新選組の本を読む ~誠の栞~

小説 史談 エッセイ マンガ 研究書など

 ご当地グルメ 誠メシ! 

前回「しんせんぐルメ 誠メシ!」に続き、新選組と食の話。
今回は、特定の地域や老舗の名産品にかかわる説を挙げてみる。

たまごふわふわ
近頃「近藤勇はたまごふわふわが好物だった」という説を、よく見かけるようになった。

たまごふわふわとは、泡立てた玉子と出汁をまぜ蒸した料理で、江戸時代から存在した。
2004年のNHK大河ドラマに「食べたいものはありますか」「たまごふわふわ」というツネと勇の会話があった。これがきっかけで広まった気がするが、その少し前から流布するようになっていたと思う。

このたまごふわふわ、東海道・袋井宿(静岡県袋井市)の名物料理であった。
袋井観光協会の説明によると、文化10年、大阪の豪商・升屋平右衛門が記した「仙台下向日記」に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載った、とあるそうだ。
現在、袋井市観光の目玉のひとつとなっており、市内の複数の飲食店で提供される。

袋井宿には、近藤勇も宿泊している。
江戸出張から京都へ戻る途中、元治元年10月26日のことであったと、東海道石部宿歴史民俗資料館(滋賀県湖南市)が所蔵する旧本陣小島家の宿帳に記載されているとか。
袋井宿に泊まったのなら、当地の名物料理を供された可能性も考えられよう。

ただし、実際に食べたという記録は発見されていない様子。
その可能性を否定するつもりはない。ただ、「好物」とするには根拠が弱いのではなかろうか。

ナマズ料理
近藤勇に関しては「ナマズが好物」という説もある。

2014年9月19日放送のNHK「キッチンが走る!」は、「発見!近藤勇も愛したユニーク食材 ~埼玉・江戸川中流域~」と題する内容だった。
番組中、吉川市内のナマズ養殖業者が「近藤勇も当地の料亭に来てナマズを食べた」と語った。

調べたところ、地元の老舗料亭が「近藤勇、勝海舟、板垣退助などの歴史的著名人も当店の料理を楽しんだと言われています」とPRしていることがわかった。

しかし残念なことに、いつどのような状況だったのか、具体情報が提示されていない。
事実とすれば、慶応4年、綾瀬の五兵衛新田から流山へ転陣する頃だろうか。
また、ナマズを食べたのが事実としても、「好物」「愛した」とまで言えるものだろうか。

上記以外にも、近藤勇が「おせきもち(京都市伏見区)」を訪れたとか、土方歳三が「お秀茶屋(会津若松市東山町)」を訪れた、とかいった伝承もある。

こうした話には、なかなか興趣を誘われる。
機会があればそれを食べてみよう、と思いたくもなる。
ただ、史実と断定できるかどうかは、また別の問題と捉えたい。

卵のふわふわ
(講談社文庫)
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 しんせんぐルメ 誠メシ! 

新選組の隊士たちは、日々どんなものを食べていたろうか。

こういう些細なことが、意外とわかりにくい。
大きな出来事はともかく、ありふれた日常を記録に残そうとする人物が、隊内や周辺にいなかったためだろう。
前回『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を紹介するにあたり、改めて調べてみたが、確実と思える情報は見つからなかった。

とは言え、手がかりは皆無ではない。目についた事柄をいくつか挙げてみよう。

みそづけ
沖田総司が宮川音五郎(近藤勇の実兄)に宛てた、慶応3年11月12日付の書簡がある。
その一節に「何より之味噌漬被下、難有奉存候」と、味噌漬けをもらったことへの謝辞が記される。

この味噌漬けは、江戸へ出張した土方歳三と井上源三郎が京都へ戻る際、音五郎が托したものらしい。
わざわざ持たせるからには、沖田(あるいは近藤らも含めた面々)の好物だったのだろう。
ただ残念ながら、何を漬けたものか明記がない。野菜、魚肉、それ以外……想像をめぐらすのみである。
(※参考『土方歳三・沖田総司全書簡集』

あひる
慶応3年元旦、伊東甲子太郎が永倉新八と斎藤一、そのほか腹心たちを引き連れて島原の角屋へ出かけた。
その日、廓内は休みであったので、「途中から家鴨十羽買い込み」持っていった。

この家鴨を料理させて、酒肴とする意図であったようだ。
生憎と調理法は不明だが、焼き物にでもしたのだろうか。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

うなぎ
戊辰戦争が続いていた頃のこと。
永倉新八は、同志の芳賀宜道と連れ立って、米沢から東京へ密かに舞い戻った。
浅草へ着いて山野の重箱で久しぶりで江戸前の鰻で」腹を満たした、という。

「重箱」とは、寛政年間から続く蒲焼きの老舗。現在は、赤坂で本格的料亭として営業しているとか。
永倉らがこの店へ立ち寄ったのは、店の者と顔見知りだったなど、安心できる理由があったのだろう。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

たくあん
小野路の小島家に伝わる逸話。
土方歳三は、小野路・橋本家の自家製の沢庵が大好きで、訪問のたび山盛りの沢庵をパリポリ食べていた。
ある時など、樽ごと担いで帰ったという。

農家が漬け物を作る樽は、かなり大きい。
例えば四斗樽なら、高さも直径も約60センチ、容量は約72リットル。さらに大きいものが使われることもある。
沢庵がぎっしり詰まっていたら、独りで担ぐのは困難なのでは。
小さい樽に移してもらったのか、それとも「これほど好物だった」という誇張が入っているのか。
(※参考『新選組余話』

とろめし
これも小野路の小島家に伝わる逸話。
近藤勇が上溝村の佐藤為彦を訪問した折、先客の鷹取胖斎と会った。
夕食の時、とろめし(とろろかけご飯)の大食い対決をすることになり、ふたりは競って食べた。
近藤は19杯、鷹取は20杯食べて、勝負がつく。負けず嫌いの近藤も兜を脱いだ、という。

上溝村は相模国高座郡(現在の相模原市)であり、小野路村とは近い。
佐藤為彦は、上溝村の名主。小野路の小島家や橋本家、近藤一門とも交流があった模様。
鷹取胖斎は、上溝村在住の蘭方医。佐久間象山の門人であり、師匠に劣らぬ奇人であったと伝わる。
近藤も鷹取もとろめしが好物だったそうだが、それにしてもよくこれだけ食べられたものだ。
(※参考『新選組余話』

伝承の類いは、どこまで正確な事実なのか、検証が難しい。
しかしながら、当人と面識・交流のあった人々が伝えた話は、それなりの信憑性を感じさせる。

小野路 小島資料館の門
↑小野路 小島家(小島資料館)の門

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 大佛次郎『角兵衛獅子』 

長編小説。時代小説『鞍馬天狗』シリーズの一編。タイトル読みは「かくべえじし」。
勤王の志士・鞍馬天狗と彼を慕う杉作少年との絆、そして鞍馬天狗と近藤勇との戦いを描く。

あらすじは以下のとおり(序盤のみ)。

「角兵衛獅子」とは、小さな獅子頭をかぶった子供が演じる曲芸である。
杉作は、その角兵衛獅子の演じ手だった。
京都の往来で芸を見せ、見物人の投げる銭を拾って日々を暮らす。

その日も、弟分の新吉とふたりであちこち回ったが、ふと気づくと稼ぎを入れた財布をなくしていた。
そのまま帰れば、親方にきつく折檻される。かといって、他に行くあてもない。
泣きじゃくる新吉を連れて途方にくれていた時、小さな寺の前で、見知らぬ侍に声をかけられる。
侍は事情を聞くと、杉作たちに金銭を与え、優しく励ました。
杉作は、いつかこの恩を返したいと思い、「倉田」と呼ばれた侍の名を心に刻む。

杉作は新吉とともに急ぎ帰ったが、財布をなくしたことが親方・長七に知れてしまう。
厳しく詰問され、やむなく事情を話した。
すると長七は、「倉田」とはお尋ね者の「鞍馬天狗」ではないか、と推測。
隠れ家を突き止め、新選組に知らせて褒美を得ようと画策する。
杉作は、図らずも「親切なおじさん」に仇を為すはめになってしまい、苦しむ。
倉田にこの事態を知らせたいと思い巡らすものの、良い方策は浮かばなかった。

翌日、杉作は長七に、倉田と出会った松月院へ案内させられる。
その途中、新選組の隊長・近藤勇に出会った。
近藤は、連日のように隊士を鞍馬天狗に斬殺されて、ただではおかぬと憤る。
長七の報告によって、隊士たち7~8人が松月院へ同行することとなる。

松月院には、果たして倉田がいた。
長七は、杉作を連れて感謝を述べにきたように装う。
しかし倉田は、長七の魂胆を早々に見破り、大胆にも自ら「鞍馬天狗」と名乗る。
そこを新選組隊士たちが取り囲み、激しい戦いとなった。
やがて、近藤勇が新たな手勢を率いて到着し、逃走しようとする倉田の背に短筒を向ける。
その刹那、杉作は無我夢中で近藤の腕に飛びついた――


主な登場人物は、下記のとおり。

杉作
本作の主人公。年齢は13~14歳(数え年か満年齢か不明)。
親方・長七の下で、角兵衛獅子として働いている。身軽で、高所へ上るのも得意。
肉親の所在や前歴について作中に記述がなく、孤児であるらしい。
恩人の鞍馬天狗になんとか報いたいと、子供ながらに東奔西走し、危険な目に遭いながらも力を尽くす。

鞍馬天狗(倉田典膳)
本作のもうひとりの主人公。勤王の志士。主家を持たず、素性も本名も一切が謎である。
一刀流皆伝の優れた剣士であり、馬術も得意。
目元涼しく、口元にそこはかとなく微笑をたたえ、きりりとした男前。
つねに冷静沈着、泰然自若として、時にはユーモアのセンスも見せる。
単独行動が多く、大胆不敵にもひとりで新選組屯所に斬り込んだり、大坂城に乗り込んだりする。
たとえ絶望的な状況に陥っても、諦めたり挫けたりはしない。
高き志を持ち、より良い国造りのため活動しつつ、弱者を労る細やかな人情も忘れない。

隼(はやぶさ)の長七
角兵衛獅子の親方。強い者に媚び弱い者を虐げる、因業な性格。
聖護院の近くに住み、杉作ら8人ほどの子供を手元に置き、角兵衛獅子をさせて稼ぐ。
厳しいノルマを課し、達成できない者に体罰を加えるので、子供たちから恐れられている。
お上から十手を預かる目明しでもあり、近藤勇に命じられて鞍馬天狗を追う。

黒姫の吉兵衛
鞍馬天狗の配下。痩身で、目のぎょろりとした、すばしこい男。
かつては泥棒だったが、鞍馬天狗に助けられて改心した、という過去の持ち主。
恩人のためには命を惜しまない。鞍馬天狗が危機にあると聞き、杉作とともに大坂へ向かう。

近藤勇
新選組の隊長。筋の通らないことや卑怯なことを嫌う、潔癖でまっすぐな気性の持ち主。
短気なところもあるが、寛容の精神も持ち合わせている。
猛者ぞろいの新選組を束ねるだけあって、強力な剣客であり、その腕は鞍馬天狗と互角。
鞍馬天狗を敵として追う一方、彼の技量や人格を認めてもいる。

くらやみのお兼
女密偵。若いながらも度胸のある女丈夫。機転が利き、抜け目ない。
土方歳三の依頼で、幕府要人の秘密会談における連絡・探索役を担う。
新選組や大坂城代と協力し、鞍馬天狗を追い詰めていく。
決して冷酷な性格ではないが、任務のためには杉作にも情け容赦しない、忠誠心と非情さを見せる。

西郷吉之助
薩摩藩士。藩士たちのリーダー的存在として、慕われている。
鞍馬天狗とは、勤王のために尽くす同志として肝胆相照らす仲。
長七に使われていた杉作たちを預かり、薩摩屋敷に置いて面倒を見てやる。

土方歳三
近藤勇と並び称される新選組の幹部。その強さは知れ渡っている。
登場は1場面のみだが、礼儀正しく、冷静で周到な人柄の様子。
幕府要人の秘密会談の警備にあたり、鞍馬天狗の妨害を警戒、くらやみのお兼に連絡・探索役を依頼する。

---
『鞍馬天狗』シリーズは、大佛次郎の代表作のひとつ。
大正13年(1924)の「鬼面の老女」から昭和40年(1965)の「地獄太平記」まで、長編短編あわせて全47作が発表されている。
本来は一般向け小説だが、少年向けに書かれたものも5作ほどある。
本作「角兵衛獅子」は、シリーズ11作目にして少年向けの嚆矢であり、昭和2~3年(1927-1928)『少年倶楽部』誌に連載された。

『鞍馬天狗』シリーズは、度々映像化されている。
映画は、原作小説第1作の発表と同じ年に始まり、主演・監督・配給会社を変えつつ60本近くが制作された。
中でも、アラカンこと嵐寛寿郎(1902-1980)が演じた鞍馬天狗は、大人気を博す。
フィクションにおける「素顔を隠した正義のヒーロー」像の成立も、アラカンの天狗がルーツとされる。

ただ、原作者の大佛次郎は「アラカンの天狗は人を斬りすぎる」との不満を訴えた、とか。
他にも業界の諸事情が絡んでいたようだが、結局、アラカン主演映画の制作は打ち切られる。
その後、別の俳優を使い原作者の意向に忠実な映画が作られたが、こちらは興業不振で長続きしなかった。

『鞍馬天狗』というタイトルに、個人的には「勧善懲悪ものの代名詞」というイメージを持っていた。
古い作品でもあるから、おそらく「徳川幕府は旧弊で打倒すべきもの、倒幕勢力こそが正しい」という史観に基づいて書かれ、中でも新選組などは「幕府に盲従する走狗」扱いなのでは?……などと思っていた。
(映像化作品では2008年のテレビドラマを見たが、現代ふうにアレンジされているように感じた。)

しかし、「人を斬りすぎる」映画がイヤだと言うからには、原作者は単なる痛快娯楽時代劇を書いたつもりはないのだろう。それでは何を書きたかったのか、確認すべく本作を読んでみた。

本作「角兵衛獅子」は、少年向けのため、「です・ます」調の文体で書かれている。
(※同じ『鞍馬天狗』シリーズでも、一般向け作品は「だ・である」調。)
なるべく平易な言葉を用い、漢字も少なめ。
にもかかわらず、疎漏なところはなく丁寧で、格調を感じさせる文章。
情景描写が視覚的で美しい。ちょっと古い言い回しにはレトロ感があって面白い。

ストーリーは波瀾万丈。手に汗握る攻防戦が繰り広げられる。
筋立てが明快でわかりやすいが、先が読めるようで読めない。主人公たちの危機がこれでもかと続き、飽きない。
さしもの鞍馬天狗も冒険が過ぎて捕われてしまい、杉作や吉兵衛が必死に試みても状況を打開できないあたり、どういう解決を見るのかとハラハラする。

勤王派と幕府方との対立構造について、善悪二元論で断じるような内容ではなかった。
新選組をことさら貶すような描写もない。土方歳三は常識をわきまえた人柄であるし、近藤勇はむしろ人格者として設定されている(※実在の隊士で登場するのはこの2人だけ)。

加えて、立場的に対立する同士であっても憎みあう以外の関係を結ぶことができる、という価値観が提示される。
相互理解や友情というものに期待してもよいと、希望を持てる気がした。

主人公の杉作は、不幸な境遇にもめげす、健気に生きている。
次々と襲い来る苦難に挫けそうになっても、そのたび勇気を奮い起こす。
杉作を支え続けたのは、鞍馬天狗が話したある言葉である。
それは、危険を顧みず闘い続ける鞍馬天狗に、杉作が「死なないでください」と願った時のこと。
鞍馬天狗は、次のように言い聞かせる。

「うむ、死ぬまい。めったに、またむだには死なない。
……おじさんは人間がすきなのだ。生きているのがよいことだとも、よく知っている。
だから、まず死ぬのはきらいだ。できるだけながくゆかいに生きていたいと思う。
……けれど、自分の命よりたいせつなものがあって、それをまもるためには命をなげださなければならないというときには、男はいさぎよく死ななければならない。
それと知っていて、知らぬ顔をして助かろうとするのは、ひきょうなのだ。わかるかい?
人間は、そういうときには命があぶないと知っていても、たたなければいけない」
(※「身がわり密使」の章 第一節より引用)


この言葉は、様々に解釈できるし、人によって異論もあるかもしれない。
ただ、「大きな事を成し遂げたかったら命と引き換えすべき」と煽るような意図では、決してないと思う。
人は、自分が生きていく上で大切なものは何か、知っておかなければならない。
それを守るために、いつか大きな決断を迫られる時が来るかもしれない。
だから、その覚悟をしておく必要がある、という意味かと感じられた。
作者の大佛次郎が読者の少年たちに伝えたかったことも、つまりこういうことだと思う。

とは言え、シリーズの1作だけを読んで、わかったようなつもりになるのは早計であろう。
いずれ、一般向けの作品も読んでみる必要があると思う。
まず本作を読んで、『鞍馬天狗』シリーズに好感が持てたこと、他の作品も読んでみようかという気持ちになれたことは、収穫だった。

本作「角兵衛獅子」は、昭和2~3年(1927-1928)『少年倶楽部』誌に連載された。
その後、下記の書籍として刊行されている。

『角兵衛獅子 前篇』 渾大防書房 1927
『角兵衛獅子』 先進社 1929
『角兵衛獅子 杉作の巻』 湘南書房 新日本少年少女選書 1948
『角兵衛獅子 鞍馬天狗』 湘南書房 新日本少年少女選書 1948
『鞍馬天狗 第12巻(角兵衛獅子)』 中央公論社 1951
『鞍馬天狗 角兵衛獅子』 湘南書房 1951
『鞍馬天狗・角兵衛獅子・山岳党奇談 日本少年少女名作全集 1』 河出書房  1954
『現代国民文学全集 第12巻(大仏次郎集 続)』 角川書店 1957
『鞍馬天狗 角兵衛獅子』 光風社書店 1967
『大仏次郎 少年少女のための作品集 1』 講談社 1967
『鞍馬天狗 第1巻(角兵衛獅子・雪の雲母坂)』 光風社書店 1969
『角兵衛獅子』 講談社 少年倶楽部文庫 1975  ← 本項の参考書
『大仏次郎時代小説全集 第2巻(鞍馬天狗 2)』 朝日新聞社 1975
『鞍馬天狗 4(角兵衛獅子)』 朝日新聞社 1981
『角兵衛獅子 鞍馬天狗 1』 小学館文庫 2000
『鞍馬天狗 2 大佛次郎時代小説全集 第2巻』 朝日新聞社 2005 1975年刊を原本とするオンデマンド版
『角兵衛獅子 鞍馬天狗傑作選 1』 大佛次郎 文藝春秋 2007
『鞍馬天狗 鶴見俊輔セレクション 1』 小学館 P+D BOOKS 2017 小学館文庫2000年刊の再刊

鞍馬天狗 1
角兵衛獅子
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 葉室麟、木下昌輝ほか『決戦!新選組』 

アンソロジー。6人の作家による新選組の短編小説を収録。
作家6人は、葉室麟、門井慶喜、小松エメル、土橋章宏、天野純希、木下昌輝。
本書の責任表示にも「著者」として6人が列記されている。ただ、当記事タイトルには全員を書き切れないので、便宜的に最初と最後の2人を挙げた。悪しからずご了承いただきたい。

収録作品6編は、以下のとおり。

葉室麟「鬼火」
沖田総司は、少年期の忌まわしい体験によって心的外傷を負う。
以来、感情をうまく表わせない、人に心を許すことができない性格となり、そのまま成長した。
試衛館一党が浪士組に加わって京に上った後、残留者同士の間で勢力争いが起きる。
邪魔者を粛清するよう命じられた総司だが、敵に後れを取ってしまう。その危機を救ったのは芹沢鴨だった。
芹沢は、壬生浪士組を土台に「尊王義軍」を組織しようと、様々な方策を果敢に断行していく。
一方、富商からの押し借り、大坂力士との乱闘事件、大和屋焼き討ち事件などで、乱暴者と恐れられた。
芹沢の優しさを知る総司は、彼の生き方に惹かれ、その行く末を見届けたいと思う。ところが――


本作の沖田総司は、周囲の人間に心から打ち解けられない。土方歳三に対しても、常に距離をおいている。
そんな総司が、芹沢鴨に対して単なる親愛以上の感情を抱く展開は、珍しいと思う。

本作の芹沢鴨は、武田耕雲斎や藤田小四郎と連携して攘夷を実行するため、浪士組に加わった。
壬生浪士組を「尊王義軍」にするため、戦闘集団として組織編成し、鉄の規律を設けたのも芹沢である。既成の作品では、土方が組織編成や法度の制定を行なったとされる例が多い。しかし、本作では「農民出身の近藤や土方にできることではなかった」と記述されている。
芹沢が有栖川宮に接近したのも、攘夷を実行するための一方策。
これほど具体的な目標を持ち、ひたすら努力・邁進する芹沢の人物造形は、ユニークで興味深い。

ちなみに、作者が新選組を描いた作品に、篠原泰之進を主人公とする長編『影踏み鬼』がある。
作者はおそらく、近藤・土方体制に従わない人物のほうが好きなのだろう。

門井慶喜「戦いを避ける」
元治元年6月5日の夜。
近藤勇は、わずかな人数を率いて、池田屋へ御用改めに立ち寄る。
思いがけずここが過激志士らの会合場所と知ったとたん、不本意ながら戦闘に突入してしまう。
焦燥の中、養子の周平が一刻も早くこの場へやってくるよう、ひたすら念じた。
近藤が谷三兄弟の末弟・喬太郎こと周平を養子に迎えたのは、ある大きな計画のためであった。
それは、この皇国(日本)を革めること、そのため新選組を強力な組織に仕立てて資することに他ならない。
やがて土方歳三のグループが駆けつけ、周平もようやく姿を現すが――


大坂にある谷道場を、近藤と原田左之助が訪問する場面が印象的。
本作の谷三十郎は、備中松山の元藩士というより、まるで「浪花の商人」。近藤とのやりとりがユーモラス。
万太郎と喬太郎が評価されると、すかさず自分も売り込む抜け目なさに、近藤もたじたじ。

近藤と周平との関係を描く小説は複数あるが、本作の場合は、板倉勝静(老中、備中松山藩主)が関連した新選組増強計画のあたりにオリジナリティを感じる。
司馬遼太郎「槍は宝蔵院流」、早乙女貢「槍の三十郎」、小松エメル「流木」などと読み比べるのも面白い。
また、近藤の熱しやすく醒めやすい性格は、作者の『新選組颯爽録』にも描かれている。

小松エメル「足りぬ月」
藤堂平助は、幼少期「藤堂和泉守の御落胤」を口実に実母から厄介払いされた、と信じて成長した。
人に必要なのは才と運。運はあれど才が今ひとつ及ばない己には、才のある誰かが必要だった。
山南敬助と出会い、彼の力量を頼みにして、いつか成功を得ようと決める。
山南の伝手で知りあった伊東甲子太郎は、さらに優れた容姿と文武の才を持つ魅力的な人物であった。
それに引き換え、近藤勇は剣・学問・要領・容姿いずれも秀でたもののない凡庸な人物、と目に映る。
やがて「夜道を照らす月」とも頼んだ山南を失った時、伊東を新選組にぜひ入隊させようと企図する――


本作の平助は、複雑な生い立ちから、人間関係を益になるか否かで判断する習慣がある。
損得ぬきの信頼なぞ理想論に過ぎないと思ってきたが、心の奥底では何よりそれを渇望していた。

プライドが高い一方で自己評価の低い平助が、それを自覚しないまま人生を模索する姿は、苦しく切ない。
得がたいものを得ようとする努力は大切だが、すでに得たものの価値に気づかず投げ捨てて「もっと素晴らしい何か」を探し求める生き方は不幸だ。
ただ、それは平助に限った話ではなく、人はこうした面を多かれ少なかれ持っている気がする。

こういう人柄の平助を、卑小な者ではなく共感できる主人公として描いた、作者の力量を感じる。
そのほか、近藤勇、伊東甲子太郎、斎藤一といった脇役の人物も魅力的。
作者の『夢の燈影』『総司の夢』とのつながりを見出すのも、楽しめると思う。

「足りぬ月」というタイトルは、少しだけ欠けた姿の月を意味している。
昨年12月13日の当方ツイートを引用しておく↓

【慶応3年11月18日=1867年12月13日・京都の夜空】
現地時刻で月出18:54、月没9:10(翌日)、月齢16.9(右側が少し欠けている)。
嵯峨實愛の日記によると、18日は晴れて雲が南へ行くのが見えたとか。
油小路事件の時、雲さえ無ければ月もよく見えたはず。
>>Twitter「誠の栞」‎@bkmakoto 2016/12/13

完璧なものだけに価値があるのではなく、多少不足があっても素晴らしいものは素晴らしい。
そのことに平助が気づいたのは、命が尽きようとする瞬間だった。

土橋章宏「決死剣」
慶応3年末、新選組を含めた幕府勢力は京都を引き払う。
永倉新八は、愛する内妻の小常を亡くし、生後まもない娘お磯とも別れ、戦いに臨む覚悟を決める。
負傷した近藤勇、病状が進んだ沖田総司は、戦列を離れた。
布陣した伏見で戦端が開かれると、ここを死に場所と定めた新八は、獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
新八にとって、時流も政治も思想も関係ない。剣を極め、信頼する仲間とともに戦うこと、先行きはわからなくても命あるかぎり今を生きることが、何より大切だった――


戦いの描写は迫力満点。
沖田が得意の三段突きを凌駕する必殺技を繰り出したり、新八が剣で薩摩の銃隊を圧倒したり、アクション映画的な味わいがある。

鳥羽・伏見戦争の場面で、新政府方の先込ミニエー銃に対し、新選組は火縄銃を装備している。
幕末、短期間に銃器が目覚ましく発展したのは事実。とはいえ、火縄銃から一足飛びにミニエー銃が導入されたわけではない。時期や地域によって、ゲベール銃やヤーゲル銃が用いられもしたし、幕府方にもミニエー銃・ドライゼ銃・シャスポー銃などを導入していた部隊はあった。
幕府や会津藩が軍制改革を進めていたのだから、新選組もゲベール銃くらいは装備していたと思う。
戊辰戦争で火縄銃が投入されたのは、軍備が遅れていた小藩の勢力、もしくは装備や人員が極端に不足した局面ではなかろうか。

新八の、同志たちと別れても戦いぬき、時代の移り変わりを見つめつつ、己の生を全うした生涯。
本人に「死に遅れた」という思いはあったかもしれないが、亡き盟友たちの分まで生きた、と感じられた。

天野純希「死にぞこないの剣」
会津にやってきた斎藤一は、土方歳三の代理として新選組隊長の任に就く。
松平容保に初めて親しく言葉をかけられ、この主君のために戦おうと決意を新たにした。
白河の攻防戦では、同盟軍の一翼を担って戦い、敵を退ける。しかしその後、新たに着任した総督の指揮が振るわず、劣勢に陥り撤退を余儀なくされた。
次いで、母成峠の守備につく。ところが、傷が癒えて戦線に復帰した土方は、会津藩の敗北を予言する。
曰く、兵員不足の母成峠は突破され、城下戦になる。そうなれば同盟は瓦解するだろう。
「会津を出て蝦夷地へ渡り、徳川旧臣による新政権を樹立する」という壮大な計画に誘われ、一の心は迷う。
やがて、霧を衝き山中の険路を踏破した敵軍が、猛攻を開始する。応戦する守備勢だが――


斎藤一の視点から、会津戦争の苦しさが描写される。
軍事能力より家柄を重視した同盟側の人事。たとえ能力があろうと、軽格者の進言は採用されない。
それらが影響して敗色が濃くなると、ついに心が離れていく者も出る。
このような状況の中、一が敢えて会津に残り戦い続けるに至った理由は、単純だけれども深く大きい。

土方は、合理的な判断から見切りをつけ、新天地を求める。
ただ本作では、一と対比させるため、このように描かれているのだろう。
実際のところ、当初は救援要請が第一だったと思われる。最初から旧幕海軍との合流が目的ならば、新選組を大鳥圭介に預けて米沢方面へ向かう必要はなかった。

戊辰戦争後、明治を生きる一の心境には、土橋章宏「決死剣」の永倉新八に似通ったものを感じた。
性格や生き方はそれぞれ違っても、生き残り幹部としての精神には共通項がありそうだ。
戦後にこのふたりが会ったとしたら、どんな話をしたのか……そんな想像をせずにいられない。

木下昌輝「慈母のごとく」
土方歳三は、鳥羽・伏見の戦場で、旧幕将兵の士気がまったく振るわず、逃げ出すさまを多く目撃する。
やはり鬼となって叱咤激励する指揮官がいなければ、勝てはしない。己は、部下に怯懦の振る舞いを許さない。
近藤勇は、そんな歳三を「厳しいだけでは人はついてこない」と諫める。
それでも歳三は、自分の正しさを信じて疑わなかった。
流山で敵に包囲された時、近藤は指揮官として責任を取り、武士として死ぬため、切腹しようとする。
それを止めた歳三は、一か八かの起死回生に賭け、新政府方へ出頭せよと勧める。
やむなく応じた近藤は、別れ際、歳三にある「約束」をさせるのだった――


「鬼」と畏れられた土方歳三が、戊辰戦争の中で「仏」に変わり部下たちから慕われるようになった経緯の裏には、近藤勇との「約束」があった、という物語。
歳三は、近藤を死なせた償いとして「約束」を守るが、最後の戦いでは破らなければと心に決めた。
ところが激戦の最中、目の当たりにしたのは、歳三のそんな思いとはまったく裏腹な光景だったのだ。
予測が外れてむしろ良かったと思わせる結末が、切なくも温かい。

脇役の野村利三郎と島田魁が、それぞれ妙味を見せている。
野村は、意欲的だけれど強情な性格。何かにつけ他人の非を糺しては叱りつける。しかし、戦いでは常に危険な役回りを引き受けるので、人望がある。
島田は、野村をかつての歳三に似ていると評するが、歳三は「俺はあんな馬鹿じゃない」と不満顔。
そして宮古湾海戦では、やはり野村が真っ先に敵艦へ飛び込んでゆくのだった。

歳三が宇都宮戦で味方の兵を斬ったこと、二股台場山で部下たちを労ったこと、いつしか子に慕われる「慈母」の如く配下の者たちに慕われたこと、箱館市街戦で「退く者は斬る」と宣言したことなど、多くの史料や通説を採り入れつつ、巧みに独自の展開へ落とし込んでいる。
その手法は、『人魚ノ肉』でも活かされていた。

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収録作品の初出は、『日刊ゲンダイ』2016年11月8日~2017年5月1日。
本書は2017年5月、講談社より出版された。四六判ソフトカバー。電子書籍もある。

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 新人物往来社編『近藤勇のすべて』 

研究本。近藤勇という人物について、生涯の様々な面を取り上げ考察する論考集。
全26編(1ページイラスト記事3点を含む)を、18人の執筆者がそれぞれ担当している。
収録内容は以下のとおり。

「近藤勇が生きた時代」 童門冬二
「異説・勇の少年時代」 林栄太郎
「近藤勇と宮川家」 宮川豊治
「試衛館はどこにあったのか」 菊地明
「山川さんが私の家の地主さんです」 林栄太郎
「天然理心流と近藤勇」 小島政孝
「新選組結成」 伊東成郎
「近藤勇の剣」 吉田光一
「近藤勇と松平容保」 宮崎十三八
「内部粛清された人々」 古賀茂作
「池田屋事変」 山村竜也
「龍馬暗殺の夜の近藤勇」 永岡清治
「新選組屯所を発見するの記」 石田孝喜
「甲州勝沼戦争」 今川徳三
「筆跡からみた近藤勇の性格」 森岡恒舟
「流山の朝――捕縛までの日々」 菊地明
「近藤勇の妻・おつね」 赤間倭子
「近藤勇の首級はどこに」 小島政孝
「近藤勇関係人名事典」 清水隆
「近藤勇史跡事典」 野田雅子
「近藤勇略年譜」 菊地明
「宮川家系図」 宮川豊治
「近藤勇関係文献目録」 清水隆
イラスト記事「同時代人が語る近藤勇」「幕末の女たち」「映像の中野近藤勇」 今川美玖

新人物往来社の『◯◯のすべて』シリーズは、1冊で◯◯を概ね把握できる、重宝な教養書。
テーマ(◯◯)は多彩ながら、やはり戦国と幕末維新の関連が最も多かった、と記憶している。
幕末維新の◯◯は、『徳川慶喜』『松平春嶽』『松平容保』『松平定敬』『山内容堂』『島津斉彬』『阿部正弘』『天璋院篤姫』『小栗忠順』『勝海舟』『河井継之助』『楢山佐渡』『ジョン万次郎』『伊庭八郎』『横井小楠』『吉田松陰』『由利公正』『坂本龍馬』『桐野利秋』『会津戦争』『会津白虎隊』『箱館戦争』など。
新選組の◯◯は、『新選組』『土方歳三』『沖田総司』『新選組・永倉新八』『新選組・斎藤一』があり、本書『近藤勇のすべて』もその1冊。

本書を今回取り上げようと思い立ったのは、最近の報道がきっかけである。
「百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持」と産経ニュースが2017年5月14日付けで報じた。
周知のとおり、近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、板橋にて斬首に処された。その首級は京都で梟された後、行方知れずとなり、埋葬地をめぐって複数の説がある。
記事は、会津埋葬説を補完する史料が発見された、という内容。近藤の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に貼付されていたメモに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」云々の文面と「若松市長・松江豊寿」の署名があるのだとか。
この報道を受け、「他の説も改めて検証すべきでは」という意見がネット上に見られた。

そこで、本書収録「近藤勇の首級はどこに」を思い出した次第。
全7ページとコンパクトな論考ではあるが、要点が簡潔にまとまっている。
近藤勇の墓といわれる7箇所とそれぞれの説明が、以下のように記述される。

1.板橋駅前(東京都北区滝野川)
永倉新八らが明治9年に建立。正面に近藤・土方の名を刻んだ大きな墓碑。
近藤の死亡地であり重要ではあるが、墓自体は供養墓とみるべき。

2.龍源寺(東京都三鷹市大沢)
主に近藤勇五郎の談話によると、遺体を板橋から密かに運んで埋葬した。首級は埋葬されていない。

3.天寧寺(福島県会津若松市東山町)
土方歳三が会津に滞在中、松平容保の許可を得て建立した。
近藤の墓としては、最も早期に造られたもの。首級は埋葬されていない。

4.円通寺(東京都荒川区南千住)
三河屋幸三郎が建立した「戦死墓」「死節之墓」がある。
「死節之墓」に、他の旧幕方戦死者と並んで近藤や土方の名もある。当然、供養墓である。

5.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町寺山)
石碑は現存せず。台石のみ、土中に長年埋もれていたものが昭和33年に発見された。
なぜか土方と伝習隊隊士らの名、「慶応三辰年」と誤った年号がある。
法蔵寺に「京都の誓願寺から託された首級を埋葬した」と伝わるも、誓願寺には史料がない。

6.京都市東山山中(未確認)
小島誠之進(鹿之助の四男)が、明治29年、本田退庵に案内されて首級埋葬地を訪ねた。
当時のメモらしき墓石の図と「東大谷之傍、京都黒谷之上ノ山、霊山と申山之中央」の文言が残る。
ただし、現地へ行ってみても発見できない。大雨による土砂崩れなどで埋まってしまったのかも。

7.高国寺(山形県米沢市鍛冶町)
「近藤金太郎が板橋から首級を盗み、荼毘に付し米沢へ埋葬した」と昭和59年、浅沼政直氏が発表。
金太郎家の系図に「近藤周助の妹と茂右衛門との間に金太郎が出生」と記されるも、周助に妹はいない。
首級が京都で梟されたのは事実であり、板橋から盗んだとする点も疑問。

以上は簡単な要約。原文には、もっと説得力がある。
これがもし覆るとしたら、誰もが認めるほど確実な証拠が出てきた時だろう。
研究家諸氏もおそらく近い見解をお持ちで、そのため諸説の再検討に至らないように思われる。

◆少々補足・その壱。
天寧寺の墓には、首級もしくは遺髪が埋められたという伝承がある。ただし確証は未発見。
先日発表された愛刀メモも、今のところ傍証的なものと捉える意見が多い様子。

◆少々補足・その弐。
明治22年、本田退庵と佐藤俊宣(彦五郎の長男)が京都を訪れ、霊山の中腹で首級埋葬地を発見したという。
退庵はこの時の発見によって、小島誠之進を案内したのだろう(上記「6」)。

◆少々補足・その参。
京都での梟首を、佐倉藩士・依田七郎(学海)が閏4月10日に目撃した。
「面色生くるが如く、余とともに談笑せし時を想ひ見る、悵然として之を久しうす」などと書き残している。
1月16日に江戸城で近藤・土方と面談した彼が認めたのだから、近藤の首に間違いないと思われる。

◆少々補足・その四。
梟された後の首級は粟田口(京都)に埋められたというので、探した者があったが発見できなかった…と子母澤寛が『新選組遺聞』の初出時(『サンデー毎日』)に書いている。(※出版時には脚色が加わえられた様子。)

◆少々補足・その五。
首から下の遺体についても、龍源寺埋葬説のほかに、「板橋の処刑場にいったん埋められるも、当日中に新政府軍の命令で寿徳寺境外墓地(現在の板橋駅前)に改葬された」という説がある。
これは、板橋の石山家子孫・石山亀二の証言に基づく。

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本書には「近藤勇の首級はどこに」のほかにも興味深い論考が多い。
タイトルだけ見て「すでに周知の事柄」と思っても、読むと改めていろいろ気づかされる。
刊行後に研究が進んで少々古くなった部分もあるが、今も利用価値は高いと思う。
近藤勇の研究本自体がそれほど多く出版されていないので、その意味でも手元にあれば重宝する。

1993年、新人物往来社より刊行された。四六判ハードカバー。

近藤勇のすべて


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