新選組の本を読む ~誠の栞~

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 望月三起也『俺の新選組』 

長編マンガ。土方歳三を中心に、浪士組の京都入りから近藤派が新選組を掌握するまでを描く。

人気アクションシリーズ「ワイルド7」を代表作とする望月三起也は、力強いペンタッチ、ダイナミックなアクション、大胆な構図、奇抜なアイディア、シリアスの中にもユーモアを交えたストーリーが特徴的なマンガ家。
その作者が、実力を惜しみなく発揮して描いたのが本作「俺の新選組」である。

連載当時は生憎きちんと読む機会がなく、断片的な印象にとどまったまま時が流れてしまった。
2017年8月~2018年5月、eBOOKJapan「なつかしまんが全話読破」の一環として無料配信された。この機会に読んでみて面白かったので、今回紹介する。

文久3年、中山道の本庄宿。
京を目指す浪士組一行の宿泊地となったこの夜、大事件が起きていた。
芹沢鴨が、近藤勇の宿割りの不手際に腹を立て、宿場の真ん中に大きな焚き火をはじめたのだ。
押っ取り刀で飛び出した土方歳三は、謎の刺客たちに襲撃され、行く手をはばまれてしまう。
あわや大火災か斬り合いかという危機を収拾したのは、芹沢にさりげなく焼き芋を勧めた沖田総司。
試衛館の同志たちは、沖田の不思議な人柄を、仲間ながら改めて称賛する。
一方、芹沢の暴挙を面白がって煽り立てていた新見錦は、騒ぎが鎮火してつまらないと不満がる。
芹沢ひとりが、沖田の並々ならぬ剣才を鋭く見抜いていた。

着京した浪士組は、まもなく江戸へ帰還することになる。
清河八郎と袂を分かった近藤らと芹沢らは、残留を決意。
紆余曲折の末、なんとか一隊をまとめ、会津藩お預かりという地位を獲得する。
しかし、近藤派と芹沢派との間で、隊の実権をめぐる軋轢が顕在化、次第に激しくなっていく。


基本的に、独自の設定や展開を主とする、自由な作品。
特にアクションシーンは、奇想天外なアイディアを迫真の描写で見せる。よく考えれば現実には不可能なことも、なんとなく納得して読めてしまう。時には血腥い残酷シーンもあるものの、全体としては面白い。

実在人物のキャラクター設定にもオリジナリティが加味されている。目立つ特徴としては↓

土方歳三がクールな主役なのに対し、原田左之助が熱血漢の主役タイプに造形された。当時は目新しい。
沖田総司は、目を細めた猫のような印象の若者。つねに柔和な物腰で、すべてを柳に風と受け流す。
藤堂平助は、力士ふうの巨漢で、坊主頭と丸メガネが特徴。島田魁か松原忠司かと思いたくなる。
山崎蒸は、なんと美少女。裕福な商人・山崎屋の娘で、本名お糸。会津藩の重役によって送り込まれた。
 いつも振袖を優雅に着こなしているが、鉄火肌のおてんば。
 潜入捜査のため男子が女に変装、という名目で入隊。屯所でなく自宅で暮らしている様子。
 名前は「山崎嬢」→ヤマザキジョウ→「山崎蒸」という、近藤の勘違いから決まった。
 京都の事情に不慣れな土方たちを助け、幅広い人脈を活かして活躍する。

金も身分もない近藤や土方たちが、強い信念と剣の腕をもって戦い、自らの存在意義を確立していく、というのが全体の大きな流れ。これを主軸として、様々なエピソードが展開される。主な話を挙げると↓

◆江戸にいた頃の回想。試衛館の面々が、花火見物の宴席に乗り込み、ご馳走をただ食いする顛末。
◆反徳川の暗殺集団「黒い狐」30人と、原田・沖田・永倉・藤堂・山南5人との、息詰まる戦い。
◆土方と、そうとは知らず出会った草餅売りの娘との淡い恋。しかし、新見らの陰謀によって悲劇に。
◆土方の命を狙い、江戸から派遣されてきた謎の暗殺者たちの暗躍。
◆博奕で負けて片腕を切り落とされそうになる原田と、救出しようとする仲間たちの葛藤。
◆武装蜂起を企む過激派のアジトに、弱兵ばかりを率いて討ち入る土方の激闘。その窮地に駆けつけるのは……。
◆町人の暮らしを嫌い、武士に憧れて入隊した少年、安吉と留作。しかし、苛酷な運命が待ち受けていた。


本作の土方は、芹沢派の執拗かつ巧妙な嫌がらせに、さんざん煮え湯を飲まされる。
しかし、内紛を起こせば隊の存続が危うくなるので、我慢に我慢を重ねるしかない。
仲間たちは、そんな苦衷を察して助けたり、時にはなぜ反撃しないのかと反発したり。
そうして極限まで屈辱に堪え続けた土方たちが、ここぞというとき一気に無念を晴らすことになる。
そのカタルシスが最大の見どころ。

「俺の新選組」というタイトルには、土方が新選組に賭けた思いと同時に、作者自身が造り上げようとする新選組、という意味も込められている。

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作者の望月三起也は、もともと新選組に対して愛着が深かった様子。
幼少期にチャンバラ映画を見て、新選組はたとえ悪役扱いでもカッコイイと憧れる。
司馬遼太郎『燃えよ剣』(1964)と、それをきっかけとするブームに触れ、本格的に熱中。
子母澤寛の新選組三部作、村上元三『新選組』などの関連書に親しむ。
特に、社会的に軽んじられた者たちが屈辱をバネに意地で成り上がる、という姿に共感。
一方、プロデビューし「秘密探偵JA」(1964)などで好評を博した後、新選組を描こうと考えた。
しかし、出版社からは、前作同様の現代アクションものを要望される。
そこで、新選組に独自のアレンジを加えて「ワイルド7」(1969)を創出するに至った。
やがて、読み切り作品「ダンダラ新選組」(1973-74)を経て、「俺の新選組」(1979)連載を開始。

また、マンガを発表するほかにも、『月刊歴史読本』(新人物往来社)の新選組特集に登場、思いを語っている。
■1980年7月号 …各界著名人が寄せたエッセイ特集「新選組へのメッセージ」(各1頁)に寄稿。
■1989年2月号 …「土方歳三は「ワイルド7」ばりのハードボイルドでなければならない」
 6頁にわたるイラストと文章を交えたエッセイ。
 白刃をふりかざしバイクで疾駆する新選組に、“私にとって新選組は時代劇の「ワイルド7」”とキャプション。
 ほかにも、宮古湾海戦や最後の戦いに臨む土方歳三の姿などが描かれている。
■1999年11月号 …各界著名人のインタビュー&エッセイ(各2頁)に「組織の崩壊と哀感」と題して参加。

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本作「俺の新選組」全42話は、1979年7月~1980年6月『週刊少年キング』(少年画報社)にて連載された。
単行本もたびたび刊行されている。
1980年 少年画報社 ヒットコミックス 全5巻
1989年 勁文社コミックス傑作選 上・下巻
2003年 集英社 ホームコミックス 全3巻
2004年 ホーム社 SHUEISYA HOME REMIX(ムック本) 全3巻
2009年 ぶんか社コミック文庫 上・下巻
2017年 宙出版 ミッシィコミックス 上・中・下巻
2017年 eBookJapan Plus(電子書籍) 全5巻

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本作に先駆けて発表した読み切り作品「ダンダラ新選組」については、以下のとおり。

「ダンダラ新選組」
1973年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に「第1回愛読者賞」エントリー作品として発表。
賄い方として入隊した主人公(架空の人物)が、生き別れの妻子を捜すという秘めた目的のため苦闘する。

「ダンダラ新選組 炎の出発(たびだち)
1974年、『別冊少年ジャンプ』に発表。試衛館一党が京へ上る直前の物語。
天然理心流をつぶそうとする勢力の陰謀に陥った土方歳三が、仲間たちとともに戦い、危機を脱する。

単行本は、朝日ソノラマ サンコミックス(1975)、ぶんか社コミック文庫(2009)など。
また、ミッシィコミックス『俺の新選組』下巻(2017)に、2編とも収録されている。

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作者は2016年4月3日、肺腺がんのため亡くなった。享年77。
2010年、肺がんと診断されるも、治療を受け、執筆活動や趣味のサッカーができるまでに回復していた。
2015年11月、再発。「長くて1年、短くて半年」と余命宣告された事実を公表。
当時、本作の続編として「新選組を題材とする作品を描きたい」と語った。
そもそも「俺の新選組」連載終了も、本人の意向というより、出版社の都合が優先された結果だったらしい。
続編では、箱館戦争の土方歳三を描く構想だったとか。その後、この続編執筆に全力を注いだ様子だが、惜しくも完成に至らなかった。
新選組への情熱を傾ける最中に旅立ったことは、故人にとって幸福であったなら……と祈るのみである。

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俺の新選組 上
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ダンダラ新選組
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 描かれた井上源三郎 

日野市立新選組のふるさと歴史館にて、企画展「没後150年 新選組 井上源三郎 ―八王子千人同心と新選組の幕末維新―」が、2017年12月12日から2018年2月18日まで開催された。
井上源三郎が、新選組草創以来の中核メンバーであり、日野出身であったことは、周知のとおりである。
この企画展は、源三郎の兄・井上松五郎も取り上げつつ、新選組と幕末動乱期を検証する内容だった。

展示構成は、以下のとおり。
1.幕末の日野宿と天然理心流
2.井上松五郎・源三郎兄弟
3.浪士組上洛
4.京都での新選組
5.鳥羽・伏見の戦い
6.八王子千人同心と井上松五郎
7.描かれた井上源三郎

全般に興味深い展示だったが、当ブログ的には最後の「描かれた井上源三郎」に着目した。
小説・映画・マンガなどフィクションにおける、源三郎の人物造形とその変遷が面白い。
要点をまとめると、次のようだった。

(1)創作に登場する新選組と井上源三郎
大正時代から昭和20年代頃のフィクションでは、新選組は「近藤勇とその他一同」扱い。
近藤の脇に土方歳三や沖田総司が配される例はあるが、源三郎を含む他の隊士はあまり重視されない。
登場したとしても、年齢や性格などは作品によってまちまちで、決まったイメージはなかった。

(2)『新選組血風録』と井上源三郎
源三郎の人物像を決定づけたのは、司馬遼太郎の小説『新選組血風録』
作中、源三郎は「老齢凡骨」と形容され、剣才のない老人として描かれる。
史実に創作を混入しリアリティを出す司馬の絶妙なテクニックにより、これが実像と誤解されてしまった。

(3)大河ドラマと新しい井上源三郎像
平成16年のNHK大河ドラマ「新選組!」の頃、マンガやゲームなどの創作もピークに。
当時は、まだ従来作品の設定を流用したものが少なくなかった。
しかしその後、新しいイメージを打ち出す作品が増え、バリエーション豊かになっている。
源三郎についても、実際は年寄りでもなければ弱くもない、ということが知られつつある。
ただ、長年醸成されたイメージが完全に払拭されるには、未だ至っていない。

というわけで、今更ながらに司馬遼太郎の影響力の大きさを思い知った。
土方歳三も沖田総司も、今日のようなイメージが形成され人気者になった流れを遡れば、司馬作品に行き着く。
源三郎もまた同様、とは指摘されるまで意識しなかったが、別にありえない話ではなかったのだ。

ただ、源三郎の場合は土方・沖田と扱いが異なり、いささか残念な感じになってしまった。
小説など創作においては、登場人物が全員カッコよくてもつまらない。
剣客集団・新選組の中に、幹部にもかかわらず強くない人物がいる。お荷物扱いされていたのに、あるとき意外な奮闘を見せる、というエピソードがあれば面白くなる。
作家によってそういう役回りを負わされた結果であろう。

短編集『新選組血風録』のうち、源三郎を主人公とするのは「三条磧乱刃」である。
この1編だけでキャラクターイメージが出来上がってしまったというのは、やはり凄い。
読み返してみて、改めて気づいたことがいくつかある。

【源三郎の外見と年齢】
作中、源三郎は「六十くらい」に見えるが、本当の高齢者ではない。沖田は、43~44歳くらいだと言う。
実のところ、「三条磧乱刃」の慶応元年頃には、37歳である。
これは、作家が事実を知らなかったというより、身内同然の沖田にさえ実際より年嵩に見られているというユーモアなのでは?とも思える。

【源三郎の剣歴】
府中における近藤勇襲名披露の野試合では、源三郎が鉦役を務めたと説明されている。
これは佐藤彦五郎の書簡が伝える事実。ただし、「安政5年」ではなく文久元年のことだ。
また、源三郎が天然理心流の「目録止まり」とあるのは、事実でない。
実際には、嘉永元年(1848)に「切紙」「目録」を受けた後、安政2年(1855)に「中極意目録」、万延元年(1860)に「免許」を授かっている。

【同郷同流出身の絆】
源三郎と近藤・土方・沖田の強い心理的結束が、描かれている。
多摩の郷党と深く結びつき、天然理心流を修業した4人の信頼関係は、江戸以来の同志の中でも別格。
明確な根拠を挙げづらいものの、ほぼ事実ではなかろうか。
例えば、池田屋事件の時、土方が自分の手勢を分け指揮を任せたのは、源三郎である。深い信頼あってこそできたことだろう。そして源三郎の隊は、土方隊よりも早く池田屋に駆けつけ、近藤隊を支援して戦ったという。
また、慶応3年の江戸での隊士募集には、源三郎が土方に同行、補佐している。

フィクションの人物造形に利用される材料は、ほかにもいくつかあると思う。
主要なものを挙げると、こんなところだろうか↓

◆八木為三郎の証言(子母澤寛『新選組遺聞』
(壬生寺で子供と遊んでいる沖田のところへ)井上源三郎というのがやって来ると、「井上さんまた稽古ですか」という。井上は「そう知っているなら黙っていてもやって来たらよかりそうなもんだ」と、忌(い)やな顔をしたものです。井上は、その時分もう四十位で、ひどく無口な、それで非常に人の好い人でした。

証言者は、新選組が最初に屯所を置いた壬生、八木家の子息。
『新選組遺聞』は、昭和4年に単行本が出版され、研究にもフィクションにも多くの影響を与えた。
「三条磧乱刃」にも、この証言は引用されている。

◆井上泰助の証言(井上家の伝承)
おじさん(源三郎)は、ふだんは無口でおとなしい人だったが、一度こうと思い込んだらテコでもうごかないようなところがあった。鳥羽、伏見の戦の時も、味方が不利になったので大坂へ引揚げるため、引けという命令がでたが、戦いを続けてすこしも引かず、ついに弾丸にあたってたおれてしまった。

証言者は、井上松五郎の次男、源三郎にとっては甥。12歳にして新選組に入隊、源三郎の戦死を目撃した。
井上家の伝承は、ご子孫や研究家の谷春雄によって関連出版物に発表されるなどしている。
司馬遼太郎は、取材に日野を訪れ、地元住民から聞き取りをしたことがある。

◆川村三郎の書簡
井上源三郎 同(戊辰正月)三十七、八歳。武州八王子同心ノ弟ニテ、近藤土方等ト倶ニ新撰組ヲ組織セシ人ナリ。依テ副長助勤ト名称シ局長会議ニ参与スル務ナリ。併シ乍ラ文武共劣等ノ人ナリ。

証言者は元新選組隊士、在隊時は近藤芳助と名乗る。元治元年の入隊時には22歳。
明治39年頃、高橋正意からの問い合わせに回答した。その返書が、京都府立総合資料館所蔵『新撰組往事実戦譚書』として現存する。存在が広く知られたのは、昭和47年、研究家の石田孝喜によって紹介されて以来。
司馬遼太郎が先んじて読んでいたどうか不明だが、可能性は否定できまい。
記述された年齢は、実際の40歳よりやや若い。前歴は、そこそこ正確。
しかし、「文武共劣等」のくだりは「三条磧乱刃」を裏づけるかのよう。
あんまりな評価と思うが、このように見られる場合もあった、とは言えるのかもしれない。

フィクションが史実に縛られる必要はなく、自由に創作されてよいと思う。
そしてまた、受け手は、虚実ない交ぜであることを踏まえた上で楽しめばよい。
本項で小説と史実とを対照してみたのは、単に共通点や相違点が興味深いからであって、「史実に反するフィクションは良くない」などという意図は全然ない、念のため。

それはそれとして、源三郎の従来イメージでも「温厚篤実で周囲から慕われる」という面は決して悪くない。
こういう彼を主人公に据えたフィクションもある。例えば、比較的新しい小説では、秋山香乃『新撰組捕物帖』『諜報新撰組 風の宿り』、小松エメル「信心」(『夢の燈影』所収 )など。
主役ならずとも名脇役として描かれる例は、さらに多くある。
今後、我らが愛すべき「源さん」のイメージがどのように変遷していくのか、見届けたいと思う。

週刊司馬遼太郎
(週刊朝日MOOK)
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 山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』 

副題『「伊庭八郎征西日記」を読む』。
文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。

伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。

この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。

本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。

第一章 将軍とともに上洛      元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個    元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ        元治元年(1864)5月
第五章 お役御免          元治元年(1864)6月

それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。

日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。

『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。

またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。

余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。

それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。

例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。

八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。

勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。

細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?

ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。

本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。

【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。

【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。

いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。

この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。

本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。

幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書)
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 立って歩いて? 誠メシ! 

しんせんぐルメ 誠メシ!」「ご当地グルメ 誠メシ!」に続いて、新選組と食の話。
しつこいようで恐縮だが、今回でひとまず終わるので、ご容赦いただきたい。

食について語る時、何に目を向けるべきだろうか。
どのような食材をどのように調理して食べるかは、もちろん肝要だ。
ただ、それ以外にも大切なことがあるように思う。

『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を読んで、感銘を受けた。
酒井伴四郎がいつ何を食べたにとどまらず、当時の食文化や周辺事情にまで言及しているからだ。
例えば、日本の中で江戸が「食のクロスロード」たり得た理由、そのひとつは参勤交代制にある――という解説など、歴史を理解する上で非常に興味深く勉強になる。

ところで近頃、あるフィクション系の出版物を見かけた。
その中で、新選組隊士らしき人物が、往来を歩きながら何やら食べている。
日常の一コマを描いたものらしく、同様の場面が複数散見される。
新選組を貶す意図はないとわかるし、フィクションにいちいちリアリティを求めるのも野暮と思う。
ただ、その出版物は単純な娯楽作品にとどまらず、史実や時代考証もいくらか重視している様子なので、いささか残念な気分になった。

通常、歴としたサムライが歩き食いをするとは、考えにくい。
庶民ならば、屋台などで立ち食いするし、事によったら歩き食いすることもあるかもしれない。
しかし、サムライは違う。屋外で飲食する場合も、適当な場所に坐るなり、やむなく立っていても歩き回らないようにするなり、注意を払うはずである。

具体例として、実在の人物・江原素六の回顧談を挙げる。
彼は、下級の幕臣に生まれたが、才能によって抜擢され、講武所の砲術方教授、撒兵隊の隊長などを務めた。
維新後は教育者、政治家として活躍し、麻布学園を創立。キリスト者として布教に携わってもいる。

素六が子供の頃、生家は微禄で非常に貧しく、楊枝削りの手内職で家計を支えていた。
ある時、父と楊枝を納品に行った帰り、いなり寿司が食べたくてたまらなくなる。
「小用を足したい」と言い繕って後に残り、道端の屋台でいなり寿司を買った。
そして一口頬ばった瞬間、父に殴られた。先に帰ったと思った父が、いつのまにか見ていたのだ。
さらに帰宅後、母にもひどく叱られた。
空腹でも耐えるのが武士であり、我慢できずに往来で食べるなど卑賤な者の行い、というわけである。

(※参考:司馬遼太郎『歴史と視点』所収「黒鍬者」)

素六は、往来で立ち食いしようとしたため、武士の行動としてふさわしくない、と叱られてしまった。
まして歩きながら食べるなどは、ありえない。
たとえ生活が貧しくとも、サムライにはサムライとして守るべき品格や礼節があったのだ。

新選組について、行儀などかまわない粗野な連中、という見方もあるかもしれない。
実際、永倉新八は、戦いの最中、路上に落ちていた切り餅を拾って呑み込んだ、という体験談を遺した(※『新選組興亡史』)。
ただ、これもあくまで非常時のことで、日常的に拾い食いや歩き食いをしてはいなかったろう。
新選組が武士の精神を重んじる集団である以上、それなりの行動規範があったはずだ。

当時の人々が、どのような社会にどのような意識を持って生活していたか。
実像を知ろう、伝えようとするなら、そうした背景も視野に入れておくことが望ましいと思う。

遺聞 市川・船橋戊辰戦争
―若き日の江原素六
‐江戸・船橋・沼津
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 ご当地グルメ 誠メシ! 

前回「しんせんぐルメ 誠メシ!」に続き、新選組と食の話。
今回は、特定の地域や老舗の名産品にかかわる説を挙げてみる。

たまごふわふわ
近頃「近藤勇はたまごふわふわが好物だった」という説を、よく見かけるようになった。

たまごふわふわとは、泡立てた玉子と出汁をまぜ蒸した料理で、江戸時代から存在した。
2004年のNHK大河ドラマに「食べたいものはありますか」「たまごふわふわ」というツネと勇の会話があった。これがきっかけで広まった気がするが、その少し前から流布するようになっていたと思う。

このたまごふわふわ、東海道・袋井宿(静岡県袋井市)の名物料理であった。
袋井観光協会の説明によると、文化10年、大阪の豪商・升屋平右衛門が記した「仙台下向日記」に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載った、とあるそうだ。
現在、袋井市観光の目玉のひとつとなっており、市内の複数の飲食店で提供される。

袋井宿には、近藤勇も宿泊している。
江戸出張から京都へ戻る途中、元治元年10月26日のことであったと、東海道石部宿歴史民俗資料館(滋賀県湖南市)が所蔵する旧本陣小島家の宿帳に記載されているとか。
袋井宿に泊まったのなら、当地の名物料理を供された可能性も考えられよう。

ただし、実際に食べたという記録は発見されていない様子。
その可能性を否定するつもりはない。ただ、「好物」とするには根拠が弱いのではなかろうか。

ナマズ料理
近藤勇に関しては「ナマズが好物」という説もある。

2014年9月19日放送のNHK「キッチンが走る!」は、「発見!近藤勇も愛したユニーク食材 ~埼玉・江戸川中流域~」と題する内容だった。
番組中、吉川市内のナマズ養殖業者が「近藤勇も当地の料亭に来てナマズを食べた」と語った。

調べたところ、地元の老舗料亭が「近藤勇、勝海舟、板垣退助などの歴史的著名人も当店の料理を楽しんだと言われています」とPRしていることがわかった。

しかし残念なことに、いつどのような状況だったのか、具体情報が提示されていない。
事実とすれば、慶応4年、綾瀬の五兵衛新田から流山へ転陣する頃だろうか。
また、ナマズを食べたのが事実としても、「好物」「愛した」とまで言えるものだろうか。

上記以外にも、近藤勇が「おせきもち(京都市伏見区)」を訪れたとか、土方歳三が「お秀茶屋(会津若松市東山町)」を訪れた、とかいった伝承もある。

こうした話には、なかなか興趣を誘われる。
機会があればそれを食べてみよう、と思いたくもなる。
ただ、史実と断定できるかどうかは、また別の問題と捉えたい。

卵のふわふわ
(講談社文庫)
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