んでゆくのだった。

歳三が宇都宮戦で味方の兵を斬ったこと、二股台場山で部下たちを労ったこと、いつしか子に慕われる「慈母」の如く配下の者たちに慕われたこと、箱館市街戦で「退く者は斬る」と宣言したことなど、多くの史料や通説を採り入れつつ、巧みに独自の展開へ落とし込んでいる。
その手法は、『人魚ノ肉』でも活かされていた。

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収録作品の初出は、『日刊ゲンダイ』2016年11月8日~2017年5月1日。
本書は2017年5月、講談社より出版された。四六判ソフトカバー。電子書籍もある。

決戦!新選組
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 司馬遼太郎展「21世紀“未来の街角”で」 

【没後20年 司馬遼太郎展「21世紀“未来の街角”で」】を見にいった。

国民的作家・司馬遼太郎については、あれこれ説明するまでもなかろう。
幕末を題材にした作品も多く手がけており、そのいくつかは当ブログでもすでに紹介した。
特に『新選組血風録』『燃えよ剣』は、今も「新選組小説の金字塔」というべき名作である。

会場の入口(撮影可)では、司馬さんのシルエットが奥へ歩いて行く。

司馬遼太郎展 入口

続く通路は「司馬遼太郎のタイムトンネル」。
両側の壁に、『産経新聞』夕刊連載時(全1335回)の『竜馬がゆく』画像がずらりと並ぶ。

司馬遼太郎展 タイムトンネル

本文は書籍でも読めるが、当時の挿絵を見られる機会はめったにない。
掲載のため縮小印刷されていても、印象的な名画の数々。
画家は、「昭和時代が生んだ挿絵画家の第一人者」岩田専太郎である。

司馬遼太郎展 竜馬がゆく

上は「寺田屋騒動」、おりょうが竜馬と三吉慎蔵に危急を報せる場面。

その先に、いよいよメインの展示(撮影不可)。
大きく3部に分かれ、それぞれに作品ごとのコーナーが設置されている。
「戦国動乱 16世紀の街角」…『国盗り物語』『関ヶ原』『功名が辻』『播磨灘物語』『城塞』――
「維新回天 19世紀の街角」…『菜の花の沖』『竜馬がゆく』『胡蝶の夢』『峠』『花神』『坂の上の雲』――
「裸眼の思索 21世紀の街角」…『街道をゆく』『この国のかたち』『風塵抄』――
全部は書き切れない。

展示品も、バラエティ豊富。
◆史料類… 歴史上人物の書状や遺品、布陣図、屏風絵、写真
◆出版関連… 自筆原稿、初出誌、書籍、装画の原稿、装丁デザイン版下
◆映像関連… NHKドラマ化された作品で使われた甲冑や衣裳
◆本人ゆかりの品々… 新聞記者時代に資料類を読みながら寝転んだ京都宗教記者クラブのカウチ(長椅子)、初期作品の執筆に使用した文机、自筆スケッチ画
――等々。これらを作品ごとに取り合わせた展示方法が面白い。

新選組関連の展示も、もちろん「維新回天 19世紀の街角」の中にあった。
『燃えよ剣』… 土方歳三の鉢金と送り状、石田散薬の効能書きとつづら
『新選組血風録』… 髑髏図を刺繍した近藤勇の稽古着、近藤の書状(広島出張の事前報告)、沖田総司の年賀状(慶応元年)、新選組の袖章

いずれも、土方歳三資料館と小島資料館からそれぞれ借りた複製品の様子。
史料保護のため、複製展示はやむをえないと思われる。
かなり精巧に造られており、実物と並べても素人にはおそらく見分けがつかないだろう。

上映コーナーでは、生前のインタビュー映像がリピートされていた。
1989年「NHKスペシャル」で放送されたトークドキュメント「太郎の国の物語」から約6分間を抜粋したもの。
テーマは、明治という国家について。
曰く、明治初期から中期にかけて、ある種の道徳的緊張感に因む気風が国家を支えていた。
道徳的緊張感とは、自らを律し、節度を弁え、名を惜しむ侍の生き方、すなわち武士道に由来する。
そうした緊張感を、司馬さんは「圧搾空気」と形容した。
しかし明治も終わりに近づくと、この「圧搾空気」が失われてしまったのだという。

明治の初期から中期、社会を構成したのは、幕末維新の動乱を生きのびた人々であったろう。
自身が戦場へ赴かずとも、身近な人間を通じて間接的にでも、何らかの体験はしていたはずだ。
だから、人々は動乱で失われた多くの命を思い、それらに報いるため優れた国家を造らなければ、という使命感を多かれ少なかれ持ち合わせていた。
ところが、世代交代によって動乱の記憶が薄れるとともに、その使命感も薄れていった――
――なんとなく、こんな勝手な想像が頭をよぎった。

最後は、「二十一世紀に生きる君たちへ」の自筆原稿と大活字パネル。
子供たちにも伝わるよう平易な言葉で書かれたメッセージだけれども、大人もまた考えるべき内容だと思う。
「あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
もし自分が司馬さんに問われたなら、何と答えればよいのか。
適切な言葉が出てこない。

出口の手前には、「司馬遼太郎記念館の書斎が見える庭」と銘打った撮影スポット。
この書斎が主人を失って「もう20年」と言うべきか、「まだ20年」と言うべきか……。

司馬遼太郎展 書斎

この司馬遼太郎展は、全国を巡回している。開催スケジュールは下記のとおり。

2016年10月22日~12月4日 北九州市立文学館
2016年12月14日~12月24日 大阪・阪神百貨店梅田本店
2017年4月1日~5月25日 高知県立文学館
2017年6月2日~7月9日 横浜・そごう美術館
2017年9月16日~10月15日 愛媛県美術館
2017年10月21日~12月10日 姫路文学館

すでに終了したところもあるが、今後開催される地域の方々はどうぞお楽しみに。

NHKスペシャル
「太郎の国の物語」
司馬遼太郎
[DVD]
>>詳細を見る



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まとめ そのほかの関連記事

 新人物往来社編『近藤勇のすべて』 

研究本。近藤勇という人物について、生涯の様々な面を取り上げ考察する論考集。
全26編(1ページイラスト記事3点を含む)を、18人の執筆者がそれぞれ担当している。
収録内容は以下のとおり。

「近藤勇が生きた時代」 童門冬二
「異説・勇の少年時代」 林栄太郎
「近藤勇と宮川家」 宮川豊治
「試衛館はどこにあったのか」 菊地明
「山川さんが私の家の地主さんです」 林栄太郎
「天然理心流と近藤勇」 小島政孝
「新選組結成」 伊東成郎
「近藤勇の剣」 吉田光一
「近藤勇と松平容保」 宮崎十三八
「内部粛清された人々」 古賀茂作
「池田屋事変」 山村竜也
「龍馬暗殺の夜の近藤勇」 永岡清治
「新選組屯所を発見するの記」 石田孝喜
「甲州勝沼戦争」 今川徳三
「筆跡からみた近藤勇の性格」 森岡恒舟
「流山の朝――捕縛までの日々」 菊地明
「近藤勇の妻・おつね」 赤間倭子
「近藤勇の首級はどこに」 小島政孝
「近藤勇関係人名事典」 清水隆
「近藤勇史跡事典」 野田雅子
「近藤勇略年譜」 菊地明
「宮川家系図」 宮川豊治
「近藤勇関係文献目録」 清水隆
イラスト記事「同時代人が語る近藤勇」「幕末の女たち」「映像の中野近藤勇」 今川美玖

新人物往来社の『◯◯のすべて』シリーズは、1冊で◯◯を概ね把握できる、重宝な教養書。
テーマ(◯◯)は多彩ながら、やはり戦国と幕末維新の関連が最も多かった、と記憶している。
幕末維新の◯◯は、『徳川慶喜』『松平春嶽』『松平容保』『松平定敬』『山内容堂』『島津斉彬』『阿部正弘』『天璋院篤姫』『小栗忠順』『勝海舟』『河井継之助』『楢山佐渡』『ジョン万次郎』『伊庭八郎』『横井小楠』『吉田松陰』『由利公正』『坂本龍馬』『桐野利秋』『会津戦争』『会津白虎隊』『箱館戦争』など。
新選組の◯◯は、『新選組』『土方歳三』『沖田総司』『新選組・永倉新八』『新選組・斎藤一』があり、本書『近藤勇のすべて』もその1冊。

本書を今回取り上げようと思い立ったのは、最近の報道がきっかけである。
「百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持」と産経ニュースが2017年5月14日付けで報じた。
周知のとおり、近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、板橋にて斬首に処された。その首級は京都で梟された後、行方知れずとなり、埋葬地をめぐって複数の説がある。
記事は、会津埋葬説を補完する史料が発見された、という内容。近藤の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に貼付されていたメモに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」云々の文面と「若松市長・松江豊寿」の署名があるのだとか。
この報道を受け、「他の説も改めて検証すべきでは」という意見がネット上に見られた。

そこで、本書収録「近藤勇の首級はどこに」を思い出した次第。
全7ページとコンパクトな論考ではあるが、要点が簡潔にまとまっている。
近藤勇の墓といわれる7箇所とそれぞれの説明が、以下のように記述される。

1.板橋駅前(東京都北区滝野川)
永倉新八らが明治9年に建立。正面に近藤・土方の名を刻んだ大きな墓碑。
近藤の死亡地であり重要ではあるが、墓自体は供養墓とみるべき。

2.龍源寺(東京都三鷹市大沢)
主に近藤勇五郎の談話によると、遺体を板橋から密かに運んで埋葬した。首級は埋葬されていない。

3.天寧寺(福島県会津若松市東山町)
土方歳三が会津に滞在中、松平容保の許可を得て建立した。
近藤の墓としては、最も早期に造られたもの。首級は埋葬されていない。

4.円通寺(東京都荒川区南千住)
三河屋幸三郎が建立した「戦死墓」「死節之墓」がある。
「死節之墓」に、他の旧幕方戦死者と並んで近藤や土方の名もある。当然、供養墓である。

5.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町寺山)
石碑は現存せず。台石のみ、土中に長年埋もれていたものが昭和33年に発見された。
なぜか土方と伝習隊隊士らの名、「慶応三辰年」と誤った年号がある。
法蔵寺に「京都の誓願寺から託された首級を埋葬した」と伝わるも、誓願寺には史料がない。

6.京都市東山山中(未確認)
小島誠之進(鹿之助の四男)が、明治29年、本田退庵に案内されて首級埋葬地を訪ねた。
当時のメモらしき墓石の図と「東大谷之傍、京都黒谷之上ノ山、霊山と申山之中央」の文言が残る。
ただし、現地へ行ってみても発見できない。大雨による土砂崩れなどで埋まってしまったのかも。

7.高国寺(山形県米沢市鍛冶町)
「近藤金太郎が板橋から首級を盗み、荼毘に付し米沢へ埋葬した」と昭和59年、浅沼政直氏が発表。
金太郎家の系図に「近藤周助の妹と茂右衛門との間に金太郎が出生」と記されるも、周助に妹はいない。
首級が京都で梟されたのは事実であり、板橋から盗んだとする点も疑問。

以上は簡単な要約。原文には、もっと説得力がある。
これがもし覆るとしたら、誰もが認めるほど確実な証拠が出てきた時だろう。
研究家諸氏もおそらく近い見解をお持ちで、そのため諸説の再検討に至らないように思われる。

◆少々補足・その壱。
天寧寺の墓には、首級もしくは遺髪が埋められたという伝承がある。ただし確証は未発見。
先日発表された愛刀メモも、今のところ傍証的なものと捉える意見が多い様子。

◆少々補足・その弐。
明治22年、本田退庵と佐藤俊宣(彦五郎の長男)が京都を訪れ、霊山の中腹で首級埋葬地を発見したという。
退庵はこの時の発見によって、小島誠之進を案内したのだろう(上記「6」)。

◆少々補足・その参。
京都での梟首を、佐倉藩士・依田七郎(学海)が閏4月10日に目撃した。
「面色生くるが如く、余とともに談笑せし時を想ひ見る、悵然として之を久しうす」などと書き残している。
1月16日に江戸城で近藤・土方と面談した彼が認めたのだから、近藤の首に間違いないと思われる。

◆少々補足・その四。
梟された後の首級は粟田口(京都)に埋められたというので、探した者があったが発見できなかった…と子母澤寛が『新選組遺聞』の初出時(『サンデー毎日』)に書いている。(※出版時には脚色が加わえられた様子。)

◆少々補足・その五。
首から下の遺体についても、龍源寺埋葬説のほかに、「板橋の処刑場にいったん埋められるも、当日中に新政府軍の命令で寿徳寺境外墓地(現在の板橋駅前)に改葬された」という説がある。
これは、板橋の石山家子孫・石山亀二の証言に基づく。

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本書には「近藤勇の首級はどこに」のほかにも興味深い論考が多い。
タイトルだけ見て「すでに周知の事柄」と思っても、読むと改めていろいろ気づかされる。
刊行後に研究が進んで少々古くなった部分もあるが、今も利用価値は高いと思う。
近藤勇の研究本自体がそれほど多く出版されていないので、その意味でも手元にあれば重宝する。

1993年、新人物往来社より刊行された。四六判ハードカバー。

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