新選組の本を読む ~誠の栞~

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 根岸友山と新選組 

2019年3月13日、「林修のニッポンドリル」(フジテレビ系列)を視聴した。
この日の放送は「名家に眠るお宝の値段調査」と題する内容。
後半、埼玉県熊谷市の根岸家が紹介された。およそ400年も続く名家である。
その十一代当主は、幕末から明治を生きた根岸友山。新選組といささかの縁があった人物、と承知している向きも多いであろう。

番組では、根岸家に伝わる品々を紹介。友山ゆかりの品も出てきたが、人物像には簡単に触れたのみだった。
そこで、改めて経歴などを振り返ってみる。

【根岸友山の経歴】
文化6年(1809)11月27日、武州大里郡甲山村の豪農・根岸栄次郎の長男として出生した。
母は、桶川宿本陣兼名主・府川甚右衛門の娘りさ。
幼名は房吉、実名は信輔、瓊枝。通称は伴七、仁輔。雅号を友山とする。
生家は享保以来、代々名主を務める家柄。大地主であり、農業経営のかたわら酒造業も営んでいた。
文政7年(1824)、16歳にして家督を継ぎ、根岸家十一代当主となる。
文政10年(1827)19歳の時、比企郡小川町・笠間四郎左衛門の娘さわを妻とする。

若い頃から文武に励む。
学問は、寺門静軒(水戸藩出身の儒者)、芳川波山(忍藩校学頭)に師事。
自邸内に私塾・三余堂を設け、知識人を招いて講義させ、近在郷党の学問の場とした。
剣は、比企郡志賀村の水野清吾に甲源一刀流を学び、のち千葉周作の下で北辰一刀流を修める。
さらに、自邸に剣術道場・振武所を設け、周作の門人を招いて修行を続け、地域の若者たちにも教えた。
国事に奔走する有志たちとも交際し、屋敷にはいつも10人以上を寄宿させ、援助した。
こうした交流関係から、次第に平田派国学に傾倒する。

天保4年(1833)25歳の時、大里23ヶ村の普請惣代として荒川堤防の改修工事に尽力する。
天保10年(1839)30歳の時、改修工事における不正を告発すべく、農民たちが川越城下へ押し寄せる「蓑負騒動」が勃発。友山も農民たちに協力する。
天保12年(1841)32歳の時、「蓑負騒動」で強訴の罪に問われ、居村構および江戸10里四方追放となる。追放の間、上州新田郡細谷村に仮住まいした。(厳重な監視を受けていたわけでなく、自邸や江戸にも多少の出入りはできた様子。)
安政2年(1855)46歳の時、ようやく処分を解かれる。

万延元年(1860)、長州藩の「御国塩其外産物之御用取扱」に任命され、翌年頃まで御用を務めた様子。
文久3年(1863)55歳の時、清河八郎や池田徳太郎から浪士組への参加を要請され、20余人を率いて加盟。自身は一番組小頭に任命される。そして京へ上るが、まもなく江戸へ戻ることに。
東帰後、新徴組に入り、再び一番組小頭となった。しかし同9月、病気を理由に脱退し、郷里へ帰る。

元治元年(1864)、第一次幕長戦争に際し、長州支援の挙兵を画策するも、不発に終わる。
慶応2年(1866)6月16日、武州世直し騒動の打ち壊し勢に襲撃され、武力で撃退する。
慶応3年(1867)11月、野州出流山挙兵への呼応を試みるが、幕吏に怪しまれ、これも不発に終わる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見での新政府軍勝利を知り、祝宴を開く。8月、旧幕府の関東取締出役に協力した嫌疑で新政府軍に捕われるが、やがて冤罪と判明し釈放される。
明治2年(1869)、名字帯刀を許された。
まもなく政治活動から身を引き、神葬祭運動や文化財保護などに専念する。
明治23年(1890)12月3日、82歳で病没。


この経歴を見ると、友山は幕府に対して反発する気持ちが強かったようだ。
公共事業の不正を告発したのに罰せられたとあっては、無理からぬところか。世直し騒動においても、幕府には頼らず地域の力を結集し自衛した、という自負心があった様子。
人物像として、「倒幕の志士」というより「地域自治のリーダー」という側面のほうが大きく思える。例えるなら、日野の佐藤彦五郎や小野路の小島鹿之助と近いのではないか(幕府への姿勢こそ正反対だけれども)。

さて、友山が京へ上ってすぐに戻った経緯とは、どのようなものであったか。

【上京~東帰の経緯】
文久3年2月8日、浪士組は江戸を出立。同23日、京へ到着した。
着くなり、清河八郎と幹部らは「天皇のため関東で攘夷の先鋒を務めたい」と朝廷に働きかける。
そして3月3日、江戸へ下るよう関白からの命令を取りつけた。
隊士の多くはこれに従うが、中には反対する者もいた。京の治安を守り将軍家茂を警護する目的で来たのに、それを果たさず帰るのでは本旨にもとる、という考えである。

3月10日、17人が会津藩へ京都残留を願い出る。京都守護職の会津藩主・松平容保は、幕府から残留希望者を差配するよう、正式に命じられていた。
17名の内訳は、芹沢鴨ら5人(新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助)、近藤勇ら8人(山南敬助、沖田総司、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八)、ほかに粕谷新五郎、阿比留鋭三郞の2人、京で合流した斎藤一、佐伯又三郎の2人である。

一方、それとは別に、浪士取扱役・鵜殿鳩翁が、殿内義雄と家里次雄に残留者を募るよう命じた。
こちらには、根岸友山と、清水吾一、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵の5人が応じ、合計7人となる。
友山にとって、家里は以前からの知己、清水は甥である。遠藤と神代も、知人を介し面識があった様子。殿内は、上京の途次に友山の組下へ入っていた。

3月12日、近藤・芹沢ら17人は、京都守護職お預かりを許される。翌日、浪士組本隊は江戸へ出立した。
3月15日、近藤・芹沢ら17人と友山ら7人を合わせた24人が、正式に会津藩預かりとなる。
3月22日、残留の壬生浪士たちは、家茂の滞京を訴える意見書を老中・板倉勝静に提出した。18人の連名であり、友山もこれに加わっている。

3月25日、会津藩士・本多四郎が、壬生浪士たちと壬生狂言を見物する。同席者17人の中に、友山の名はない。
その夜のこと、殿内義雄が殺害された。原因は、壬生浪士の内訌であるという。
この後まもなく、友山をはじめ清水、遠藤、神代、鈴木の5人は京を去り、江戸へ戻った。そして、東帰した浪士組の後身である新徴組に、揃って入隊している。


この経緯を、友山の実子である根岸武香は「(芹沢や近藤は)大義名分を失し、正義の士を暗殺せんとするの意あり」「父友山、このことを未発に察し、同志両三輩と伊勢大廟へ詣するを名とし、京を出、東下して組を脱したり」と『根岸友山履歴言行』に記す。父から聞いたことを書き留めたものだろう。
友山自身は、「(芹沢や新見は)何事をも我儘に行ひ威を振たる也」、「(近藤は)思慮もなき痴人なり」と、『自伝草稿』にて強く批判している。芹沢・近藤らへの嫌忌は明白と言えよう。

話を戻すと、「林修のニッポンドリル」には非常に引っかかる部分があった。
根岸家を「近藤勇・土方歳三の盟友を生んだ家」、友山を「近藤勇、土方歳三とともに活躍した壬生浪士組一番隊隊長」と紹介していたのだ。
しかし、前述のとおり、友山が近藤や土方を「盟友」と思っていたはずはない。また、彼が「浪士組の一番小頭(隊長)」だったことは事実だが、「壬生浪士組の一番隊隊長」とはいかがなものか。そのような役職の存在自体が未確認であろう。

根岸家を紹介した番組としては、これより前に「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(テレビ東京系列)があった。2018年7月20日放送の「街道一のお宝を探せ!中山道(第1回)」で鴻巣~熊谷~本宿をたどり、熊谷で根岸家を訪ねている。
ここでは、友山を「新選組の前身となった浪士組の一番隊長」と説明し、強引なこじつけはされなかった。
過剰な煽り文句がなくても、番組は成立する。誤解を生むような作り話はしないでもらいたい。

ちなみに熊谷では、友山は郷土史の著名人物として紹介されている。
根岸家では、かつて振武所が置かれた長屋門に「友山・武香ミュージアム」を開設し、当家や地域の歴史に関連した展示を行なっている。
例年4月、この長屋門をメイン会場として「友山まつり」が開催される(主催:おおさとまつり実行委員会、共催:くまがや市商工会南支所)。友山の顕彰と地域の親睦を兼ねたこのイベントは、2019年で13回目を数えた。

根岸友山について、新選組の歴史から知ると「すぐ帰った人」「芹沢や近藤を貶した人」というイメージが先行しがちだ。しかし、「地域に貢献した有徳の人」という側面も知っておいてよいのではなかろうか。

根岸友山・武香の軌跡


幕末維新埼玉人物列伝
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 描かれた井上源三郎 

日野市立新選組のふるさと歴史館にて、企画展「没後150年 新選組 井上源三郎 ―八王子千人同心と新選組の幕末維新―」が、2017年12月12日から2018年2月18日まで開催された。
井上源三郎が、新選組草創以来の中核メンバーであり、日野出身であったことは、周知のとおりである。
この企画展は、源三郎の兄・井上松五郎も取り上げつつ、新選組と幕末動乱期を検証する内容だった。

展示構成は、以下のとおり。
1.幕末の日野宿と天然理心流
2.井上松五郎・源三郎兄弟
3.浪士組上洛
4.京都での新選組
5.鳥羽・伏見の戦い
6.八王子千人同心と井上松五郎
7.描かれた井上源三郎

全般に興味深い展示だったが、当ブログ的には最後の「描かれた井上源三郎」に着目した。
小説・映画・マンガなどフィクションにおける、源三郎の人物造形とその変遷が面白い。
要点をまとめると、次のようだった。

(1)創作に登場する新選組と井上源三郎
大正時代から昭和20年代頃のフィクションでは、新選組は「近藤勇とその他一同」扱い。
近藤の脇に土方歳三や沖田総司が配される例はあるが、源三郎を含む他の隊士はあまり重視されない。
登場したとしても、年齢や性格などは作品によってまちまちで、決まったイメージはなかった。

(2)『新選組血風録』と井上源三郎
源三郎の人物像を決定づけたのは、司馬遼太郎の小説『新選組血風録』
作中、源三郎は「老齢凡骨」と形容され、剣才のない老人として描かれる。
史実に創作を混入しリアリティを出す司馬の絶妙なテクニックにより、これが実像と誤解されてしまった。

(3)大河ドラマと新しい井上源三郎像
平成16年のNHK大河ドラマ「新選組!」の頃、マンガやゲームなどの創作もピークに。
当時は、まだ従来作品の設定を流用したものが少なくなかった。
しかしその後、新しいイメージを打ち出す作品が増え、バリエーション豊かになっている。
源三郎についても、実際は年寄りでもなければ弱くもない、ということが知られつつある。
ただ、長年醸成されたイメージが完全に払拭されるには、未だ至っていない。

というわけで、今更ながらに司馬遼太郎の影響力の大きさを思い知った。
土方歳三も沖田総司も、今日のようなイメージが形成され人気者になった流れを遡れば、司馬作品に行き着く。
源三郎もまた同様、とは指摘されるまで意識しなかったが、別にありえない話ではなかったのだ。

ただ、源三郎の場合は土方・沖田と扱いが異なり、いささか残念な感じになってしまった。
小説など創作においては、登場人物が全員カッコよくてもつまらない。
剣客集団・新選組の中に、幹部にもかかわらず強くない人物がいる。お荷物扱いされていたのに、あるとき意外な奮闘を見せる、というエピソードがあれば面白くなる。
作家によってそういう役回りを負わされた結果であろう。

短編集『新選組血風録』のうち、源三郎を主人公とするのは「三条磧乱刃」である。
この1編だけでキャラクターイメージが出来上がってしまったというのは、やはり凄い。
読み返してみて、改めて気づいたことがいくつかある。

【源三郎の外見と年齢】
作中、源三郎は「六十くらい」に見えるが、本当の高齢者ではない。沖田は、43~44歳くらいだと言う。
実のところ、「三条磧乱刃」の慶応元年頃には、37歳である。
これは、作家が事実を知らなかったというより、身内同然の沖田にさえ実際より年嵩に見られているというユーモアなのでは?とも思える。

【源三郎の剣歴】
府中における近藤勇襲名披露の野試合では、源三郎が鉦役を務めたと説明されている。
これは佐藤彦五郎の書簡が伝える事実。ただし、「安政5年」ではなく文久元年のことだ。
また、源三郎が天然理心流の「目録止まり」とあるのは、事実でない。
実際には、嘉永元年(1848)に「切紙」「目録」を受けた後、安政2年(1855)に「中極意目録」、万延元年(1860)に「免許」を授かっている。

【同郷同流出身の絆】
源三郎と近藤・土方・沖田の強い心理的結束が、描かれている。
多摩の郷党と深く結びつき、天然理心流を修業した4人の信頼関係は、江戸以来の同志の中でも別格。
明確な根拠を挙げづらいものの、ほぼ事実ではなかろうか。
例えば、池田屋事件の時、土方が自分の手勢を分け指揮を任せたのは、源三郎である。深い信頼あってこそできたことだろう。そして源三郎の隊は、土方隊よりも早く池田屋に駆けつけ、近藤隊を支援して戦ったという。
また、慶応3年の江戸での隊士募集には、源三郎が土方に同行、補佐している。

フィクションの人物造形に利用される材料は、ほかにもいくつかあると思う。
主要なものを挙げると、こんなところだろうか↓

◆八木為三郎の証言(子母澤寛『新選組遺聞』
(壬生寺で子供と遊んでいる沖田のところへ)井上源三郎というのがやって来ると、「井上さんまた稽古ですか」という。井上は「そう知っているなら黙っていてもやって来たらよかりそうなもんだ」と、忌(い)やな顔をしたものです。井上は、その時分もう四十位で、ひどく無口な、それで非常に人の好い人でした。

証言者は、新選組が最初に屯所を置いた壬生、八木家の子息。
『新選組遺聞』は、昭和4年に単行本が出版され、研究にもフィクションにも多くの影響を与えた。
「三条磧乱刃」にも、この証言は引用されている。

◆井上泰助の証言(井上家の伝承)
おじさん(源三郎)は、ふだんは無口でおとなしい人だったが、一度こうと思い込んだらテコでもうごかないようなところがあった。鳥羽、伏見の戦の時も、味方が不利になったので大坂へ引揚げるため、引けという命令がでたが、戦いを続けてすこしも引かず、ついに弾丸にあたってたおれてしまった。

証言者は、井上松五郎の次男、源三郎にとっては甥。12歳にして新選組に入隊、源三郎の戦死を目撃した。
井上家の伝承は、ご子孫や研究家の谷春雄によって関連出版物に発表されるなどしている。
司馬遼太郎は、取材に日野を訪れ、地元住民から聞き取りをしたことがある。

◆川村三郎の書簡
井上源三郎 同(戊辰正月)三十七、八歳。武州八王子同心ノ弟ニテ、近藤土方等ト倶ニ新撰組ヲ組織セシ人ナリ。依テ副長助勤ト名称シ局長会議ニ参与スル務ナリ。併シ乍ラ文武共劣等ノ人ナリ。

証言者は元新選組隊士、在隊時は近藤芳助と名乗る。元治元年の入隊時には22歳。
明治39年頃、高橋正意からの問い合わせに回答した。その返書が、京都府立総合資料館所蔵『新撰組往事実戦譚書』として現存する。存在が広く知られたのは、昭和47年、研究家の石田孝喜によって紹介されて以来。
司馬遼太郎が先んじて読んでいたどうか不明だが、可能性は否定できまい。
記述された年齢は、実際の40歳よりやや若い。前歴は、そこそこ正確。
しかし、「文武共劣等」のくだりは「三条磧乱刃」を裏づけるかのよう。
あんまりな評価と思うが、このように見られる場合もあった、とは言えるのかもしれない。

フィクションが史実に縛られる必要はなく、自由に創作されてよいと思う。
そしてまた、受け手は、虚実ない交ぜであることを踏まえた上で楽しめばよい。
本項で小説と史実とを対照してみたのは、単に共通点や相違点が興味深いからであって、「史実に反するフィクションは良くない」などという意図は全然ない、念のため。

それはそれとして、源三郎の従来イメージでも「温厚篤実で周囲から慕われる」という面は決して悪くない。
こういう彼を主人公に据えたフィクションもある。例えば、比較的新しい小説では、秋山香乃『新撰組捕物帖』『諜報新撰組 風の宿り』、小松エメル「信心」(『夢の燈影』所収 )など。
主役ならずとも名脇役として描かれる例は、さらに多くある。
今後、我らが愛すべき「源さん」のイメージがどのように変遷していくのか、見届けたいと思う。

週刊司馬遼太郎
(週刊朝日MOOK)
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 立って歩いて? 誠メシ! 

しんせんぐルメ 誠メシ!」「ご当地グルメ 誠メシ!」に続いて、新選組と食の話。
しつこいようで恐縮だが、今回でひとまず終わるので、ご容赦いただきたい。

食について語る時、何に目を向けるべきだろうか。
どのような食材をどのように調理して食べるかは、もちろん肝要だ。
ただ、それ以外にも大切なことがあるように思う。

『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を読んで、感銘を受けた。
酒井伴四郎がいつ何を食べたにとどまらず、当時の食文化や周辺事情にまで言及しているからだ。
例えば、日本の中で江戸が「食のクロスロード」たり得た理由、そのひとつは参勤交代制にある――という解説など、歴史を理解する上で非常に興味深く勉強になる。

ところで近頃、あるフィクション系の出版物を見かけた。
その中で、新選組隊士らしき人物が、往来を歩きながら何やら食べている。
日常の一コマを描いたものらしく、同様の場面が複数散見される。
新選組を貶す意図はないとわかるし、フィクションにいちいちリアリティを求めるのも野暮と思う。
ただ、その出版物は単純な娯楽作品にとどまらず、史実や時代考証もいくらか重視している様子なので、いささか残念な気分になった。

通常、歴としたサムライが歩き食いをするとは、考えにくい。
庶民ならば、屋台などで立ち食いするし、事によったら歩き食いすることもあるかもしれない。
しかし、サムライは違う。屋外で飲食する場合も、適当な場所に坐るなり、やむなく立っていても歩き回らないようにするなり、注意を払うはずである。

具体例として、実在の人物・江原素六の回顧談を挙げる。
彼は、下級の幕臣に生まれたが、才能によって抜擢され、講武所の砲術方教授、撒兵隊の隊長などを務めた。
維新後は教育者、政治家として活躍し、麻布学園を創立。キリスト者として布教に携わってもいる。

素六が子供の頃、生家は微禄で非常に貧しく、楊枝削りの手内職で家計を支えていた。
ある時、父と楊枝を納品に行った帰り、いなり寿司が食べたくてたまらなくなる。
「小用を足したい」と言い繕って後に残り、道端の屋台でいなり寿司を買った。
そして一口頬ばった瞬間、父に殴られた。先に帰ったと思った父が、いつのまにか見ていたのだ。
さらに帰宅後、母にもひどく叱られた。
空腹でも耐えるのが武士であり、我慢できずに往来で食べるなど卑賤な者の行い、というわけである。

(※参考:司馬遼太郎『歴史と視点』所収「黒鍬者」)

素六は、往来で立ち食いしようとしたため、武士の行動としてふさわしくない、と叱られてしまった。
まして歩きながら食べるなどは、ありえない。
たとえ生活が貧しくとも、サムライにはサムライとして守るべき品格や礼節があったのだ。

新選組について、行儀などかまわない粗野な連中、という見方もあるかもしれない。
実際、永倉新八は、戦いの最中、路上に落ちていた切り餅を拾って呑み込んだ、という体験談を遺した(※『新選組興亡史』)。
ただ、これもあくまで非常時のことで、日常的に拾い食いや歩き食いをしてはいなかったろう。
新選組が武士の精神を重んじる集団である以上、それなりの行動規範があったはずだ。

当時の人々が、どのような社会にどのような意識を持って生活していたか。
実像を知ろう、伝えようとするなら、そうした背景も視野に入れておくことが望ましいと思う。

遺聞 市川・船橋戊辰戦争
―若き日の江原素六
‐江戸・船橋・沼津
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 ご当地グルメ 誠メシ! 

前回「しんせんぐルメ 誠メシ!」に続き、新選組と食の話。
今回は、特定の地域や老舗の名産品にかかわる説を挙げてみる。

たまごふわふわ
近頃「近藤勇はたまごふわふわが好物だった」という説を、よく見かけるようになった。

たまごふわふわとは、泡立てた玉子と出汁をまぜ蒸した料理で、江戸時代から存在した。
2004年のNHK大河ドラマに「食べたいものはありますか」「たまごふわふわ」というツネと勇の会話があった。これがきっかけで広まった気がするが、その少し前から流布するようになっていたと思う。

このたまごふわふわ、東海道・袋井宿(静岡県袋井市)の名物料理であった。
袋井観光協会の説明によると、文化10年、大阪の豪商・升屋平右衛門が記した「仙台下向日記」に、袋井宿の大田脇本陣で朝食の膳に載った、とあるそうだ。
現在、袋井市観光の目玉のひとつとなっており、市内の複数の飲食店で提供される。

袋井宿には、近藤勇も宿泊している。
江戸出張から京都へ戻る途中、元治元年10月26日のことであったと、東海道石部宿歴史民俗資料館(滋賀県湖南市)が所蔵する旧本陣小島家の宿帳に記載されているとか。
袋井宿に泊まったのなら、当地の名物料理を供された可能性も考えられよう。

ただし、実際に食べたという記録は発見されていない様子。
その可能性を否定するつもりはない。ただ、「好物」とするには根拠が弱いのではなかろうか。

ナマズ料理
近藤勇に関しては「ナマズが好物」という説もある。

2014年9月19日放送のNHK「キッチンが走る!」は、「発見!近藤勇も愛したユニーク食材 ~埼玉・江戸川中流域~」と題する内容だった。
番組中、吉川市内のナマズ養殖業者が「近藤勇も当地の料亭に来てナマズを食べた」と語った。

調べたところ、地元の老舗料亭が「近藤勇、勝海舟、板垣退助などの歴史的著名人も当店の料理を楽しんだと言われています」とPRしていることがわかった。

しかし残念なことに、いつどのような状況だったのか、具体情報が提示されていない。
事実とすれば、慶応4年、綾瀬の五兵衛新田から流山へ転陣する頃だろうか。
また、ナマズを食べたのが事実としても、「好物」「愛した」とまで言えるものだろうか。

上記以外にも、近藤勇が「おせきもち(京都市伏見区)」を訪れたとか、土方歳三が「お秀茶屋(会津若松市東山町)」を訪れた、とかいった伝承もある。

こうした話には、なかなか興趣を誘われる。
機会があればそれを食べてみよう、と思いたくもなる。
ただ、史実と断定できるかどうかは、また別の問題と捉えたい。

卵のふわふわ
(講談社文庫)
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 しんせんぐルメ 誠メシ! 

新選組の隊士たちは、日々どんなものを食べていたろうか。

こういう些細なことが、意外とわかりにくい。
大きな出来事はともかく、ありふれた日常を記録に残そうとする人物が、隊内や周辺にいなかったためだろう。
前回『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を紹介するにあたり、改めて調べてみたが、確実と思える情報は見つからなかった。

とは言え、手がかりは皆無ではない。目についた事柄をいくつか挙げてみよう。

みそづけ
沖田総司が宮川音五郎(近藤勇の実兄)に宛てた、慶応3年11月12日付の書簡がある。
その一節に「何より之味噌漬被下、難有奉存候」と、味噌漬けをもらったことへの謝辞が記される。

この味噌漬けは、江戸へ出張した土方歳三と井上源三郎が京都へ戻る際、音五郎が托したものらしい。
わざわざ持たせるからには、沖田(あるいは近藤らも含めた面々)の好物だったのだろう。
ただ残念ながら、何を漬けたものか明記がない。野菜、魚肉、それ以外……想像をめぐらすのみである。
(※参考『土方歳三・沖田総司全書簡集』

あひる
慶応3年元旦、伊東甲子太郎が永倉新八と斎藤一、そのほか腹心たちを引き連れて島原の角屋へ出かけた。
その日、廓内は休みであったので、「途中から家鴨十羽買い込み」持っていった。

この家鴨を料理させて、酒肴とする意図であったようだ。
生憎と調理法は不明だが、焼き物にでもしたのだろうか。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

うなぎ
戊辰戦争が続いていた頃のこと。
永倉新八は、同志の芳賀宜道と連れ立って、米沢から東京へ密かに舞い戻った。
浅草へ着いて山野の重箱で久しぶりで江戸前の鰻で」腹を満たした、という。

「重箱」とは、寛政年間から続く蒲焼きの老舗。現在は、赤坂で本格的料亭として営業しているとか。
永倉らがこの店へ立ち寄ったのは、店の者と顔見知りだったなど、安心できる理由があったのだろう。
(※参考『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』

たくあん
小野路の小島家に伝わる逸話。
土方歳三は、小野路・橋本家の自家製の沢庵が大好きで、訪問のたび山盛りの沢庵をパリポリ食べていた。
ある時など、樽ごと担いで帰ったという。

農家が漬け物を作る樽は、かなり大きい。
例えば四斗樽なら、高さも直径も約60センチ、容量は約72リットル。さらに大きいものが使われることもある。
沢庵がぎっしり詰まっていたら、独りで担ぐのは困難なのでは。
小さい樽に移してもらったのか、それとも「これほど好物だった」という誇張が入っているのか。
(※参考『新選組余話』

とろめし
これも小野路の小島家に伝わる逸話。
近藤勇が上溝村の佐藤為彦を訪問した折、先客の鷹取胖斎と会った。
夕食の時、とろめし(とろろかけご飯)の大食い対決をすることになり、ふたりは競って食べた。
近藤は19杯、鷹取は20杯食べて、勝負がつく。負けず嫌いの近藤も兜を脱いだ、という。

上溝村は相模国高座郡(現在の相模原市)であり、小野路村とは近い。
佐藤為彦は、上溝村の名主。小野路の小島家や橋本家、近藤一門とも交流があった模様。
鷹取胖斎は、上溝村在住の蘭方医。佐久間象山の門人であり、師匠に劣らぬ奇人であったと伝わる。
近藤も鷹取もとろめしが好物だったそうだが、それにしてもよくこれだけ食べられたものだ。
(※参考『新選組余話』

伝承の類いは、どこまで正確な事実なのか、検証が難しい。
しかしながら、当人と面識・交流のあった人々が伝えた話は、それなりの信憑性を感じさせる。

小野路 小島資料館の門
↑小野路 小島家(小島資料館)の門

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