新選組の本を読む ~誠の栞~

小説 史談 エッセイ マンガ 研究書など

 ご当地グルメ 誠メシ! 

前回「しんせんぐルメ 誠メシ!」に続き、新選組と食の話。
今回は、特定の地域や老舗の名産品にかかわる説を挙げてみる。

たまごふわふわ
近頃「近藤勇はたまごふわふわが好物だった」という説を、よく見かけるようになった。

たまごふわふわとは、泡立てた玉子と出汁をまぜ蒸した料理で、江戸時代から存在した。
2004年のNHK大河ドラマに「食べたいものはありますか」「たまごふわふわ」というツネと勇の会話があった。これがきっかけで広まった気がするが、その少し前から流布するようになっていたと思う。

このたまごふわふわ、東海道・袋井宿(静岡県袋井市)の名物料理であった。
袋井観光協会の説明によると、文化10年、大阪の豪商・升屋平右衛門が記した「仙台下向日記」に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載った、とあるそうだ。
現在、袋井市観光の目玉のひとつとなっており、市内の複数の飲食店で提供される。

袋井宿には、近藤勇も宿泊している。
江戸出張から京都へ戻る途中、元治元年10月26日のことであったと、東海道石部宿歴史民俗資料館(滋賀県湖南市)が所蔵する旧本陣小島家の宿帳に記載されているとか。
袋井宿に泊まったのなら、当地の名物料理を供された可能性も考えられよう。

ただし、実際に食べたという記録は発見されていない様子。
その可能性を否定するつもりはない。ただ、「好物」とするには根拠が弱いのではなかろうか。

ナマズ料理
近藤勇に関しては「ナマズが好物」という説もある。

2014年9月19日放送のNHK「キッチンが走る!」は、「発見!近藤勇も愛したユニーク食材 ~埼玉・江戸川中流域~」と題する内容だった。
番組中、吉川市内のナマズ養殖業者が「近藤勇も当地の料亭に来てナマズを食べた」と語った。

調べたところ、地元の老舗料亭が「近藤勇、勝海舟、板垣退助などの歴史的著名人も当店の料理を楽しんだと言われています」とPRしていることがわかった。

しかし残念なことに、いつどのような状況だったのか、具体情報が提示されていない。
事実とすれば、慶応4年、綾瀬の五兵衛新田から流山へ転陣する頃だろうか。
また、ナマズを食べたのが事実としても、「好物」「愛した」とまで言えるものだろうか。

上記以外にも、近藤勇が「おせきもち(京都市伏見区)」を訪れたとか、土方歳三が「お秀茶屋(会津若松市東山町)」を訪れた、とかいった伝承もある。

こうした話には、なかなか興趣を誘われる。
機会があればそれを食べてみよう、と思いたくもなる。
ただ、史実と断定できるかどうかは、また別の問題と捉えたい。

卵のふわふわ
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 しんせんぐルメ 誠メシ! 

新選組の隊士たちは、日々どんなものを食べていたろうか。

こういう些細なことが、意外とわかりにくい。
大きな出来事はともかく、ありふれた日常を記録に残そうとする人物が、隊内や周辺にいなかったためだろう。
前回『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を紹介するにあたり、改めて調べてみたが、確実と思える情報は見つからなかった。

とは言え、手がかりは皆無ではない。目についた事柄をいくつか挙げてみよう。

みそづけ
沖田総司が宮川音五郎(近藤勇の実兄)に宛てた、慶応3年11月12日付の書簡がある。
その一節に「何より之味噌漬被下、難有奉存候」と、味噌漬けをもらったことへの謝辞が記される。

この味噌漬けは、江戸へ出張した土方歳三と井上源三郎が京都へ戻る際、音五郎が托したものらしい。
わざわざ持たせるからには、沖田(あるいは近藤らも含めた面々)の好物だったのだろう。
ただ残念ながら、何を漬けたものか明記がない。野菜、魚肉、それ以外……想像をめぐらすのみである。
(※参考『土方歳三・沖田総司全書簡集』

あひる
慶応3年元旦、伊東甲子太郎が永倉新八と斎藤一、そのほか腹心たちを引き連れて島原の角屋へ出かけた。
その日、廓内は休みであったので、「途中から家鴨十羽買い込み」持っていった。

この家鴨を料理させて、酒肴とする意図であったようだ。
生憎と調理法は不明だが、焼き物にでもしたのだろうか。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

うなぎ
戊辰戦争が続いていた頃のこと。
永倉新八は、同志の芳賀宜道と連れ立って、米沢から東京へ密かに舞い戻った。
浅草へ着いて山野の重箱で久しぶりで江戸前の鰻で」腹を満たした、という。

「重箱」とは、寛政年間から続く蒲焼きの老舗。現在は、赤坂で本格的料亭として営業しているとか。
永倉らがこの店へ立ち寄ったのは、店の者と顔見知りだったなど、安心できる理由があったのだろう。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

たくあん
小野路の小島家に伝わる逸話。
土方歳三は、小野路・橋本家の自家製の沢庵が大好きで、訪問のたび山盛りの沢庵をパリポリ食べていた。
ある時など、樽ごと担いで帰ったという。

農家が漬け物を作る樽は、かなり大きい。
例えば四斗樽なら、高さも直径も約60センチ、容量は約72リットル。さらに大きいものが使われることもある。
沢庵がぎっしり詰まっていたら、独りで担ぐのは困難なのでは。
小さい樽に移してもらったのか、それとも「これほど好物だった」という誇張が入っているのか。
(※参考『新選組余話』

とろめし
これも小野路の小島家に伝わる逸話。
近藤勇が上溝村の佐藤為彦を訪問した折、先客の鷹取胖斎と会った。
夕食の時、とろめし(とろろかけご飯)の大食い対決をすることになり、ふたりは競って食べた。
近藤は19杯、鷹取は20杯食べて、勝負がつく。負けず嫌いの近藤も兜を脱いだ、という。

上溝村は相模国高座郡(現在の相模原市)であり、小野路村とは近い。
佐藤為彦は、上溝村の名主。小野路の小島家や橋本家、近藤一門とも交流があった模様。
鷹取胖斎は、上溝村在住の蘭方医。佐久間象山の門人であり、師匠に劣らぬ奇人であったと伝わる。
近藤も鷹取もとろめしが好物だったそうだが、それにしてもよくこれだけ食べられたものだ。
(※参考『新選組余話』

伝承の類いは、どこまで正確な事実なのか、検証が難しい。
しかしながら、当人と面識・交流のあった人々が伝えた話は、それなりの信憑性を感じさせる。

小野路 小島資料館の門
↑小野路 小島家(小島資料館)の門

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 青木直巳『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 

幕末の江戸における食文化の解説書、一般向けの教養書。
紀州藩士・酒井伴四郎の日記から、当時の下級武士の日常生活を読み取る。
史料の解題・解説書でもあるが、原文引用は少なめで、平易な内容となっている。

予めお断りするが、本書に新選組は登場しない。
しかしながら、彼らの日常生活の一端を知る参考として役立つので、取り上げることにした。

日記を残した酒井伴四郎は、新選組と同時代に実在した、紀州和歌山藩の藩士である。
現存する日記は、限られた期間のみであるものの、多くの貴重な情報が読み取れる。
史料から窺える伴四郎の経歴は、おおよそ以下のとおり。

◆万延元年(1860)… 伴四郎28歳。江戸勤番を命じられ、妻子を残して単身赴任。5月11日に和歌山を出発、大坂や伏見を経由、中山道をたどる。同月29日に江戸着、赤坂紀国坂にある中屋敷の長屋に入る。
◆文久元年(1861)… 江戸勤番を終える。12月3日に出立、同月18日に帰国。
◆元治2年(1865)… 再び江戸へ。2月22日に和歌山発、24日に京都着、3泊する。3月11日に江戸着。4月11~21日は日光へ出張。5月28日、帰国の途に着く。
◆慶応2年(1866)… 第二次長州戦争に従軍することに。5月27日に出発、9日に広島の本陣へ到着。6月25日、長州との戦闘に参加。9月2日の停戦協定成立により、同月4日に引き上げ、10日に帰国。
◆慶応4年(1868)… 4月、京都へ出張する。4月2日に和歌山発。4日に京都着、水落町(京都市上京区)の堺屋に宿泊。16日、帰還を命じられる。
※以後の消息については、史料が現存せず(もしくは未発見のため)不明。

上記の経歴には、新選組の面々と時期的・地理的に重なる部分がある。
伴四郎が江戸に在勤した頃、近藤勇は江戸の道場(試衛館、試衛場)に住まった。沖田総司や山南敬助など門人、永倉新八や原田左之助など食客たちも、そこに集っていたろう。
中山道の旅は、例えば文久3年(1863)、浪士組が京都へ上る際に彼らも体験している。
また、長州戦争に新選組は従軍しなかったが、近藤勇らが長州潜入を試みて広島から岩国の新湊へ赴いたり、山崎丞と吉村貫一郎が周辺で情勢を探索したり、という事実は史料から窺える。
さらに、伴四郎が京都へ行ったのは、新選組が同地を引き払ったわずか数ヶ月後だった。
つまり、新選組の面々も、伴四郎と同じような景色を見て同じようなものを食べた、と推測可能である。

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本書の内容は、下記のとおり。
(※増補版の目次を参考とした。文字色を変えた章や項目は、増補版にのみ掲載されている。)
第一章 江戸への旅立ち
    江戸と勤番侍/食のクロスロード/勤番侍の江戸生活マニュアル/江戸の酒/
    江戸へ出立/雲助の昼飯/道中の名物
第二章 藩邸と江戸の日々
    江戸最初の外食 そば/江戸の飲料水/手土産の菓子折/伴四郎、政変を知る
    伴四郎と叔父様のお仕事/冬支度と名物おてつ牡丹餅/勤番侍と出入り商人/勤番侍の病気
第三章 男子厨房に入る――江戸の食材と料理
    夏にはどじょう/御鷹の鳩/ずいきと長屋のお付き合い/初出勤とご飯のお供桜味噌
    酒の肴にはまぐりを/ぼらの潮煮/風邪を理由に豚鍋/おやつのさつま芋/かしわとすいとん/
    お土産にうなぎ/倹約家の食材 豆腐/料理自慢と五目ずし/自炊の基本 飯炊き/炊事当番
    飯炊きの東西/料理道具をそろえる
第四章 叔父様と伴四郎
    叔父様の食い意地/人参の煮物/伴四郎のやりくり
第五章 江戸の楽しみ
    三味線の稽古/長屋の酒盛り/鮨/大名見物/愛宕山から江戸を見る/江戸見物と名物/
    浅草のおばけと穴子の甘煮/吉原のおいらん道中と両国/清涼飲料/寄席・芝居・虎見物/
    伴四郎のおしゃれと菊見物/家庭料理/庭園都市江戸/江戸異人見物/横浜異人見物/
    銭湯は庶民の娯楽場
第六章 江戸の季節
    和菓子の儀式「嘉定」/七夕のそうめん/季節の味覚 梨/月見団子/食の節目/
    精進落しのさけ/酉の市と雁鍋/寒入りの餅と酒盛
第七章 江戸との別れ
    送別会の日々/伴四郎大変/和歌山へ
終章  伴四郎のその後
    竹の子でご挨拶/伴四郎日光へ行く/節句のおもてなし/はまち料理とやけ呑み/
    第二次長州戦争への出陣/明治直前の京都へ行く

コラム 江戸の味・調味料
    下り物と酒
    陰暦と太陽暦
    勤番侍の燃料事情

食生活を中心とした伴四郎の暮らしぶりや、その背景となった世相・文化などが解説されている。
◆日々の食事… 費用節約のため自炊中心。「男子厨房に入らず」などという、つまらないこだわりはない様子。煮売り屋の総菜を買うこともある。時には外食を楽しんだり、酒食の接待を受けたり。旅の途中や外出先では、その土地の名物を味わっている。
◆藩邸長屋での生活… 食材・飲料水・燃料の確保、衣類の調達、銭湯通い、金銭のやりくり、同僚や出入り商人とのつきあい、余暇を利用した習い事、芝居・見世物・名所の見物。市中や横浜で外国人を見かけた体験もある。
◆勤務の様子… 伴四郎の役職は衣紋方。朝から晩まで長時間の勤務に及ぶ日もあるが、どちらかというと出勤しない日のほうが多い模様。名所見物に出かけたり、昼から飲酒したりするのも、結局は暇だから。
◆周囲の人々との関係… 例えば、宇治田平三は伴四郎にとって叔父・上司・長屋の同居人であるが、彼との生活はかなり気詰まりの様子。せっかく作り置きした総菜をいつのまにか叔父に食べられてしまい、憤慨・落胆する心理も窺える。こうした人間関係は、昔も今も変わらない。
◆当時の世相… 武家社会あるいは庶民の季節行事、風俗や流行、物価。江戸と京坂との習俗のちがい。

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普通に読んでも面白いが、新選組の面々も似たような生活をしていたのでは、と想像しながら読むとなお楽しい。
とりわけ心に残った要素が、いくつかある。例えば――

原田左之助は、伊予松山を出奔する前、藩の命令により江戸に在勤した。
安政2年、16歳の頃からおよそ2年間、三田の松山藩中屋敷にて若党を務めたという。
伴四郎とは藩の違いや身分の違いがあるものの、勤番生活には共通点もあったと推測される。

慶応4年4月、伴四郎は京都へ出張した。
3~4日の短い滞在ながら、京都観光を楽しんでいる。
訪れた場所は、北野天満宮、平野神社、金閣寺、祇園社、知恩院など多数。
その中に、黒谷の金戒光明寺がある。ほんの数ヶ月前まで会津藩が本陣を置いていた場所であり、惜しいニアミスと思った。
また、誓願寺も拝観した様子。幕末期の住職・孫空義天が近藤勇と親しく、近藤の首級埋葬にも関わったという説がある。ただし、真偽のほどは定かでない。

当時、土産や記念の品として猪口(酒器)が好まれた、という話が出てくる。
陶磁器は、地域によるバリエーションが豊かであり、見栄えもそこそこ良い。
中でも、茶碗や皿に比べ小ぶりで邪魔にならない、猪口が適していたのだろう。
ちなみに、「土方歳三の京土産」と称する茶碗のセットが、佐藤彦五郎家に伝わっている。
「景徳鎮の茶器」だそうで、白地に紅色の花が描かれ、美麗なデザインである。
サイズは、大きめの猪口というか、ぐい呑みに近い。
この手の陶磁器が土産に好適とされたことの、ひとつの証左と思える。

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本書の元となったのは、2000年4月から2003年3月、NHK出版『男の食彩』(のち『食彩浪漫』)に連載された「幕末単身赴任 下級武士の食生活」である。これに大幅な加筆・訂正を行い、書籍化された。
2005年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記』と題し、日本放送出版協会より生活人新書として刊行。
2016年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』が、ちくま文庫として刊行。
旧版との違いは、おおよそ以下のとおり。
  • 後から発見・出版された史資料を交えて、新しい章や項目を追加(上記)。
  • 「はじめに」後半の【文庫版によせて】、巻末の「文庫版あとがき」を追加。
  • いくつかの項目名は、若干ながら語句を変更されている。
  • 旧版の誤りを訂正した箇所がある(※著者説明による)。

土山しげるのマンガ「勤番グルメ ブシメシ!」にも触れておく。
原作・酒井伴四郎、協力・青木直巳として、月刊『コミック乱』に連載される短編。
開始当初のタイトルは「幕末単身赴任 ブシメシ!」だったが、途中で解題された。
日記に記された酒井伴四郎の生活を、そのまま淡々とマンガ化しており、視覚的にわかりやすい。
リイド社より単行本(SPコミックス)が第2巻まで刊行されている。

ちなみに、青木直巳のエッセイ「食乱図会」も、同じく『コミック乱』に連載されている。
江戸の旬な食材を毎回ひとつ取り上げ、歴史的に解説しており、勉強になる。

テレビドラマ「幕末グルメ ブシメシ!」は、マンガ版を原作として制作された。
ストーリーはかなり脚色され、独自の展開を見せる。
フィクションの要素が強くなったためであろう、主人公の名前は酒井伴四郎でなく「酒田伴四郎」、所属は紀州藩でなく架空の「高野藩(こうやはん)」など、設定がずいぶん変更されている。
第1シーズンは、2017年1~2月、NHK BSプレミアムにて全8回放送。同年6~7月、NHK総合にて全6回に編集・放送された。
第2シーズンは、2018年1~2月、同じくNHK BSプレミアムにて全7回が放送された。

幕末単身赴任
下級武士の食日記
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 太田俊穂『血の維新史の影に』 

史話集。副題『明治百年のため』。
南部盛岡藩士の子孫てある著者が見聞した、維新史にまつわる話の数々。

先日、書店でムック本『文藝春秋でしか読めない幕末維新』を見かけた。
明治150年を控えた企画ものの臨時増刊。本誌『文藝春秋』に創刊以来(1923~)掲載された幕末維新関連の記事の中から選りすぐったものを再録している。(※一部、別冊誌からの再録や書き下ろしもある。)
>> 文藝春秋 公式サイト『文藝春秋でしか読めない幕末維新』

面白そうな記事が多い中で、特に巻末のコラム「生きていた新選組」に目を引かれた。
初出は『文藝春秋』1964年11号。
執筆者の太田俊穂が、奥田松五郎という老人との交流について、思い出を書き記した内容。
この奥田老は、新選組について詳しく知っており、周囲から「新選組の生き残り」と噂されていた。

執筆者・太田俊穂は、1910年(明治42)、岩手県盛岡市生まれ。毎日新聞記者、岩手日報編集局長、岩手放送社長・会長などを歴任する一方、郷土史家として多くの著作を遺す。1988年(昭和63)に世を去った。

太田が奥田老を見かけたのは、自身が小学生の時、大正6~7年頃であったとか。
その後、新聞記者となってから親しい交際か始まり、自宅を訪問しては話を聞いた。
奥田老が狭心症のため亡くなったのは、1931年(昭和6)11月。墓碑には行年82とあるが、本当の年齢はわからずじまい。生前に太田が質問しても、口を濁して答えなかったという。

現今、奥田松五郎の経歴はそこそこ明らかになっている。
1854年(嘉永7)、幕臣・奥田萬吉の長男として江戸に生まれた。
父の萬吉が福野流柔術の達人であったため、松五郎も幼少期から柔術をはじめ武道を学ぶ。
やがて柔術家として活躍、1884年(明治17)に「奥田流柔術」を興した。
1893年(明治26)、岩手県知事・服部一三の招きで同県に移住。警察署や中学校などで指導にあたる。
1931年(昭和6)11月29日、78歳で死去。

嘉永7年=安政元年生まれということは、新選組隊士・市村鉄之助と同年齢である。
「生きていた新選組」によると、奥田老は沖田総司や藤堂平助を友達扱いしていたそうだが、実際は10歳ほど差があるわけで、同輩ではありえない。
奥田老の話は他にも、坂本龍馬暗殺を新選組の犯行とするなど、不可解な点があったという。
おそらく彼自身は新選組隊士ではなかった。ただ、誰か旧隊士と知り合って話を聞き、ある程度の内情を知る機会があったのではなかろうか。

奥田松五郎が新選組隊士ではなかったとしても、その証言は面白い。
彼について太田俊穂がさらに詳しく書いたものがあったはず、と押し入れを探したら本書が出てきた。
以前どこかの古書店で入手したもので、函はすでに失われ本体のみだった。
内容は、以下の15章から成っている。

序章・万亀女覚え書
万亀(まき)は、太田俊穂の母方祖母。1853年(嘉永6)、盛岡藩士・毛馬内家に生まれ、1926年(大正15)に他界した。「平民宰相」原敬とは幼なじみ。万亀の祖父が天狗党鎮圧に出征したこともあった。
太田はこの祖母に可愛がられ、彼女から幕末維新期や明治期のことを多く聞いたという。

黒髪と血と懐剣
万亀の叔母・由亀(ゆき)は、かなりの美人だったが、戊辰戦争で婚約者を亡くし、1年後に自害した。
遠縁の家には、歌子という美女がいた。戊辰戦争直後、新政府軍の肥前出身の隊長に力ずくで迫られた結果、心を病んでしまい、やはり自害したという。

夕映えの武士たち
戊辰の年、藩論がまとまらず揉める盛岡藩の様子と、万亀が目撃した藩士らの斬り合い。
万亀の祖父、大叔父、父といった親族の人となりと、戊辰戦争時の動向。

桜田門外の変に
若き盛岡藩士・福田金八が、井伊直弼暗殺計画に関わり、謎の自刃を遂げた一件。
その後輩・竹林由太郎(万亀の義兄)は、福田の関与を知っていたものの、問われても明かさなかった。
また、桜田門外の変後、庶民の間で流行った戯れ歌、戯れ句のこと。

最後の戊辰戦争
盛岡藩の戊辰戦争。秋田藩との戦いの様子を、生き残り藩士が生々しく証言している。
白兵戦において戸田一心流の剣を振るい、勇名を馳せた竹林由太郎の奮戦ぶり。

白萩の庭
竹林由太郎の屋敷の庭には、秋になると白い萩の花が見事に咲き誇った。
その屋敷に妻を残して出陣した由太郎は、激戦の中で行方知れずとなる。
ところが、3ヶ月後に舞い戻り、無法を働いた官兵3人を斬って、妻に「箱館へ渡って戦う」と別れを告げ去ったという。

老残の鐘楼守り
盛岡城址の鐘楼に独り住まう、鐘守りの老人・釜沢功一郎。著者の太田が、釜沢から聞いた思い出話。
若き日、盛岡藩士として江戸に詰めていた時、薩摩の無法な「不逞浪士」たちに無我夢中で立ち向かう。
国元へ戻り、秋田藩との戦い、敗戦を経て、明治期には県会議員を務めもした。

家老絶命記
盛岡藩の主席家老であった楢山佐渡の生涯。
京都で天下の情勢を目の当たりにしていた彼が、徹底抗戦と秋田藩攻撃を決断した理由は何だったか。
敗戦後、「反逆の首謀者」とされ、刎首(形式的には切腹)に処される。

介錯人無惨
楢山佐渡の介錯をした江釣子源吉は、弱冠23歳でありながら、戸田一心流の遣い手であった。
上司への敬意と労りから介錯役を願い出たものの、その体験に深く心を痛める。

原敬「賊名」を雪ぐ
大正6年9月8日、盛岡で戊辰戦争殉難者50年祭が開催された。場所は、楢山佐渡が亡くなった報恩寺。
当時の政友会総裁・原敬が事実上の祭主となり、南部家当主・利淳(旧盛岡藩主の次男)に続き、祭文を奉読。
祭文は簡潔ながら、戊辰戦争は政見の相違から起きた争いであり、我々はただ戦いに敗れたに過ぎず、「賊名」をこうむる理由はない、とした。「悲劇と恥辱の歴史に対する決別の宣言」であった。

三人の天狗党
元治元年3月、筑波山に挙兵した天狗党の中に、3人の盛岡脱藩士がいた。
蛇口安太郎は討死し、山田一郎と佐藤継助は捕えられ処刑されたという。
蛇口や山田の人柄を知る万亀は、当時12歳。彼らがそのような挙に加わったとは信じられなかった、と語る。

筑波山の青春像
山田一郎が、盛岡を脱藩し天狗党の参画者となるまでの経緯。
仙台藩の重臣・遠藤文七郎や、出羽の志士・清河八郎とも交流があった。清河の横浜襲撃計画に協力するも頓挫し、筑波挙兵に加わる。豪商を襲い軍資金を要求した所業が、悪名となって後々までつきまとう。

挫折と刑場への道
前章に続いて、山田一郎の天狗党への加盟と分裂。
軍資金横領の嫌疑をかけられ、佐藤継助とともに江戸町奉行所へ自訴。盛岡藩へ引き渡され、斬首に処された。
また、蛇口安太郎は那珂湊の激戦で戦死する。
3人とも20代であった。

新選組の残映
新選組の生き残りと噂された奥田松五郎のこと。
「生きていた新選組」と共通の部分もあるが、より詳述されている。
盛岡出身の新選組隊士・吉村貫一郎にも触れている。

雨に消えた彰義隊
前章に続いて、奥田松五郎のこと。やはり「生きていた新選組」と共通の部分がある。
奥田は、慶応4年の江戸帰還後、新選組を出て彰義隊に合流したと語る。上野の激戦に臨んだ体験談は、そこそこリアリティを感じさせる。
また、盛岡で過ごした晩年について、地元の祭礼でテキ屋と喧嘩になったことなど。

---
半世紀前に出版された本であり、歴史研究として読めば、当然ながら古いところもある。
しかし、幕末から明治を生きた人々の体験・見聞が生々しく伝わってきて、感興を誘われる。
著者の盛岡への郷土愛は深い。
奥羽を覆った戊辰の戦火、奥羽諸藩の受けた「賊名」について、改めて考えさせられた。

本書は1965年、大和書房から刊行された。四六判、ハードカバー、函入り。
それから3年後の1968年が、ちょうど「明治100年」であった。


文藝春秋でしか
読めない幕末維新
(文春MOOK
明治150年)
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 森満喜子『沖田総司幻歌』 

短編小説集。沖田総司、あるいは彼と関わった人々を主人公とする6編を収録。

「百年の霧」
京都市、西京保健所の保健婦・岡田光子は、放射線技師らとレントゲン車で集団検診に向かった。
ところが、濃い霧に包まれ道を見失ったかと思うと、幕末の壬生、新選組屯所に着いてしまう。
山崎烝の出迎えを受け、隊士たちの胸部レントゲン撮影をするという、ありえない事態に。
後日、医師の画像読影により、結核に罹患している患者が見つかる。
その患者とは、沖田総司であった。そこで、再検査の必要を伝えることに。
再検査の当日、保健所のスタッフ一同は沖田らの来所を待ち受ける――


いわゆるタイムスリップもの。
保健所の医師として結核を担当した作者自身の経験から、医学的見地に基づいて書かれている。
作者あとがきによると、読者からの手紙に沖田の病状に関する質問が多いこと、現代なら沖田の病気は完全に治せたであろうにと思ったことが、執筆の動機とか。

作中の「現代」は、執筆・発表当時の昭和40年代後半(1970年代前半)。
そのため、新選組の活動期が「100年前」とあったり、女性保健師を「保健婦」と称したり。
ただ、結核治療の基本が抗生剤服用と安静なのは、現在とあまり変わらない様子。

光子をはじめ沖田に関わった人々は、なんとか彼を救いたいと親身になる。
しかし、100年を隔てた霧と「戦い続けたい」という沖田自身の意思に阻まれ、思うにまかせない。
そのもどかしさと無念さ、愛惜の気持ちが、温かくも切ない。

「苔の庭」
山南敬助は、新選組の現状と近藤・土方の組織運営に対し、強い不満を覚えるようになっていた。
その思いを打ち明けられた沖田は、山南の苦悩を理解したものの、共有するまでには至らない。
西本願寺への屯所移転問題をきっかけに、山南は書き置きを残して屯所を去る。
近藤と土方は、沖田に後を追うよう指示。
ただ、周囲の耳目をはばかって、互いの真意を充分に確認することはできなかった。
大津で出会った沖田と山南は、親しく語らった後、連れ立って屯所へ戻るが――


山南の脱走・切腹を主題とする物語。
あのような結末は誰ひとりとして意図せず、ちょっとした行き違いのせいでは――と作者は考え、本作を執筆したという。確かに、山南と土方の間に深刻な確執があったなどとする説は、事実かどうかわからない。
誰も意図しない結末なればこその悲劇に、打ちのめされる沖田の心痛は深い。

西芳寺(苔寺)の緑の苔、その上に舞い落ちる色づいた木の葉の鮮やかな描写が、効果的に使われている。

「京洛早春賦」
文久4年(元治元年)2月3日。壬生寺の節分会には、多くの老若男女が訪れる。
その中には、男女逆転の仮装した人々「お化け」も立ち交じる。
そこで藤堂平助は、わざわざ振袖や娘島田のかつらを借りてきて、誰かを女に仕立てようと言い出す。
女役のくじを引いてしまったのは、皆の期待どおり、沖田総司だった――


「節分おばけ」は、京都町衆の厄払いの風習。
花街では芸妓が仮装で客をもてなす。一般人が参加するコスプレイベントも開催されるとか。
本作は、その風習を取り入れコメディタッチに仕上げた、沖田の武勇談(?)。
気楽に読める話だが、後日談できっちりオチをつけたところが作者の手腕と感じる。

作中では、藤堂平助の名が「兵助」と表記されている。

草創初期の新選組の面々が前途洋々としているさまは、清々しく微笑ましい。

「萩咲く」
新選組隊士・田中寅蔵は、剣術の巧者であり、また非常に律儀な性格でもあった。
ある日、長州系浪士たちと、取り締まろうとした新選組との斬り合いが勃発。
戦いの後、浪士のひとりから最期の願いとして1通の書状を託された田中は、それを高杉晋作に届ける。
高杉は、死者のために単独で訪れた田中に警戒を解く。そして、「西洋列強の日本侵略を防ぐには、勤皇・佐幕の争いを一刻も早くやめて一丸とならなければ」と語る。
これに共鳴した田中は、新選組を攘夷の先鋒たらしめたい、と純粋な善意で考える。
沖田は、帰隊した田中から、いきなり「新選組は方針転換すべき」と説かれて困惑する――


田中寅蔵は実在の隊士。
品行方正で、撃剣師範に就任するほどの腕もあったが、過激な攘夷論を主張して切腹させられたと、西村兼文『新撰組始末記』に記されている。
死亡日は慶応3年4月15日、享年27。作中にも書かれているとおり、辞世の歌を遺した。

新選組は、実際のところ、攘夷の先鋒たらんとして発足した組織である。
「攘夷は日本が列強並みの軍事力を得てから実行する」「指揮は幕府が執る」という幕府の方針を支持した。
対して「攘夷は直ちに実行すべき」「日本が一丸となるため主導権は天皇が握るべき」と主張する勢力がある。
この考え方の違いが、親幕vs.反幕の争いの原因。
新選組は治安部隊として、幕府の方針に逆らう者と戦わなければならなかった。

沖田はどのような政治思想を持っていたのか、理想と行動とのギャップに悩んだりしたことはなかったのか、という読者からの問いをヒントとして、作者は本作を著わしたという。
田中を救いたいと腐心しつつ、彼の主張に賛成することはできない沖田の思いが哀しい。

「はんばあぐ・すてえき」
肥後の松田謹吾は、義兄・松田重助が池田屋事件で沖田総司に斬られたと知り、仇討ちを決意。
京へ上り、一対一の勝負を挑んだものの、あまりに技量が違いすぎ、あっさり退けられてしまう。
帰郷し、厳しい修業を積むうち3年が過ぎて、天下の情勢は大きく変わった。
京から大坂、江戸へと仇敵の消息を求めて、謹吾はようやく沖田の潜伏先を捜し当てる。
千駄ヶ谷へ向かう途中、西洋料理店を見かけ、仇討ちの前に腹ごしらえしようと思い立った。
初めて食べる旨い料理で心身を満たした後、ようやく沖田と対面すると――


松田重助は実在した志士だが、主人公の松田謹吾は架空の人物。
新選組が私情を交えず任務のため戦っていても、相手方の心に怨恨を生むことは少なからずあったろう。
実際の沖田は静穏な療養生活のうちに世を去ったが、もしも謹吾のような人物が押しかけてきたらどうなったかと、作者は想像して本作を書いたという。

闘争の日々の果てに、旧時代とともに世を去っていく沖田。
新時代に新しい生き方を感得し、己の運命を切り開こうとする謹吾。
ふたりの若者の姿が、作者の狙いどおり、時代の交代を象徴している。

美味しいものを食べることは、一見何気ない行為のようであるが、人の体と心を養い、時には人生を変えるほどの力を持つ。
そうした「食の力」を、改めて考えさせる物語でもある。

「翡翠(ひすい)
秋田清之助は、旗本の五男坊。沖田総司とは江戸以来の友人であり、その伝手で新選組に入隊した。
ある日、沖田から女への贈り物を見繕って欲しいと頼まれ、清之助は買い物を手伝う。
沖田は、蘭の花を象った翡翠のかんざしを、費用を顧みず特注するのだった。
男ぶりが良く女性関係の盛んな清之助だが、荒物屋の娘・千枝と知り合い、行く末を真剣に考えるようになる。
ところが、油小路事件が原因となって、千枝から拒絶されてしまった。
新選組の伏見移転後、沖田の体調は目に見えて悪化し、清之助もその症状が肺結核と気づく。
まもなく鳥羽・伏見戦争が勃発。戦列を離れた沖田に代わり、清之助は無我夢中で戦うが――


新選組の慶応元年から4年までの動静を背景に、沖田総司の秘めた恋と、秋田清之助の青春を描く。
清之助は架空の隊士。
家を継ぐことなく、これといった志があるわけでもなく、なんとなく生きる目的を求めている若者。
そんな彼も、新選組に在籍したことで、否応なく動乱の渦中に巻き込まれていく。
そして、命の危機と絶望を乗り越えた末、幸福を得る。

沖田は、秘めた恋を成就させることなく、短い生を終えた。
「相手の親に反対された」と本人は語ったが、病気のため自ら身を引いたのではなかろうか。
その目撃者として配された清之助との対比が、際だっている。
沖田ももっと長く生きられたとしたら、いつか悲恋を忘れられる未来があったろう。
そんな日を迎えることなく他界した沖田への哀惜と、それを象徴する翡翠のかんざしが印象に残る。

作者が以前発表した「旅」では、沖田と愛しあった女との間に遺児がいた。(※『沖田総司抄』に収録。)
子孫筋から聞いた話をもとにした作品であるものの、読者の批判的な感想も寄せられた様子。
作者自身も、本作のほうが沖田の本当の恋に近いと思える、とあとがきに記している。

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本書は、『沖田総司哀歌』(1972)、『沖田総司抄』(1973)に続く、作者の沖田総司短編集の3冊目。
昭和49年(1974)、新人物往来社から単行本(四六判ハードカバー)が刊行された。
再版や文庫化はされていない様子で、もったいなく思える。

沖田総司幻歌


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