新選組の本を読む ~誠の栞~

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 山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』 

副題『「伊庭八郎征西日記」を読む』。
文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。

伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。

この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。

本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。

第一章 将軍とともに上洛      元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個    元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ        元治元年(1864)5月
第五章 お役御免          元治元年(1864)6月

それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。

日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。

『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。

またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。

余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。

それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。

例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。

八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。

勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。

細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?

ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。

本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。

【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。

【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。

いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。

この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。

本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。

幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書)
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 立って歩いて? 誠メシ! 

しんせんぐルメ 誠メシ!」「ご当地グルメ 誠メシ!」に続いて、新選組と食の話。
しつこいようで恐縮だが、今回でひとまず終わるので、ご容赦いただきたい。

食について語る時、何に目を向けるべきだろうか。
どのような食材をどのように調理して食べるかは、もちろん肝要だ。
ただ、それ以外にも大切なことがあるように思う。

『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を読んで、感銘を受けた。
酒井伴四郎がいつ何を食べたにとどまらず、当時の食文化や周辺事情にまで言及しているからだ。
例えば、日本の中で江戸が「食のクロスロード」たり得た理由、そのひとつは参勤交代制にある――という解説など、歴史を理解する上で非常に興味深く勉強になる。

ところで近頃、あるフィクション系の出版物を見かけた。
その中で、新選組隊士らしき人物が、往来を歩きながら何やら食べている。
日常の一コマを描いたものらしく、同様の場面が複数散見される。
新選組を貶す意図はないとわかるし、フィクションにいちいちリアリティを求めるのも野暮と思う。
ただ、その出版物は単純な娯楽作品にとどまらず、史実や時代考証もいくらか重視している様子なので、いささか残念な気分になった。

通常、歴としたサムライが歩き食いをするとは、考えにくい。
庶民ならば、屋台などで立ち食いするし、事によったら歩き食いすることもあるかもしれない。
しかし、サムライは違う。屋外で飲食する場合も、適当な場所に坐るなり、やむなく立っていても歩き回らないようにするなり、注意を払うはずである。

具体例として、実在の人物・江原素六の回顧談を挙げる。
彼は、下級の幕臣に生まれたが、才能によって抜擢され、講武所の砲術方教授、撒兵隊の隊長などを務めた。
維新後は教育者、政治家として活躍し、麻布学園を創立。キリスト者として布教に携わってもいる。

素六が子供の頃、生家は微禄で非常に貧しく、楊枝削りの手内職で家計を支えていた。
ある時、父と楊枝を納品に行った帰り、いなり寿司が食べたくてたまらなくなる。
「小用を足したい」と言い繕って後に残り、道端の屋台でいなり寿司を買った。
そして一口頬ばった瞬間、父に殴られた。先に帰ったと思った父が、いつのまにか見ていたのだ。
さらに帰宅後、母にもひどく叱られた。
空腹でも耐えるのが武士であり、我慢できずに往来で食べるなど卑賤な者の行い、というわけである。

(※参考:司馬遼太郎『歴史と視点』所収「黒鍬者」)

素六は、往来で立ち食いしようとしたため、武士の行動としてふさわしくない、と叱られてしまった。
まして歩きながら食べるなどは、ありえない。
たとえ生活が貧しくとも、サムライにはサムライとして守るべき品格や礼節があったのだ。

新選組について、行儀などかまわない粗野な連中、という見方もあるかもしれない。
実際、永倉新八は、戦いの最中、路上に落ちていた切り餅を拾って呑み込んだ、という体験談を遺した(※『新選組興亡史』)。
ただ、これもあくまで非常時のことで、日常的に拾い食いや歩き食いをしてはいなかったろう。
新選組が武士の精神を重んじる集団である以上、それなりの行動規範があったはずだ。

当時の人々が、どのような社会にどのような意識を持って生活していたか。
実像を知ろう、伝えようとするなら、そうした背景も視野に入れておくことが望ましいと思う。

遺聞 市川・船橋戊辰戦争
―若き日の江原素六
‐江戸・船橋・沼津
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 ご当地グルメ 誠メシ! 

前回「しんせんぐルメ 誠メシ!」に続き、新選組と食の話。
今回は、特定の地域や老舗の名産品にかかわる説を挙げてみる。

たまごふわふわ
近頃「近藤勇はたまごふわふわが好物だった」という説を、よく見かけるようになった。

たまごふわふわとは、泡立てた玉子と出汁をまぜ蒸した料理で、江戸時代から存在した。
2004年のNHK大河ドラマに「食べたいものはありますか」「たまごふわふわ」というツネと勇の会話があった。これがきっかけで広まった気がするが、その少し前から流布するようになっていたと思う。

このたまごふわふわ、東海道・袋井宿(静岡県袋井市)の名物料理であった。
袋井観光協会の説明によると、文化10年、大阪の豪商・升屋平右衛門が記した「仙台下向日記」に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載った、とあるそうだ。
現在、袋井市観光の目玉のひとつとなっており、市内の複数の飲食店で提供される。

袋井宿には、近藤勇も宿泊している。
江戸出張から京都へ戻る途中、元治元年10月26日のことであったと、東海道石部宿歴史民俗資料館(滋賀県湖南市)が所蔵する旧本陣小島家の宿帳に記載されているとか。
袋井宿に泊まったのなら、当地の名物料理を供された可能性も考えられよう。

ただし、実際に食べたという記録は発見されていない様子。
その可能性を否定するつもりはない。ただ、「好物」とするには根拠が弱いのではなかろうか。

ナマズ料理
近藤勇に関しては「ナマズが好物」という説もある。

2014年9月19日放送のNHK「キッチンが走る!」は、「発見!近藤勇も愛したユニーク食材 ~埼玉・江戸川中流域~」と題する内容だった。
番組中、吉川市内のナマズ養殖業者が「近藤勇も当地の料亭に来てナマズを食べた」と語った。

調べたところ、地元の老舗料亭が「近藤勇、勝海舟、板垣退助などの歴史的著名人も当店の料理を楽しんだと言われています」とPRしていることがわかった。

しかし残念なことに、いつどのような状況だったのか、具体情報が提示されていない。
事実とすれば、慶応4年、綾瀬の五兵衛新田から流山へ転陣する頃だろうか。
また、ナマズを食べたのが事実としても、「好物」「愛した」とまで言えるものだろうか。

上記以外にも、近藤勇が「おせきもち(京都市伏見区)」を訪れたとか、土方歳三が「お秀茶屋(会津若松市東山町)」を訪れた、とかいった伝承もある。

こうした話には、なかなか興趣を誘われる。
機会があればそれを食べてみよう、と思いたくもなる。
ただ、史実と断定できるかどうかは、また別の問題と捉えたい。

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 しんせんぐルメ 誠メシ! 

新選組の隊士たちは、日々どんなものを食べていたろうか。

こういう些細なことが、意外とわかりにくい。
大きな出来事はともかく、ありふれた日常を記録に残そうとする人物が、隊内や周辺にいなかったためだろう。
前回『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を紹介するにあたり、改めて調べてみたが、確実と思える情報は見つからなかった。

とは言え、手がかりは皆無ではない。目についた事柄をいくつか挙げてみよう。

みそづけ
沖田総司が宮川音五郎(近藤勇の実兄)に宛てた、慶応3年11月12日付の書簡がある。
その一節に「何より之味噌漬被下、難有奉存候」と、味噌漬けをもらったことへの謝辞が記される。

この味噌漬けは、江戸へ出張した土方歳三と井上源三郎が京都へ戻る際、音五郎が托したものらしい。
わざわざ持たせるからには、沖田(あるいは近藤らも含めた面々)の好物だったのだろう。
ただ残念ながら、何を漬けたものか明記がない。野菜、魚肉、それ以外……想像をめぐらすのみである。
(※参考『土方歳三・沖田総司全書簡集』

あひる
慶応3年元旦、伊東甲子太郎が永倉新八と斎藤一、そのほか腹心たちを引き連れて島原の角屋へ出かけた。
その日、廓内は休みであったので、「途中から家鴨十羽買い込み」持っていった。

この家鴨を料理させて、酒肴とする意図であったようだ。
生憎と調理法は不明だが、焼き物にでもしたのだろうか。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

うなぎ
戊辰戦争が続いていた頃のこと。
永倉新八は、同志の芳賀宜道と連れ立って、米沢から東京へ密かに舞い戻った。
浅草へ着いて山野の重箱で久しぶりで江戸前の鰻で」腹を満たした、という。

「重箱」とは、寛政年間から続く蒲焼きの老舗。現在は、赤坂で本格的料亭として営業しているとか。
永倉らがこの店へ立ち寄ったのは、店の者と顔見知りだったなど、安心できる理由があったのだろう。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

たくあん
小野路の小島家に伝わる逸話。
土方歳三は、小野路・橋本家の自家製の沢庵が大好きで、訪問のたび山盛りの沢庵をパリポリ食べていた。
ある時など、樽ごと担いで帰ったという。

農家が漬け物を作る樽は、かなり大きい。
例えば四斗樽なら、高さも直径も約60センチ、容量は約72リットル。さらに大きいものが使われることもある。
沢庵がぎっしり詰まっていたら、独りで担ぐのは困難なのでは。
小さい樽に移してもらったのか、それとも「これほど好物だった」という誇張が入っているのか。
(※参考『新選組余話』

とろめし
これも小野路の小島家に伝わる逸話。
近藤勇が上溝村の佐藤為彦を訪問した折、先客の鷹取胖斎と会った。
夕食の時、とろめし(とろろかけご飯)の大食い対決をすることになり、ふたりは競って食べた。
近藤は19杯、鷹取は20杯食べて、勝負がつく。負けず嫌いの近藤も兜を脱いだ、という。

上溝村は相模国高座郡(現在の相模原市)であり、小野路村とは近い。
佐藤為彦は、上溝村の名主。小野路の小島家や橋本家、近藤一門とも交流があった模様。
鷹取胖斎は、上溝村在住の蘭方医。佐久間象山の門人であり、師匠に劣らぬ奇人であったと伝わる。
近藤も鷹取もとろめしが好物だったそうだが、それにしてもよくこれだけ食べられたものだ。
(※参考『新選組余話』

伝承の類いは、どこまで正確な事実なのか、検証が難しい。
しかしながら、当人と面識・交流のあった人々が伝えた話は、それなりの信憑性を感じさせる。

小野路 小島資料館の門
↑小野路 小島家(小島資料館)の門

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 青木直巳『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 

幕末の江戸における食文化の解説書、一般向けの教養書。
紀州藩士・酒井伴四郎の日記から、当時の下級武士の日常生活を読み取る。
史料の解題・解説書でもあるが、原文引用は少なめで、平易な内容となっている。

予めお断りするが、本書に新選組は登場しない。
しかしながら、彼らの日常生活の一端を知る参考として役立つので、取り上げることにした。

日記を残した酒井伴四郎は、新選組と同時代に実在した、紀州和歌山藩の藩士である。
現存する日記は、限られた期間のみであるものの、多くの貴重な情報が読み取れる。
史料から窺える伴四郎の経歴は、おおよそ以下のとおり。

◆万延元年(1860)… 伴四郎28歳。江戸勤番を命じられ、妻子を残して単身赴任。5月11日に和歌山を出発、大坂や伏見を経由、中山道をたどる。同月29日に江戸着、赤坂紀国坂にある中屋敷の長屋に入る。
◆文久元年(1861)… 江戸勤番を終える。12月3日に出立、同月18日に帰国。
◆元治2年(1865)… 再び江戸へ。2月22日に和歌山発、24日に京都着、3泊する。3月11日に江戸着。4月11~21日は日光へ出張。5月28日、帰国の途に着く。
◆慶応2年(1866)… 第二次長州戦争に従軍することに。5月27日に出発、9日に広島の本陣へ到着。6月25日、長州との戦闘に参加。9月2日の停戦協定成立により、同月4日に引き上げ、10日に帰国。
◆慶応4年(1868)… 4月、京都へ出張する。4月2日に和歌山発。4日に京都着、水落町(京都市上京区)の堺屋に宿泊。16日、帰還を命じられる。
※以後の消息については、史料が現存せず(もしくは未発見のため)不明。

上記の経歴には、新選組の面々と時期的・地理的に重なる部分がある。
伴四郎が江戸に在勤した頃、近藤勇は江戸の道場(試衛館、試衛場)に住まった。沖田総司や山南敬助など門人、永倉新八や原田左之助など食客たちも、そこに集っていたろう。
中山道の旅は、例えば文久3年(1863)、浪士組が京都へ上る際に彼らも体験している。
また、長州戦争に新選組は従軍しなかったが、近藤勇らが長州潜入を試みて広島から岩国の新湊へ赴いたり、山崎丞と吉村貫一郎が周辺で情勢を探索したり、という事実は史料から窺える。
さらに、伴四郎が京都へ行ったのは、新選組が同地を引き払ったわずか数ヶ月後だった。
つまり、新選組の面々も、伴四郎と同じような景色を見て同じようなものを食べた、と推測可能である。

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本書の内容は、下記のとおり。
(※増補版の目次を参考とした。文字色を変えた章や項目は、増補版にのみ掲載されている。)
第一章 江戸への旅立ち
    江戸と勤番侍/食のクロスロード/勤番侍の江戸生活マニュアル/江戸の酒/
    江戸へ出立/雲助の昼飯/道中の名物
第二章 藩邸と江戸の日々
    江戸最初の外食 そば/江戸の飲料水/手土産の菓子折/伴四郎、政変を知る
    伴四郎と叔父様のお仕事/冬支度と名物おてつ牡丹餅/勤番侍と出入り商人/勤番侍の病気
第三章 男子厨房に入る――江戸の食材と料理
    夏にはどじょう/御鷹の鳩/ずいきと長屋のお付き合い/初出勤とご飯のお供桜味噌
    酒の肴にはまぐりを/ぼらの潮煮/風邪を理由に豚鍋/おやつのさつま芋/かしわとすいとん/
    お土産にうなぎ/倹約家の食材 豆腐/料理自慢と五目ずし/自炊の基本 飯炊き/炊事当番
    飯炊きの東西/料理道具をそろえる
第四章 叔父様と伴四郎
    叔父様の食い意地/人参の煮物/伴四郎のやりくり
第五章 江戸の楽しみ
    三味線の稽古/長屋の酒盛り/鮨/大名見物/愛宕山から江戸を見る/江戸見物と名物/
    浅草のおばけと穴子の甘煮/吉原のおいらん道中と両国/清涼飲料/寄席・芝居・虎見物/
    伴四郎のおしゃれと菊見物/家庭料理/庭園都市江戸/江戸異人見物/横浜異人見物/
    銭湯は庶民の娯楽場
第六章 江戸の季節
    和菓子の儀式「嘉定」/七夕のそうめん/季節の味覚 梨/月見団子/食の節目/
    精進落しのさけ/酉の市と雁鍋/寒入りの餅と酒盛
第七章 江戸との別れ
    送別会の日々/伴四郎大変/和歌山へ
終章  伴四郎のその後
    竹の子でご挨拶/伴四郎日光へ行く/節句のおもてなし/はまち料理とやけ呑み/
    第二次長州戦争への出陣/明治直前の京都へ行く

コラム 江戸の味・調味料
    下り物と酒
    陰暦と太陽暦
    勤番侍の燃料事情

食生活を中心とした伴四郎の暮らしぶりや、その背景となった世相・文化などが解説されている。
◆日々の食事… 費用節約のため自炊中心。「男子厨房に入らず」などという、つまらないこだわりはない様子。煮売り屋の総菜を買うこともある。時には外食を楽しんだり、酒食の接待を受けたり。旅の途中や外出先では、その土地の名物を味わっている。
◆藩邸長屋での生活… 食材・飲料水・燃料の確保、衣類の調達、銭湯通い、金銭のやりくり、同僚や出入り商人とのつきあい、余暇を利用した習い事、芝居・見世物・名所の見物。市中や横浜で外国人を見かけた体験もある。
◆勤務の様子… 伴四郎の役職は衣紋方。朝から晩まで長時間の勤務に及ぶ日もあるが、どちらかというと出勤しない日のほうが多い模様。名所見物に出かけたり、昼から飲酒したりするのも、結局は暇だから。
◆周囲の人々との関係… 例えば、宇治田平三は伴四郎にとって叔父・上司・長屋の同居人であるが、彼との生活はかなり気詰まりの様子。せっかく作り置きした総菜をいつのまにか叔父に食べられてしまい、憤慨・落胆する心理も窺える。こうした人間関係は、昔も今も変わらない。
◆当時の世相… 武家社会あるいは庶民の季節行事、風俗や流行、物価。江戸と京坂との習俗のちがい。

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普通に読んでも面白いが、新選組の面々も似たような生活をしていたのでは、と想像しながら読むとなお楽しい。
とりわけ心に残った要素が、いくつかある。例えば――

原田左之助は、伊予松山を出奔する前、藩の命令により江戸に在勤した。
安政2年、16歳の頃からおよそ2年間、三田の松山藩中屋敷にて若党を務めたという。
伴四郎とは藩の違いや身分の違いがあるものの、勤番生活には共通点もあったと推測される。

慶応4年4月、伴四郎は京都へ出張した。
3~4日の短い滞在ながら、京都観光を楽しんでいる。
訪れた場所は、北野天満宮、平野神社、金閣寺、祇園社、知恩院など多数。
その中に、黒谷の金戒光明寺がある。ほんの数ヶ月前まで会津藩が本陣を置いていた場所であり、惜しいニアミスと思った。
また、誓願寺も拝観した様子。幕末期の住職・孫空義天が近藤勇と親しく、近藤の首級埋葬にも関わったという説がある。ただし、真偽のほどは定かでない。

当時、土産や記念の品として猪口(酒器)が好まれた、という話が出てくる。
陶磁器は、地域によるバリエーションが豊かであり、見栄えもそこそこ良い。
中でも、茶碗や皿に比べ小ぶりで邪魔にならない、猪口が適していたのだろう。
ちなみに、「土方歳三の京土産」と称する茶碗のセットが、佐藤彦五郎家に伝わっている。
「景徳鎮の茶器」だそうで、白地に紅色の花が描かれ、美麗なデザインである。
サイズは、大きめの猪口というか、ぐい呑みに近い。
この手の陶磁器が土産に好適とされたことの、ひとつの証左と思える。

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本書の元となったのは、2000年4月から2003年3月、NHK出版『男の食彩』(のち『食彩浪漫』)に連載された「幕末単身赴任 下級武士の食生活」である。これに大幅な加筆・訂正を行い、書籍化された。
2005年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記』と題し、日本放送出版協会より生活人新書として刊行。
2016年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』が、ちくま文庫として刊行。
旧版との違いは、おおよそ以下のとおり。
  • 後から発見・出版された史資料を交えて、新しい章や項目を追加(上記)。
  • 「はじめに」後半の【文庫版によせて】、巻末の「文庫版あとがき」を追加。
  • いくつかの項目名は、若干ながら語句を変更されている。
  • 旧版の誤りを訂正した箇所がある(※著者説明による)。

土山しげるのマンガ「勤番グルメ ブシメシ!」にも触れておく。
原作・酒井伴四郎、協力・青木直巳として、月刊『コミック乱』に連載される短編。
開始当初のタイトルは「幕末単身赴任 ブシメシ!」だったが、途中で解題された。
日記に記された酒井伴四郎の生活を、そのまま淡々とマンガ化しており、視覚的にわかりやすい。
リイド社より単行本(SPコミックス)が第2巻まで刊行されている。

ちなみに、青木直巳のエッセイ「食乱図会」も、同じく『コミック乱』に連載されている。
江戸の旬な食材を毎回ひとつ取り上げ、歴史的に解説しており、勉強になる。

テレビドラマ「幕末グルメ ブシメシ!」は、マンガ版を原作として制作された。
ストーリーはかなり脚色され、独自の展開を見せる。
フィクションの要素が強くなったためであろう、主人公の名前は酒井伴四郎でなく「酒田伴四郎」、所属は紀州藩でなく架空の「高野藩(こうやはん)」など、設定がずいぶん変更されている。
第1シーズンは、2017年1~2月、NHK BSプレミアムにて全8回放送。同年6~7月、NHK総合にて全6回に編集・放送された。
第2シーズンは、2018年1~2月、同じくNHK BSプレミアムにて全7回が放送された。

幕末単身赴任
下級武士の食日記
増補版 (ちくま文庫)
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勤番グルメ ブシメシ!
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勤番グルメ ブシメシ!
おかわり
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