新選組の本を読む ~誠の栞~

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 しんせんぐルメ 誠メシ! 

新選組の隊士たちは、日々どんなものを食べていたろうか。

こういう些細なことが、意外とわかりにくい。
大きな出来事はともかく、ありふれた日常を記録に残そうとする人物が、隊内や周辺にいなかったためだろう。
前回『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を紹介するにあたり、改めて調べてみたが、確実と思える情報は見つからなかった。

とは言え、手がかりは皆無ではない。目についた事柄をいくつか挙げてみよう。

みそづけ
沖田総司が宮川音五郎(近藤勇の実兄)に宛てた、慶応3年11月12日付の書簡がある。
その一節に「何より之味噌漬被下、難有奉存候」と、味噌漬けをもらったことへの謝辞が記される。

この味噌漬けは、江戸へ出張した土方歳三と井上源三郎が京都へ戻る際、音五郎が托したものらしい。
わざわざ持たせるからには、沖田(あるいは近藤らも含めた面々)の好物だったのだろう。
ただ残念ながら、何を漬けたものか明記がない。野菜、魚肉、それ以外……想像をめぐらすのみである。
(※参考『土方歳三・沖田総司全書簡集』

あひる
慶応3年元旦、伊東甲子太郎が永倉新八と斎藤一、そのほか腹心たちを引き連れて島原の角屋へ出かけた。
その日、廓内は休みであったので、「途中から家鴨十羽買い込み」持っていった。

この家鴨を料理させて、酒肴とする意図であったようだ。
生憎と調理法は不明だが、焼き物にでもしたのだろうか。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

うなぎ
戊辰戦争が続いていた頃のこと。
永倉新八は、同志の芳賀宜道と連れ立って、米沢から東京へ密かに舞い戻った。
浅草へ着いて山野の重箱で久しぶりで江戸前の鰻で」腹を満たした、という。

「重箱」とは、寛政年間から続く蒲焼きの老舗。現在は、赤坂で本格的料亭として営業しているとか。
永倉らがこの店へ立ち寄ったのは、店の者と顔見知りだったなど、安心できる理由があったのだろう。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

たくあん
小野路の小島家に伝わる逸話。
土方歳三は、小野路・橋本家の自家製の沢庵が大好きで、訪問のたび山盛りの沢庵をパリポリ食べていた。
ある時など、樽ごと担いで帰ったという。

農家が漬け物を作る樽は、かなり大きい。
例えば四斗樽なら、高さも直径も約60センチ、容量は約72リットル。さらに大きいものが使われることもある。
沢庵がぎっしり詰まっていたら、独りで担ぐのは困難なのでは。
小さい樽に移してもらったのか、それとも「これほど好物だった」という誇張が入っているのか。
(※参考『新選組余話』

とろめし
これも小野路の小島家に伝わる逸話。
近藤勇が上溝村の佐藤為彦を訪問した折、先客の鷹取胖斎と会った。
夕食の時、とろめし(とろろかけご飯)の大食い対決をすることになり、ふたりは競って食べた。
近藤は19杯、鷹取は20杯食べて、勝負がつく。負けず嫌いの近藤も兜を脱いだ、という。

上溝村は相模国高座郡(現在の相模原市)であり、小野路村とは近い。
佐藤為彦は、上溝村の名主。小野路の小島家や橋本家、近藤一門とも交流があった模様。
鷹取胖斎は、上溝村在住の蘭方医。佐久間象山の門人であり、師匠に劣らぬ奇人であったと伝わる。
近藤も鷹取もとろめしが好物だったそうだが、それにしてもよくこれだけ食べられたものだ。
(※参考『新選組余話』

伝承の類いは、どこまで正確な事実なのか、検証が難しい。
しかしながら、当人と面識・交流のあった人々が伝えた話は、それなりの信憑性を感じさせる。

小野路 小島資料館の門
↑小野路 小島家(小島資料館)の門

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 森満喜子『沖田総司幻歌』 

短編小説集。沖田総司、あるいは彼と関わった人々を主人公とする6編を収録。

「百年の霧」
京都市、西京保健所の保健婦・岡田光子は、放射線技師らとレントゲン車で集団検診に向かった。
ところが、濃い霧に包まれ道を見失ったかと思うと、幕末の壬生、新選組屯所に着いてしまう。
山崎烝の出迎えを受け、隊士たちの胸部レントゲン撮影をするという、ありえない事態に。
後日、医師の画像読影により、結核に罹患している患者が見つかる。
その患者とは、沖田総司であった。そこで、再検査の必要を伝えることに。
再検査の当日、保健所のスタッフ一同は沖田らの来所を待ち受ける――


いわゆるタイムスリップもの。
保健所の医師として結核を担当した作者自身の経験から、医学的見地に基づいて書かれている。
作者あとがきによると、読者からの手紙に沖田の病状に関する質問が多いこと、現代なら沖田の病気は完全に治せたであろうにと思ったことが、執筆の動機とか。

作中の「現代」は、執筆・発表当時の昭和40年代後半(1970年代前半)。
そのため、新選組の活動期が「100年前」とあったり、女性保健師を「保健婦」と称したり。
ただ、結核治療の基本が抗生剤服用と安静なのは、現在とあまり変わらない様子。

光子をはじめ沖田に関わった人々は、なんとか彼を救いたいと親身になる。
しかし、100年を隔てた霧と「戦い続けたい」という沖田自身の意思に阻まれ、思うにまかせない。
そのもどかしさと無念さ、愛惜の気持ちが、温かくも切ない。

「苔の庭」
山南敬助は、新選組の現状と近藤・土方の組織運営に対し、強い不満を覚えるようになっていた。
その思いを打ち明けられた沖田は、山南の苦悩を理解したものの、共有するまでには至らない。
西本願寺への屯所移転問題をきっかけに、山南は書き置きを残して屯所を去る。
近藤と土方は、沖田に後を追うよう指示。
ただ、周囲の耳目をはばかって、互いの真意を充分に確認することはできなかった。
大津で出会った沖田と山南は、親しく語らった後、連れ立って屯所へ戻るが――


山南の脱走・切腹を主題とする物語。
あのような結末は誰ひとりとして意図せず、ちょっとした行き違いのせいでは――と作者は考え、本作を執筆したという。確かに、山南と土方の間に深刻な確執があったなどとする説は、事実かどうかわからない。
誰も意図しない結末なればこその悲劇に、打ちのめされる沖田の心痛は深い。

西芳寺(苔寺)の緑の苔、その上に舞い落ちる色づいた木の葉の鮮やかな描写が、効果的に使われている。

「京洛早春賦」
文久4年(元治元年)2月3日。壬生寺の節分会には、多くの老若男女が訪れる。
その中には、男女逆転の仮装した人々「お化け」も立ち交じる。
そこで藤堂平助は、わざわざ振袖や娘島田のかつらを借りてきて、誰かを女に仕立てようと言い出す。
女役のくじを引いてしまったのは、皆の期待どおり、沖田総司だった――


「節分おばけ」は、京都町衆の厄払いの風習。
花街では芸妓が仮装で客をもてなす。一般人が参加するコスプレイベントも開催されるとか。
本作は、その風習を取り入れコメディタッチに仕上げた、沖田の武勇談(?)。
気楽に読める話だが、後日談できっちりオチをつけたところが作者の手腕と感じる。

作中では、藤堂平助の名が「兵助」と表記されている。

草創初期の新選組の面々が前途洋々としているさまは、清々しく微笑ましい。

「萩咲く」
新選組隊士・田中寅蔵は、剣術の巧者であり、また非常に律儀な性格でもあった。
ある日、長州系浪士たちと、取り締まろうとした新選組との斬り合いが勃発。
戦いの後、浪士のひとりから最期の願いとして1通の書状を託された田中は、それを高杉晋作に届ける。
高杉は、死者のために単独で訪れた田中に警戒を解く。そして、「西洋列強の日本侵略を防ぐには、勤皇・佐幕の争いを一刻も早くやめて一丸とならなければ」と語る。
これに共鳴した田中は、新選組を攘夷の先鋒たらしめたい、と純粋な善意で考える。
沖田は、帰隊した田中から、いきなり「新選組は方針転換すべき」と説かれて困惑する――


田中寅蔵は実在の隊士。
品行方正で、撃剣師範に就任するほどの腕もあったが、過激な攘夷論を主張して切腹させられたと、西村兼文『新撰組始末記』に記されている。
死亡日は慶応3年4月15日、享年27。作中にも書かれているとおり、辞世の歌を遺した。

新選組は、実際のところ、攘夷の先鋒たらんとして発足した組織である。
「攘夷は日本が列強並みの軍事力を得てから実行する」「指揮は幕府が執る」という幕府の方針を支持した。
対して「攘夷は直ちに実行すべき」「日本が一丸となるため主導権は天皇が握るべき」と主張する勢力がある。
この考え方の違いが、親幕vs.反幕の争いの原因。
新選組は治安部隊として、幕府の方針に逆らう者と戦わなければならなかった。

沖田はどのような政治思想を持っていたのか、理想と行動とのギャップに悩んだりしたことはなかったのか、という読者からの問いをヒントとして、作者は本作を著わしたという。
田中を救いたいと腐心しつつ、彼の主張に賛成することはできない沖田の思いが哀しい。

「はんばあぐ・すてえき」
肥後の松田謹吾は、義兄・松田重助が池田屋事件で沖田総司に斬られたと知り、仇討ちを決意。
京へ上り、一対一の勝負を挑んだものの、あまりに技量が違いすぎ、あっさり退けられてしまう。
帰郷し、厳しい修業を積むうち3年が過ぎて、天下の情勢は大きく変わった。
京から大坂、江戸へと仇敵の消息を求めて、謹吾はようやく沖田の潜伏先を捜し当てる。
千駄ヶ谷へ向かう途中、西洋料理店を見かけ、仇討ちの前に腹ごしらえしようと思い立った。
初めて食べる旨い料理で心身を満たした後、ようやく沖田と対面すると――


松田重助は実在した志士だが、主人公の松田謹吾は架空の人物。
新選組が私情を交えず任務のため戦っていても、相手方の心に怨恨を生むことは少なからずあったろう。
実際の沖田は静穏な療養生活のうちに世を去ったが、もしも謹吾のような人物が押しかけてきたらどうなったかと、作者は想像して本作を書いたという。

闘争の日々の果てに、旧時代とともに世を去っていく沖田。
新時代に新しい生き方を感得し、己の運命を切り開こうとする謹吾。
ふたりの若者の姿が、作者の狙いどおり、時代の交代を象徴している。

美味しいものを食べることは、一見何気ない行為のようであるが、人の体と心を養い、時には人生を変えるほどの力を持つ。そうした「食の力」を、改めて考えさせる物語でもある。

「翡翠(ひすい)
秋田清之助は、旗本の五男坊。沖田総司とは江戸以来の友人であり、その伝手で新選組に入隊した。
ある日、沖田から女への贈り物を見繕って欲しいと頼まれ、清之助は買い物を手伝う。
沖田は、蘭の花を象った翡翠のかんざしを、費用を顧みず特注するのだった。
男ぶりが良く女性関係の盛んな清之助だが、荒物屋の娘・千枝と知り合い、行く末を真剣に考えるようになる。
ところが、油小路事件が原因となって、千枝から拒絶されてしまった。
新選組の伏見移転後、沖田の体調は目に見えて悪化し、清之助もその症状が肺結核と気づく。
まもなく鳥羽・伏見戦争が勃発。戦列を離れた沖田に代わり、清之助は無我夢中で戦うが――


新選組の慶応元年から4年までの動静を背景に、沖田総司の秘めた恋と、秋田清之助の青春を描く。
清之助は架空の隊士。
家を継ぐことなく、これといった志があるわけでもなく、なんとなく生きる目的を求めている若者。
そんな彼も、新選組に在籍したことで、否応なく動乱の渦中に巻き込まれていく。
そして、命の危機と絶望を乗り越えた末、幸福を得る。

沖田は、秘めた恋を成就させることなく、短い生を終えた。
「相手の親に反対された」と本人は語ったが、病気のため自ら身を引いたのではなかろうか。
その目撃者として配された清之助との対比が、際だっている。
沖田ももっと長く生きられたとしたら、いつか悲恋を忘れられる未来があったろう。
そんな日を迎えることなく他界した沖田への哀惜と、それを象徴する翡翠のかんざしが印象に残る。

作者が以前発表した「旅」では、沖田と愛しあった女との間に遺児がいた。(※『沖田総司抄』に収録。)
子孫筋から聞いた話をもとにした作品であるものの、読者の批判的な感想も寄せられた様子。
作者自身も、本作のほうが沖田の本当の恋に近いと思える、とあとがきに記している。

---
本書は、『沖田総司哀歌』(1972)、『沖田総司抄』(1973)に続く、作者の沖田総司短編集の3冊目。
昭和49年(1974)、新人物往来社から単行本(四六判ハードカバー)が刊行された。
再版や文庫化はされていない様子で、もったいなく思える。

沖田総司幻歌


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 国枝史郎「甲州鎮撫隊」 

短編小説。戦列を離れ病床に伏す沖田総司と、彼をめぐる愛憎・陰謀劇を描き出す。

国枝史郎(1888~1943)は、主に伝奇・怪奇幻想小説で人気を博した作家。
長編『蔦葛木曽桟』『八ヶ嶽の魔神』『神州纐纈城』が、国枝三大伝奇としてよく知られている。
新選組を題材とした著作は、どうやら本作だけらしい。短編ながら印象的な秀作なので、今回紹介する。
以下あらすじ(前半のみ)。

千駄ヶ谷の植木屋「植甚」の親方は、自宅の庭に大きな池と滝を設えていた。
そして、住み込んだばかりの職人・留吉に「この水がうちの植木を良く育てる」と自慢する。

その「植甚」の離れ座敷に、沖田総司が療養していた。
ある夜のこと、すぐ近くの往来で、複数の浪人者が斬り合いを始める。
通りすがりの女がひとり、巻き添えを恐れ、庭へ逃げ込んできた。
匿って欲しいと懇願された総司は、騒ぎが収まるまでと女を離れ座敷に入れてやる。
総司の病篤い様子を見て、女は介抱の手をさしのべるのだった。

お力と名乗った女は、それから毎日のように、総司のもとへ通ってきて世話をする。
総司は何か悩みを抱えているらしく、うなされつつ「お千代」「細木永之丞」という名前を寝言に漏らす。

それからまもない日、近藤勇が総司を訪ねてきた。
甲府城防衛の任を受け、近く出陣することになったものの、総司を連れていくことはできない、と告げる。
なんとしても従軍したい総司だが、勇に説き伏せられて断念するしかなかった。

その後、お力は総司の面倒を見ながら、何気ない口ぶりで寝言のわけを尋ねる。
「お千代」とは、深く慕いあいながらも、故あって泣く泣く別れた恋人だった。
そして「細木永之丞」は、親友ともいうべき同志であった。しかし……と総司は語る。

総司の話を聞いたお力は、やがてお千代その人と思いがけず出会う。


タイトルから、甲陽鎮撫隊(作中では「甲州鎮撫隊」)が勝沼柏尾で戦う話を想像した。
しかし読んでみると、柏尾戦争は背景にすぎず、主題は病臥に残された沖田総司と、彼に関わる人物たちとの因縁話である。
子母澤寛『新選組遺聞』あたりを参考にした節が窺えるが、独自の展開を描いている。

人物の言葉遣いが、所々でクラシカル。
特に、総司が「左様じゃ」「わしは思う」などと言う場面はちょっと笑える。
これがサムライらしい話し方、ということか。

説明的な会話がやや多い。
特に、お力に問われるまま過去を語る総司は、幼い子供のように警戒心が薄くて素直。
聞き出し方が巧いにしても、これほど何でも打ち明けてしまうのは、病気で心が弱っているせいなのか。

お力は、実に強かな女。その抜け目なさ、大胆さには舌を巻く。
彼女が陰の主人公であり、その心情や行動が活き活きと描かれるからこそ、本作は面白いとも言える。

作中の植木屋「植甚」は屋号だけで、主人(親方)の名前は出てこない。
『新選組遺聞』に、屋号だけ書かれているせいかもしれない。)
この「植甚」が千駄ヶ谷に実在したことは、ほぼ間違いないようだ。主人の名は「平五郎」、姓は「柴田」だったということも判明している。

この「植甚」の親方は、本作では総司を匿うのみならず、ほかにも重要な役目を密かに負う。
冒頭の何気ない滝の自慢話にも、その秘密が隠されていた。
実在の平五郎も、こういう気っ風の好い親方だったのでは、という気がする。

何気なく読み流してしまうと気づきにくいが、出来事の順番は史実に沿っていない。
ストーリー展開を整理すると、以下のような経緯となっている。(※年次は慶応4年)

2月   沖田総司、植甚の離れ座敷に療養する(横浜の病院から浅草今戸を経て移転)
     近藤勇、甲州出陣について総司を説得する
3月 6日 甲州鎮撫隊、勝沼で敗退する
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 沖田総司、病没する 江戸城、明け渡しとなる(近藤勇はすでに死去)
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する


一方、実際の流れは以下のとおり。(※参考『新選組日誌』ほか)

1月18日 沖田総司、神田和泉橋の医学所に入院する(2~3月に浅草今戸へ転院か)
2月28日 新選組、甲府鎮撫を命じられる
2月30日 甲陽鎮撫隊、江戸より出陣する
3月 2日 甲陽鎮撫隊、日野の佐藤彦五郎方に立ち寄る(総司も同行、翌日に離脱か)
3月 6日 甲陽鎮撫隊、柏尾の戦いに敗れ退却する(この直後に総司は千駄ヶ谷へ移転か)
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 江戸城明け渡し
4月25日 近藤勇、板橋で処刑される
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
5月30日 沖田総司、病没する(グレゴリオ暦では1868年7月19日、ユリウス暦では同年7月7日)


最大の違いは、作中の総司が実際より約1ヶ月半も早く没したことである。
作者は何故そのように設定したのだろうか。
江戸城が新政府軍に明け渡された日、すなわち徳川幕府が終焉を迎えた日に、総司もその命を終えた……
あくまで想像だが、両者を重ね合わせて意味を持たせたように思える。

作中に描かれる総司の臨終は、心安らかなものではない。
望みが達せられた悦びの一方で、怨嗟と憎悪を吐き出すさまは痛ましく衝撃的。
これが最後の最後に、彼の無念を晴らそうとする者たちの、精一杯の一撃へとつながっていく。

「植甚」の(何も彼(か)も是(これ)で片がついた)という感慨込めた呟きが、物語を締めくくる。
この言葉には、二重の意味がある。
ひとつは、総司の鎮魂のために、残された者たちが報復を遂げたこと。
もうひとつは、彰義隊が敗北し、徳川時代が完全に終わったと江戸の民衆が実感したこと。
旧幕方と新政府方の戦いは翌年まで続いたけれども、上野戦争がひとつの節目となったことは間違いないだろう。

沖田総司への、そして去りゆく江戸への名残を惜しむ心情が、本作の底流に感じられた。

本作「甲州鎮撫隊」の初出は、1938年の『講談倶楽部』(大日本雄弁会講談社)。
下記の書籍に収録されている。

『国枝史郎名作選』 新正堂刊 1942
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990 ←本項の参考書
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003
『国枝史郎歴史小説傑作選』 末國善己編 作品社 2006

このほかにもありそうだが、生憎とデータを見出せなかった。
なお、青空文庫でも読むことかできる。

新選組興亡録
(角川文庫)
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国枝史郎
歴史小説傑作選
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 葉室麟、木下昌輝ほか『決戦!新選組』 

アンソロジー。6人の作家による新選組の短編小説を収録。
作家6人は、葉室麟、門井慶喜、小松エメル、土橋章宏、天野純希、木下昌輝。
本書の責任表示にも「著者」として6人が列記されている。ただ、当記事タイトルには全員を書き切れないので、便宜的に最初と最後の2人を挙げた。悪しからずご了承いただきたい。

収録作品6編は、以下のとおり。

葉室麟「鬼火」
沖田総司は、少年期の忌まわしい体験によって心的外傷を負う。
以来、感情をうまく表わせない、人に心を許すことができない性格となり、そのまま成長した。
試衛館一党が浪士組に加わって京に上った後、残留者同士の間で勢力争いが起きる。
邪魔者を粛清するよう命じられた総司だが、敵に後れを取ってしまう。その危機を救ったのは芹沢鴨だった。
芹沢は、壬生浪士組を土台に「尊王義軍」を組織しようと、様々な方策を果敢に断行していく。
一方、富商からの押し借り、大坂力士との乱闘事件、大和屋焼き討ち事件などで、乱暴者と恐れられた。
芹沢の優しさを知る総司は、彼の生き方に惹かれ、その行く末を見届けたいと思う。ところが――


本作の沖田総司は、周囲の人間に心から打ち解けられない。土方歳三に対しても、常に距離をおいている。
そんな総司が、芹沢鴨に対して単なる親愛以上の感情を抱く展開は、珍しいと思う。

本作の芹沢鴨は、武田耕雲斎や藤田小四郎と連携して攘夷を実行するため、浪士組に加わった。
壬生浪士組を「尊王義軍」にするため、戦闘集団として組織編成し、鉄の規律を設けたのも芹沢である。既成の作品では、土方が組織編成や法度の制定を行なったとされる例が多い。しかし、本作では「農民出身の近藤や土方にできることではなかった」と記述されている。
芹沢が有栖川宮に接近したのも、攘夷を実行するための一方策。
これほど具体的な目標を持ち、ひたすら努力・邁進する芹沢の人物造形は、ユニークで興味深い。

ちなみに、作者が新選組を描いた作品に、篠原泰之進を主人公とする長編『影踏み鬼』がある。
作者はおそらく、近藤・土方体制に従わない人物のほうが好きなのだろう。

門井慶喜「戦いを避ける」
元治元年6月5日の夜。
近藤勇は、わずかな人数を率いて、池田屋へ御用改めに立ち寄る。
思いがけずここが過激志士らの会合場所と知ったとたん、不本意ながら戦闘に突入してしまう。
焦燥の中、養子の周平が一刻も早くこの場へやってくるよう、ひたすら念じた。
近藤が谷三兄弟の末弟・喬太郎こと周平を養子に迎えたのは、ある大きな計画のためであった。
それは、この皇国(日本)を革めること、そのため新選組を強力な組織に仕立てて資することに他ならない。
やがて土方歳三のグループが駆けつけ、周平もようやく姿を現すが――


大坂にある谷道場を、近藤と原田左之助が訪問する場面が印象的。
本作の谷三十郎は、備中松山の元藩士というより、まるで「浪花の商人」。近藤とのやりとりがユーモラス。
万太郎と喬太郎が評価されると、すかさず自分も売り込む抜け目なさに、近藤もたじたじ。

近藤と周平との関係を描く小説は複数あるが、本作の場合は、板倉勝静(老中、備中松山藩主)が関連した新選組増強計画のあたりにオリジナリティを感じる。
司馬遼太郎「槍は宝蔵院流」、早乙女貢「槍の三十郎」、小松エメル「流木」などと読み比べるのも面白い。
また、近藤の熱しやすく醒めやすい性格は、作者の『新選組颯爽録』にも描かれている。

小松エメル「足りぬ月」
藤堂平助は、幼少期「藤堂和泉守の御落胤」を口実に実母から厄介払いされた、と信じて成長した。
人に必要なのは才と運。運はあれど才が今ひとつ及ばない己には、才のある誰かが必要だった。
山南敬助と出会い、彼の力量を頼みにして、いつか成功を得ようと決める。
山南の伝手で知りあった伊東甲子太郎は、さらに優れた容姿と文武の才を持つ魅力的な人物であった。
それに引き換え、近藤勇は剣・学問・要領・容姿いずれも秀でたもののない凡庸な人物、と目に映る。
やがて「夜道を照らす月」とも頼んだ山南を失った時、伊東を新選組にぜひ入隊させようと企図する――


本作の平助は、複雑な生い立ちから、人間関係を益になるか否かで判断する習慣がある。
損得ぬきの信頼なぞ理想論に過ぎないと思ってきたが、心の奥底では何よりそれを渇望していた。

プライドが高い一方で自己評価の低い平助が、それを自覚しないまま人生を模索する姿は、苦しく切ない。
得がたいものを得ようとする努力は大切だが、すでに得たものの価値に気づかず投げ捨てて「もっと素晴らしい何か」を探し求める生き方は不幸だ。
ただ、それは平助に限った話ではなく、人はこうした面を多かれ少なかれ持っている気がする。

こういう人柄の平助を、卑小な者ではなく共感できる主人公として描いた、作者の力量を感じる。
そのほか、近藤勇、伊東甲子太郎、斎藤一といった脇役の人物も魅力的。
作者の『夢の燈影』『総司の夢』とのつながりを見出すのも、楽しめると思う。

「足りぬ月」というタイトルは、少しだけ欠けた姿の月を意味している。
昨年12月13日の当方ツイートを引用しておく↓

【慶応3年11月18日=1867年12月13日・京都の夜空】
現地時刻で月出18:54、月没9:10(翌日)、月齢16.9(右側が少し欠けている)。
嵯峨實愛の日記によると、18日は晴れて雲が南へ行くのが見えたとか。
油小路事件の時、雲さえ無ければ月もよく見えたはず。
>>Twitter「誠の栞」‎@bkmakoto 2016/12/13

完璧なものだけに価値があるのではなく、多少不足があっても素晴らしいものは素晴らしい。
そのことに平助が気づいたのは、命が尽きようとする瞬間だった。

土橋章宏「決死剣」
慶応3年末、新選組を含めた幕府勢力は京都を引き払う。
永倉新八は、愛する内妻の小常を亡くし、生後まもない娘お磯とも別れ、戦いに臨む覚悟を決める。
負傷した近藤勇、病状が進んだ沖田総司は、戦列を離れた。
布陣した伏見で戦端が開かれると、ここを死に場所と定めた新八は、獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
新八にとって、時流も政治も思想も関係ない。剣を極め、信頼する仲間とともに戦うこと、先行きはわからなくても命あるかぎり今を生きることが、何より大切だった――


戦いの描写は迫力満点。
沖田が得意の三段突きを凌駕する必殺技を繰り出したり、新八が剣で薩摩の銃隊を圧倒したり、アクション映画的な味わいがある。

鳥羽・伏見戦争の場面で、新政府方の先込ミニエー銃に対し、新選組は火縄銃を装備している。
幕末、短期間に銃器が目覚ましく発展したのは事実。とはいえ、火縄銃から一足飛びにミニエー銃が導入されたわけではない。時期や地域によって、ゲベール銃やヤーゲル銃が用いられもしたし、幕府方にもミニエー銃・ドライゼ銃・シャスポー銃などを導入していた部隊はあった。
幕府や会津藩が軍制改革を進めていたのだから、新選組もゲベール銃くらいは装備していたと思う。
戊辰戦争で火縄銃が投入されたのは、軍備が遅れていた小藩の勢力、もしくは装備や人員が極端に不足した局面ではなかろうか。

新八の、同志たちと別れても戦いぬき、時代の移り変わりを見つめつつ、己の生を全うした生涯。
本人に「死に遅れた」という思いはあったかもしれないが、亡き盟友たちの分まで生きた、と感じられた。

天野純希「死にぞこないの剣」
会津にやってきた斎藤一は、土方歳三の代理として新選組隊長の任に就く。
松平容保に初めて親しく言葉をかけられ、この主君のために戦おうと決意を新たにした。
白河の攻防戦では、同盟軍の一翼を担って戦い、敵を退ける。しかしその後、新たに着任した総督の指揮が振るわず、劣勢に陥り撤退を余儀なくされた。
次いで、母成峠の守備につく。ところが、傷が癒えて戦線に復帰した土方は、会津藩の敗北を予言する。
曰く、兵員不足の母成峠は突破され、城下戦になる。そうなれば同盟は瓦解するだろう。
「会津を出て蝦夷地へ渡り、徳川旧臣による新政権を樹立する」という壮大な計画に誘われ、一の心は迷う。
やがて、霧を衝き山中の険路を踏破した敵軍が、猛攻を開始する。応戦する守備勢だが――


斎藤一の視点から、会津戦争の苦しさが描写される。
軍事能力より家柄を重視した同盟側の人事。たとえ能力があろうと、軽格者の進言は採用されない。
それらが影響して敗色が濃くなると、ついに心が離れていく者も出る。
このような状況の中、一が敢えて会津に残り戦い続けるに至った理由は、単純だけれども深く大きい。

土方は、合理的な判断から見切りをつけ、新天地を求める。
ただ本作では、一と対比させるため、このように描かれているのだろう。
実際のところ、当初は救援要請が第一だったと思われる。最初から旧幕海軍との合流が目的ならば、新選組を大鳥圭介に預けて米沢方面へ向かう必要はなかった。

戊辰戦争後、明治を生きる一の心境には、土橋章宏「決死剣」の永倉新八に似通ったものを感じた。
性格や生き方はそれぞれ違っても、生き残り幹部としての精神には共通項がありそうだ。
戦後にこのふたりが会ったとしたら、どんな話をしたのか……そんな想像をせずにいられない。

木下昌輝「慈母のごとく」
土方歳三は、鳥羽・伏見の戦場で、旧幕将兵の士気がまったく振るわず、逃げ出すさまを多く目撃する。
やはり鬼となって叱咤激励する指揮官がいなければ、勝てはしない。己は、部下に怯懦の振る舞いを許さない。
近藤勇は、そんな歳三を「厳しいだけでは人はついてこない」と諫める。
それでも歳三は、自分の正しさを信じて疑わなかった。
流山で敵に包囲された時、近藤は指揮官として責任を取り、武士として死ぬため、切腹しようとする。
それを止めた歳三は、一か八かの起死回生に賭け、新政府方へ出頭せよと勧める。
やむなく応じた近藤は、別れ際、歳三にある「約束」をさせるのだった――


「鬼」と畏れられた土方歳三が、戊辰戦争の中で「仏」に変わり部下たちから慕われるようになった経緯の裏には、近藤勇との「約束」があった、という物語。
歳三は、近藤を死なせた償いとして「約束」を守るが、最後の戦いでは破らなければと心に決めた。
ところが激戦の最中、目の当たりにしたのは、歳三のそんな思いとはまったく裏腹な光景だったのだ。
予測が外れてむしろ良かったと思わせる結末が、切なくも温かい。

脇役の野村利三郎と島田魁が、それぞれ妙味を見せている。
野村は、意欲的だけれど強情な性格。何かにつけ他人の非を糺しては叱りつける。しかし、戦いでは常に危険な役回りを引き受けるので、人望がある。
島田は、野村をかつての歳三に似ていると評するが、歳三は「俺はあんな馬鹿じゃない」と不満顔。
そして宮古湾海戦では、やはり野村が真っ先に敵艦へ飛び込んでゆくのだった。

歳三が宇都宮戦で味方の兵を斬ったこと、二股台場山で部下たちを労ったこと、いつしか子に慕われる「慈母」の如く配下の者たちに慕われたこと、箱館市街戦で「退く者は斬る」と宣言したことなど、多くの史料や通説を採り入れつつ、巧みに独自の展開へ落とし込んでいる。
その手法は、『人魚ノ肉』でも活かされていた。

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収録作品の初出は、『日刊ゲンダイ』2016年11月8日~2017年5月1日。
本書は2017年5月、講談社より出版された。四六判ソフトカバー。電子書籍もある。

決戦!新選組
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 沖田総司の写真…ではなかった 

沖田総司の肖像写真というものは、周知のとおり、未だ発見されていない。
テレビ番組などで見かけるふっくら顔の画像は、子孫(総司の姉ミツの孫)をモデルとした絵画である。
また近年、剣を八相にかまえたポーズの画像(とそのバリエーション)を歴史雑誌で見かけるが、これも本物ではなく、どこぞのイケメン青年の古写真を加工して作ったものという。

ところで、『激録 新撰組』(原康史、東京スポーツ新聞社出版部)なる書籍がある。
新聞の連載をまとめたもので、1977年に上・中・下の3巻が、1978年に別巻が刊行された。
新選組の興亡を描いた大衆的な読物、「実録ふうの小説」といった感じである。

出版当時、新選組ファンの間で物議を醸したという。
それを知ったのはすでにかなり後年のことだったが、古本屋で実物を見かけ、手に入れた。

激録新撰組 全4巻

特に注目されたのは、この本のカバー表紙(全4巻が同じデザイン)だった。
中央に若い侍の画像が配置され、周囲を細かい活字の文章が取り巻く。
文意を手短にまとめると、こんな感じだ。
  • この写真の主は誰だかわからないが、もしかすると沖田総司かもしれない
  • 箱館戦争の後、土方歳三の遺品の中から発見されたと伝わる
  • 大鳥圭介という説もあるが、既存の写真と比べると顔立ちが違う
  • この写真が仮に沖田でなかったとしても、沖田はこういう顔だったような気がする

要するに「明確な根拠はないが沖田の写真っぽい」と言いたいのだろう。
この思わせぶりな書き方に、「ホンモノかも?」と期待を抱いた向きは少なくなかったようだ。
当方も、この説を肯定も否定もできなくて、もどかしい思いをした。

その後しばらくして、『幕末の素顔 日本異外史』(毎日新聞社編・発行)なる写真集を古本屋で見つけた。

幕末の素顔 表紙

1970年発行。
幕末~明治に撮影されたらしい風景や人物の写真が、多数載っている。
扉に「アメリカ・ワシントン「米国国会図書館」に秘蔵されていた幕末日本の写真記録から」編集されたもの、と説明がある。

かつて来日外国人向けに販売された「お土産写真」の数々、と見受けられた。
大半は、被写体の具体情報が不明のようで、キャプションが付されていない。
その代わり、被写体には直接関係なく、永六輔による幕末史エッセイを併載している。

興味を感じてページをめくっていると、見覚えのある写真が目にとまった。

幕末の素顔 若侍の写真

これは、あの『激録 新撰組』の若侍ではないか!
思わず財布を握りしめてレジへ走り、購入してしまった。

どこの何者、という説明は一切されていない。
脇の文章は「五稜郭の戦い始末」と題するエッセイで、土方歳三に言及した部分はあっても、沖田総司に関しては一言も触れていない。
けれども、出版年次といい画像のトリミング状態といい、『激録 新撰組』の元ネタと考えて間違いなさそうだ。
どうやら「土方の遺品」説は事実でなく、「アメリカ議会図書館の所蔵品」というのが真相らしい。

後から思えば、「土方の遺品」説は合理性に乏しい。
もし事実なら、その来歴を関係者が多少なりと語り伝えていそうなものだ。しかし、それらしい話はいっこうに聞こえてこなかった。
素人はともかく、研究家諸氏がまともに取り上げてこなかったのも、つまりはそういうことだろう。

ちなみに、写真の真偽について「小袖の紋所が沖田の家紋ではない」という意見も聞く。
確かにそのとおりで、写真の紋が何か識別しにくいものの、楓や羽団扇に似た感じであり、「丸に糸輪木瓜」「子持ち輪に木瓜」などといわれる沖田家の木瓜紋と異なることは見て取れる。
着物は他人から借りるケースも考えられるが、当人がわざわざ安くもない費用を出して写真を撮るなら、借り着で写ろうとはしないだろう。

被写体の人物が本当は何者か、それはわからない。
ただ「お土産写真」を撮る写真師にモデルとして雇われた青年、と想像されるのみである。

それはそうと、いつの日か沖田総司の本物の写真が発見される可能性も、否定はできまい。
この世のどこかに存在するとしたら、ぜひ見てみたいものだ。

幕末の素顔
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