森満喜子『沖田総司幻歌』
短編小説集。沖田総司、あるいは彼と関わった人々を主人公とする6編を収録。
「百年の霧」
京都市、西京保健所の保健婦・岡田光子は、放射線技師らとレントゲン車で集団検診に向かった。
ところが、濃い霧に包まれ道を見失ったかと思うと、幕末の壬生、新選組屯所に着いてしまう。
山崎烝の出迎えを受け、隊士たちの胸部レントゲン撮影をするという、ありえない事態に。
後日、医師の画像読影により、結核に罹患している患者が見つかる。
その患者とは、沖田総司であった。そこで、再検査の必要を伝えることに。
再検査の当日、保健所のスタッフ一同は沖田らの来所を待ち受ける――
いわゆるタイムスリップもの。
保健所の医師として結核を担当した作者自身の経験から、医学的見地に基づいて書かれている。
作者あとがきによると、読者からの手紙に沖田の病状に関する質問が多いこと、現代なら沖田の病気は完全に治せたであろうにと思ったことが、執筆の動機とか。
作中の「現代」は、執筆・発表当時の昭和40年代後半(1970年代前半)。
そのため、新選組の活動期が「100年前」とあったり、女性保健師を「保健婦」と称したり。
ただ、結核治療の基本が抗生剤服用と安静なのは、現在とあまり変わらない様子。
光子をはじめ沖田に関わった人々は、なんとか彼を救いたいと親身になる。
しかし、100年を隔てた霧と「戦い続けたい」という沖田自身の意思に阻まれ、思うにまかせない。
そのもどかしさと無念さ、愛惜の気持ちが、温かくも切ない。
「苔の庭」
山南敬助は、新選組の現状と近藤・土方の組織運営に対し、強い不満を覚えるようになっていた。
その思いを打ち明けられた沖田は、山南の苦悩を理解したものの、共有するまでには至らない。
西本願寺への屯所移転問題をきっかけに、山南は書き置きを残して屯所を去る。
近藤と土方は、沖田に後を追うよう指示。
ただ、周囲の耳目をはばかって、互いの真意を充分に確認することはできなかった。
大津で出会った沖田と山南は、親しく語らった後、連れ立って屯所へ戻るが――
山南の脱走・切腹を主題とする物語。
あのような結末は誰ひとりとして意図せず、ちょっとした行き違いのせいでは――と作者は考え、本作を執筆したという。確かに、山南と土方の間に深刻な確執があったなどとする説は、事実かどうかわからない。
誰も意図しない結末なればこその悲劇に、打ちのめされる沖田の心痛は深い。
西芳寺(苔寺)の緑の苔、その上に舞い落ちる色づいた木の葉の鮮やかな描写が、効果的に使われている。
「京洛早春賦」
文久4年(元治元年)2月3日。壬生寺の節分会には、多くの老若男女が訪れる。
その中には、男女逆転の仮装した人々「お化け」も立ち交じる。
そこで藤堂平助は、わざわざ振袖や娘島田のかつらを借りてきて、誰かを女に仕立てようと言い出す。
女役のくじを引いてしまったのは、皆の期待どおり、沖田総司だった――
「節分おばけ」は、京都町衆の厄払いの風習。
花街では芸妓が仮装で客をもてなす。一般人が参加するコスプレイベントも開催されるとか。
本作は、その風習を取り入れコメディタッチに仕上げた、沖田の武勇談(?)。
気楽に読める話だが、後日談できっちりオチをつけたところが作者の手腕と感じる。
作中では、藤堂平助の名が「兵助」と表記されている。
草創初期の新選組の面々が前途洋々としているさまは、清々しく微笑ましい。
「萩咲く」
新選組隊士・田中寅蔵は、剣術の巧者であり、また非常に律儀な性格でもあった。
ある日、長州系浪士たちと、取り締まろうとした新選組との斬り合いが勃発。
戦いの後、浪士のひとりから最期の願いとして1通の書状を託された田中は、それを高杉晋作に届ける。
高杉は、死者のために単独で訪れた田中に警戒を解く。そして、「西洋列強の日本侵略を防ぐには、勤皇・佐幕の争いを一刻も早くやめて一丸とならなければ」と語る。
これに共鳴した田中は、新選組を攘夷の先鋒たらしめたい、と純粋な善意で考える。
沖田は、帰隊した田中から、いきなり「新選組は方針転換すべき」と説かれて困惑する――
田中寅蔵は実在の隊士。
品行方正で、撃剣師範に就任するほどの腕もあったが、過激な攘夷論を主張して切腹させられたと、西村兼文『新撰組始末記』に記されている。
死亡日は慶応3年4月15日、享年27。作中にも書かれているとおり、辞世の歌を遺した。
新選組は、実際のところ、攘夷の先鋒たらんとして発足した組織である。
「攘夷は日本が列強並みの軍事力を得てから実行する」「指揮は幕府が執る」という幕府の方針を支持した。
対して「攘夷は直ちに実行すべき」「日本が一丸となるため主導権は天皇が握るべき」と主張する勢力がある。
この考え方の違いが、親幕vs.反幕の争いの原因。
新選組は治安部隊として、幕府の方針に逆らう者と戦わなければならなかった。
沖田はどのような政治思想を持っていたのか、理想と行動とのギャップに悩んだりしたことはなかったのか、という読者からの問いをヒントとして、作者は本作を著わしたという。
田中を救いたいと腐心しつつ、彼の主張に賛成することはできない沖田の思いが哀しい。
「はんばあぐ・すてえき」
肥後の松田謹吾は、義兄・松田重助が池田屋事件で沖田総司に斬られたと知り、仇討ちを決意。
京へ上り、一対一の勝負を挑んだものの、あまりに技量が違いすぎ、あっさり退けられてしまう。
帰郷し、厳しい修業を積むうち3年が過ぎて、天下の情勢は大きく変わった。
京から大坂、江戸へと仇敵の消息を求めて、謹吾はようやく沖田の潜伏先を捜し当てる。
千駄ヶ谷へ向かう途中、西洋料理店を見かけ、仇討ちの前に腹ごしらえしようと思い立った。
初めて食べる旨い料理で心身を満たした後、ようやく沖田と対面すると――
松田重助は実在した志士だが、主人公の松田謹吾は架空の人物。
新選組が私情を交えず任務のため戦っていても、相手方の心に怨恨を生むことは少なからずあったろう。
実際の沖田は静穏な療養生活のうちに世を去ったが、もしも謹吾のような人物が押しかけてきたらどうなったかと、作者は想像して本作を書いたという。
闘争の日々の果てに、旧時代とともに世を去っていく沖田。
新時代に新しい生き方を感得し、己の運命を切り開こうとする謹吾。
ふたりの若者の姿が、作者の狙いどおり、時代の交代を象徴している。
美味しいものを食べることは、一見何気ない行為のようであるが、人の体と心を養い、時には人生を変えるほどの力を持つ。そうした「食の力」を、改めて考えさせる物語でもある。
「翡翠(ひすい)」
秋田清之助は、旗本の五男坊。沖田総司とは江戸以来の友人であり、その伝手で新選組に入隊した。
ある日、沖田から女への贈り物を見繕って欲しいと頼まれ、清之助は買い物を手伝う。
沖田は、蘭の花を象った翡翠のかんざしを、費用を顧みず特注するのだった。
男ぶりが良く女性関係の盛んな清之助だが、荒物屋の娘・千枝と知り合い、行く末を真剣に考えるようになる。
ところが、油小路事件が原因となって、千枝から拒絶されてしまった。
新選組の伏見移転後、沖田の体調は目に見えて悪化し、清之助もその症状が肺結核と気づく。
まもなく鳥羽・伏見戦争が勃発。戦列を離れた沖田に代わり、清之助は無我夢中で戦うが――
新選組の慶応元年から4年までの動静を背景に、沖田総司の秘めた恋と、秋田清之助の青春を描く。
清之助は架空の隊士。
家を継ぐことなく、これといった志があるわけでもなく、なんとなく生きる目的を求めている若者。
そんな彼も、新選組に在籍したことで、否応なく動乱の渦中に巻き込まれていく。
そして、命の危機と絶望を乗り越えた末、幸福を得る。
沖田は、秘めた恋を成就させることなく、短い生を終えた。
「相手の親に反対された」と本人は語ったが、病気のため自ら身を引いたのではなかろうか。
その目撃者として配された清之助との対比が、際だっている。
沖田ももっと長く生きられたとしたら、いつか悲恋を忘れられる未来があったろう。
そんな日を迎えることなく他界した沖田への哀惜と、それを象徴する翡翠のかんざしが印象に残る。
作者が以前発表した「旅」では、沖田と愛しあった女との間に遺児がいた。(※『沖田総司抄』に収録。)
子孫筋から聞いた話をもとにした作品であるものの、読者の批判的な感想も寄せられた様子。
作者自身も、本作のほうが沖田の本当の恋に近いと思える、とあとがきに記している。
---
本書は、『沖田総司哀歌』(1972)、『沖田総司抄』(1973)に続く、作者の沖田総司短編集の3冊目。
昭和49年(1974)、新人物往来社から単行本(四六判ハードカバー)が刊行された。
再版や文庫化はされていない様子で、もったいなく思える。


「百年の霧」
京都市、西京保健所の保健婦・岡田光子は、放射線技師らとレントゲン車で集団検診に向かった。
ところが、濃い霧に包まれ道を見失ったかと思うと、幕末の壬生、新選組屯所に着いてしまう。
山崎烝の出迎えを受け、隊士たちの胸部レントゲン撮影をするという、ありえない事態に。
後日、医師の画像読影により、結核に罹患している患者が見つかる。
その患者とは、沖田総司であった。そこで、再検査の必要を伝えることに。
再検査の当日、保健所のスタッフ一同は沖田らの来所を待ち受ける――
いわゆるタイムスリップもの。
保健所の医師として結核を担当した作者自身の経験から、医学的見地に基づいて書かれている。
作者あとがきによると、読者からの手紙に沖田の病状に関する質問が多いこと、現代なら沖田の病気は完全に治せたであろうにと思ったことが、執筆の動機とか。
作中の「現代」は、執筆・発表当時の昭和40年代後半(1970年代前半)。
そのため、新選組の活動期が「100年前」とあったり、女性保健師を「保健婦」と称したり。
ただ、結核治療の基本が抗生剤服用と安静なのは、現在とあまり変わらない様子。
光子をはじめ沖田に関わった人々は、なんとか彼を救いたいと親身になる。
しかし、100年を隔てた霧と「戦い続けたい」という沖田自身の意思に阻まれ、思うにまかせない。
そのもどかしさと無念さ、愛惜の気持ちが、温かくも切ない。
「苔の庭」
山南敬助は、新選組の現状と近藤・土方の組織運営に対し、強い不満を覚えるようになっていた。
その思いを打ち明けられた沖田は、山南の苦悩を理解したものの、共有するまでには至らない。
西本願寺への屯所移転問題をきっかけに、山南は書き置きを残して屯所を去る。
近藤と土方は、沖田に後を追うよう指示。
ただ、周囲の耳目をはばかって、互いの真意を充分に確認することはできなかった。
大津で出会った沖田と山南は、親しく語らった後、連れ立って屯所へ戻るが――
山南の脱走・切腹を主題とする物語。
あのような結末は誰ひとりとして意図せず、ちょっとした行き違いのせいでは――と作者は考え、本作を執筆したという。確かに、山南と土方の間に深刻な確執があったなどとする説は、事実かどうかわからない。
誰も意図しない結末なればこその悲劇に、打ちのめされる沖田の心痛は深い。
西芳寺(苔寺)の緑の苔、その上に舞い落ちる色づいた木の葉の鮮やかな描写が、効果的に使われている。
「京洛早春賦」
文久4年(元治元年)2月3日。壬生寺の節分会には、多くの老若男女が訪れる。
その中には、男女逆転の仮装した人々「お化け」も立ち交じる。
そこで藤堂平助は、わざわざ振袖や娘島田のかつらを借りてきて、誰かを女に仕立てようと言い出す。
女役のくじを引いてしまったのは、皆の期待どおり、沖田総司だった――
「節分おばけ」は、京都町衆の厄払いの風習。
花街では芸妓が仮装で客をもてなす。一般人が参加するコスプレイベントも開催されるとか。
本作は、その風習を取り入れコメディタッチに仕上げた、沖田の武勇談(?)。
気楽に読める話だが、後日談できっちりオチをつけたところが作者の手腕と感じる。
作中では、藤堂平助の名が「兵助」と表記されている。
草創初期の新選組の面々が前途洋々としているさまは、清々しく微笑ましい。
「萩咲く」
新選組隊士・田中寅蔵は、剣術の巧者であり、また非常に律儀な性格でもあった。
ある日、長州系浪士たちと、取り締まろうとした新選組との斬り合いが勃発。
戦いの後、浪士のひとりから最期の願いとして1通の書状を託された田中は、それを高杉晋作に届ける。
高杉は、死者のために単独で訪れた田中に警戒を解く。そして、「西洋列強の日本侵略を防ぐには、勤皇・佐幕の争いを一刻も早くやめて一丸とならなければ」と語る。
これに共鳴した田中は、新選組を攘夷の先鋒たらしめたい、と純粋な善意で考える。
沖田は、帰隊した田中から、いきなり「新選組は方針転換すべき」と説かれて困惑する――
田中寅蔵は実在の隊士。
品行方正で、撃剣師範に就任するほどの腕もあったが、過激な攘夷論を主張して切腹させられたと、西村兼文『新撰組始末記』に記されている。
死亡日は慶応3年4月15日、享年27。作中にも書かれているとおり、辞世の歌を遺した。
新選組は、実際のところ、攘夷の先鋒たらんとして発足した組織である。
「攘夷は日本が列強並みの軍事力を得てから実行する」「指揮は幕府が執る」という幕府の方針を支持した。
対して「攘夷は直ちに実行すべき」「日本が一丸となるため主導権は天皇が握るべき」と主張する勢力がある。
この考え方の違いが、親幕vs.反幕の争いの原因。
新選組は治安部隊として、幕府の方針に逆らう者と戦わなければならなかった。
沖田はどのような政治思想を持っていたのか、理想と行動とのギャップに悩んだりしたことはなかったのか、という読者からの問いをヒントとして、作者は本作を著わしたという。
田中を救いたいと腐心しつつ、彼の主張に賛成することはできない沖田の思いが哀しい。
「はんばあぐ・すてえき」
肥後の松田謹吾は、義兄・松田重助が池田屋事件で沖田総司に斬られたと知り、仇討ちを決意。
京へ上り、一対一の勝負を挑んだものの、あまりに技量が違いすぎ、あっさり退けられてしまう。
帰郷し、厳しい修業を積むうち3年が過ぎて、天下の情勢は大きく変わった。
京から大坂、江戸へと仇敵の消息を求めて、謹吾はようやく沖田の潜伏先を捜し当てる。
千駄ヶ谷へ向かう途中、西洋料理店を見かけ、仇討ちの前に腹ごしらえしようと思い立った。
初めて食べる旨い料理で心身を満たした後、ようやく沖田と対面すると――
松田重助は実在した志士だが、主人公の松田謹吾は架空の人物。
新選組が私情を交えず任務のため戦っていても、相手方の心に怨恨を生むことは少なからずあったろう。
実際の沖田は静穏な療養生活のうちに世を去ったが、もしも謹吾のような人物が押しかけてきたらどうなったかと、作者は想像して本作を書いたという。
闘争の日々の果てに、旧時代とともに世を去っていく沖田。
新時代に新しい生き方を感得し、己の運命を切り開こうとする謹吾。
ふたりの若者の姿が、作者の狙いどおり、時代の交代を象徴している。
美味しいものを食べることは、一見何気ない行為のようであるが、人の体と心を養い、時には人生を変えるほどの力を持つ。そうした「食の力」を、改めて考えさせる物語でもある。
「翡翠(ひすい)」
秋田清之助は、旗本の五男坊。沖田総司とは江戸以来の友人であり、その伝手で新選組に入隊した。
ある日、沖田から女への贈り物を見繕って欲しいと頼まれ、清之助は買い物を手伝う。
沖田は、蘭の花を象った翡翠のかんざしを、費用を顧みず特注するのだった。
男ぶりが良く女性関係の盛んな清之助だが、荒物屋の娘・千枝と知り合い、行く末を真剣に考えるようになる。
ところが、油小路事件が原因となって、千枝から拒絶されてしまった。
新選組の伏見移転後、沖田の体調は目に見えて悪化し、清之助もその症状が肺結核と気づく。
まもなく鳥羽・伏見戦争が勃発。戦列を離れた沖田に代わり、清之助は無我夢中で戦うが――
新選組の慶応元年から4年までの動静を背景に、沖田総司の秘めた恋と、秋田清之助の青春を描く。
清之助は架空の隊士。
家を継ぐことなく、これといった志があるわけでもなく、なんとなく生きる目的を求めている若者。
そんな彼も、新選組に在籍したことで、否応なく動乱の渦中に巻き込まれていく。
そして、命の危機と絶望を乗り越えた末、幸福を得る。
沖田は、秘めた恋を成就させることなく、短い生を終えた。
「相手の親に反対された」と本人は語ったが、病気のため自ら身を引いたのではなかろうか。
その目撃者として配された清之助との対比が、際だっている。
沖田ももっと長く生きられたとしたら、いつか悲恋を忘れられる未来があったろう。
そんな日を迎えることなく他界した沖田への哀惜と、それを象徴する翡翠のかんざしが印象に残る。
作者が以前発表した「旅」では、沖田と愛しあった女との間に遺児がいた。(※『沖田総司抄』に収録。)
子孫筋から聞いた話をもとにした作品であるものの、読者の批判的な感想も寄せられた様子。
作者自身も、本作のほうが沖田の本当の恋に近いと思える、とあとがきに記している。
---
本書は、『沖田総司哀歌』(1972)、『沖田総司抄』(1973)に続く、作者の沖田総司短編集の3冊目。
昭和49年(1974)、新人物往来社から単行本(四六判ハードカバー)が刊行された。
再版や文庫化はされていない様子で、もったいなく思える。


国枝史郎「甲州鎮撫隊」
短編小説。戦列を離れ病床に伏す沖田総司と、彼をめぐる愛憎・陰謀劇を描き出す。
国枝史郎(1888~1943)は、主に伝奇・怪奇幻想小説で人気を博した作家。
長編『蔦葛木曽桟』『八ヶ嶽の魔神』『神州纐纈城』が、国枝三大伝奇としてよく知られている。
新選組を題材とした著作は、どうやら本作だけらしい。短編ながら印象的な秀作なので、今回紹介する。
以下あらすじ(前半のみ)。
千駄ヶ谷の植木屋「植甚」の親方は、自宅の庭に大きな池と滝を設えていた。
そして、住み込んだばかりの職人・留吉に「この水がうちの植木を良く育てる」と自慢する。
その「植甚」の離れ座敷に、沖田総司が療養していた。
ある夜のこと、すぐ近くの往来で、複数の浪人者が斬り合いを始める。
通りすがりの女がひとり、巻き添えを恐れ、庭へ逃げ込んできた。
匿って欲しいと懇願された総司は、騒ぎが収まるまでと女を離れ座敷に入れてやる。
総司の病篤い様子を見て、女は介抱の手をさしのべるのだった。
お力と名乗った女は、それから毎日のように、総司のもとへ通ってきて世話をする。
総司は何か悩みを抱えているらしく、うなされつつ「お千代」「細木永之丞」という名前を寝言に漏らす。
それからまもない日、近藤勇が総司を訪ねてきた。
甲府城防衛の任を受け、近く出陣することになったものの、総司を連れていくことはできない、と告げる。
なんとしても従軍したい総司だが、勇に説き伏せられて断念するしかなかった。
その後、お力は総司の面倒を見ながら、何気ない口ぶりで寝言のわけを尋ねる。
「お千代」とは、深く慕いあいながらも、故あって泣く泣く別れた恋人だった。
そして「細木永之丞」は、親友ともいうべき同志であった。しかし……と総司は語る。
総司の話を聞いたお力は、やがてお千代その人と思いがけず出会う。
タイトルから、甲陽鎮撫隊(作中では「甲州鎮撫隊」)が勝沼柏尾で戦う話を想像した。
しかし読んでみると、柏尾戦争は背景にすぎず、主題は病臥に残された沖田総司と、彼に関わる人物たちとの因縁話である。
子母澤寛『新選組遺聞』あたりを参考にした節が窺えるが、独自の展開を描いている。
人物の言葉遣いが、所々でクラシカル。
特に、総司が「左様じゃ」「わしは思う」などと言う場面はちょっと笑える。
これがサムライらしい話し方、ということか。
説明的な会話がやや多い。
特に、お力に問われるまま過去を語る総司は、幼い子供のように警戒心が薄くて素直。
聞き出し方が巧いにしても、これほど何でも打ち明けてしまうのは、病気で心が弱っているせいなのか。
お力は、実に強かな女。その抜け目なさ、大胆さには舌を巻く。
彼女が陰の主人公であり、その心情や行動が活き活きと描かれるからこそ、本作は面白いとも言える。
作中の植木屋「植甚」は屋号だけで、主人(親方)の名前は出てこない。
(『新選組遺聞』に、屋号だけ書かれているせいかもしれない。)
この「植甚」が千駄ヶ谷に実在したことは、ほぼ間違いないようだ。主人の名は「平五郎」、姓は「柴田」だったということも判明している。
この「植甚」の親方は、本作では総司を匿うのみならず、ほかにも重要な役目を密かに負う。
冒頭の何気ない滝の自慢話にも、その秘密が隠されていた。
実在の平五郎も、こういう気っ風の好い親方だったのでは、という気がする。
何気なく読み流してしまうと気づきにくいが、出来事の順番は史実に沿っていない。
ストーリー展開を整理すると、以下のような経緯となっている。(※年次は慶応4年)
2月 沖田総司、植甚の離れ座敷に療養する(横浜の病院から浅草今戸を経て移転)
近藤勇、甲州出陣について総司を説得する
3月 6日 甲州鎮撫隊、勝沼で敗退する
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 沖田総司、病没する 江戸城、明け渡しとなる(近藤勇はすでに死去)
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
一方、実際の流れは以下のとおり。(※参考『新選組日誌』ほか)
1月18日 沖田総司、神田和泉橋の医学所に入院する(2~3月に浅草今戸へ転院か)
2月28日 新選組、甲府鎮撫を命じられる
2月30日 甲陽鎮撫隊、江戸より出陣する
3月 2日 甲陽鎮撫隊、日野の佐藤彦五郎方に立ち寄る(総司も同行、翌日に離脱か)
3月 6日 甲陽鎮撫隊、柏尾の戦いに敗れ退却する(この直後に総司は千駄ヶ谷へ移転か)
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 江戸城明け渡し
4月25日 近藤勇、板橋で処刑される
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
5月30日 沖田総司、病没する(グレゴリオ暦では1868年7月19日、ユリウス暦では同年7月7日)
最大の違いは、作中の総司が実際より約1ヶ月半も早く没したことである。
作者は何故そのように設定したのだろうか。
江戸城が新政府軍に明け渡された日、すなわち徳川幕府が終焉を迎えた日に、総司もその命を終えた……
あくまで想像だが、両者を重ね合わせて意味を持たせたように思える。
作中に描かれる総司の臨終は、心安らかなものではない。
望みが達せられた悦びの一方で、怨嗟と憎悪を吐き出すさまは痛ましく衝撃的。
これが最後の最後に、彼の無念を晴らそうとする者たちの、精一杯の一撃へとつながっていく。
「植甚」の(何も彼(か)も是(これ)で片がついた)という感慨込めた呟きが、物語を締めくくる。
この言葉には、二重の意味がある。
ひとつは、総司の鎮魂のために、残された者たちが報復を遂げたこと。
もうひとつは、彰義隊が敗北し、徳川時代が完全に終わったと江戸の民衆が実感したこと。
旧幕方と新政府方の戦いは翌年まで続いたけれども、上野戦争がひとつの節目となったことは間違いないだろう。
沖田総司への、そして去りゆく江戸への名残を惜しむ心情が、本作の底流に感じられた。
本作「甲州鎮撫隊」の初出は、1938年の『講談倶楽部』(大日本雄弁会講談社)。
下記の書籍に収録されている。
『国枝史郎名作選』 新正堂刊 1942
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990 ←本項の参考書
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003
『国枝史郎歴史小説傑作選』 末國善己編 作品社 2006
このほかにもありそうだが、生憎とデータを見出せなかった。
なお、青空文庫でも読むことかできる。


国枝史郎(1888~1943)は、主に伝奇・怪奇幻想小説で人気を博した作家。
長編『蔦葛木曽桟』『八ヶ嶽の魔神』『神州纐纈城』が、国枝三大伝奇としてよく知られている。
新選組を題材とした著作は、どうやら本作だけらしい。短編ながら印象的な秀作なので、今回紹介する。
以下あらすじ(前半のみ)。
千駄ヶ谷の植木屋「植甚」の親方は、自宅の庭に大きな池と滝を設えていた。
そして、住み込んだばかりの職人・留吉に「この水がうちの植木を良く育てる」と自慢する。
その「植甚」の離れ座敷に、沖田総司が療養していた。
ある夜のこと、すぐ近くの往来で、複数の浪人者が斬り合いを始める。
通りすがりの女がひとり、巻き添えを恐れ、庭へ逃げ込んできた。
匿って欲しいと懇願された総司は、騒ぎが収まるまでと女を離れ座敷に入れてやる。
総司の病篤い様子を見て、女は介抱の手をさしのべるのだった。
お力と名乗った女は、それから毎日のように、総司のもとへ通ってきて世話をする。
総司は何か悩みを抱えているらしく、うなされつつ「お千代」「細木永之丞」という名前を寝言に漏らす。
それからまもない日、近藤勇が総司を訪ねてきた。
甲府城防衛の任を受け、近く出陣することになったものの、総司を連れていくことはできない、と告げる。
なんとしても従軍したい総司だが、勇に説き伏せられて断念するしかなかった。
その後、お力は総司の面倒を見ながら、何気ない口ぶりで寝言のわけを尋ねる。
「お千代」とは、深く慕いあいながらも、故あって泣く泣く別れた恋人だった。
そして「細木永之丞」は、親友ともいうべき同志であった。しかし……と総司は語る。
総司の話を聞いたお力は、やがてお千代その人と思いがけず出会う。
タイトルから、甲陽鎮撫隊(作中では「甲州鎮撫隊」)が勝沼柏尾で戦う話を想像した。
しかし読んでみると、柏尾戦争は背景にすぎず、主題は病臥に残された沖田総司と、彼に関わる人物たちとの因縁話である。
子母澤寛『新選組遺聞』あたりを参考にした節が窺えるが、独自の展開を描いている。
人物の言葉遣いが、所々でクラシカル。
特に、総司が「左様じゃ」「わしは思う」などと言う場面はちょっと笑える。
これがサムライらしい話し方、ということか。
説明的な会話がやや多い。
特に、お力に問われるまま過去を語る総司は、幼い子供のように警戒心が薄くて素直。
聞き出し方が巧いにしても、これほど何でも打ち明けてしまうのは、病気で心が弱っているせいなのか。
お力は、実に強かな女。その抜け目なさ、大胆さには舌を巻く。
彼女が陰の主人公であり、その心情や行動が活き活きと描かれるからこそ、本作は面白いとも言える。
作中の植木屋「植甚」は屋号だけで、主人(親方)の名前は出てこない。
(『新選組遺聞』に、屋号だけ書かれているせいかもしれない。)
この「植甚」が千駄ヶ谷に実在したことは、ほぼ間違いないようだ。主人の名は「平五郎」、姓は「柴田」だったということも判明している。
この「植甚」の親方は、本作では総司を匿うのみならず、ほかにも重要な役目を密かに負う。
冒頭の何気ない滝の自慢話にも、その秘密が隠されていた。
実在の平五郎も、こういう気っ風の好い親方だったのでは、という気がする。
何気なく読み流してしまうと気づきにくいが、出来事の順番は史実に沿っていない。
ストーリー展開を整理すると、以下のような経緯となっている。(※年次は慶応4年)
2月 沖田総司、植甚の離れ座敷に療養する(横浜の病院から浅草今戸を経て移転)
近藤勇、甲州出陣について総司を説得する
3月 6日 甲州鎮撫隊、勝沼で敗退する
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 沖田総司、病没する 江戸城、明け渡しとなる(近藤勇はすでに死去)
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
一方、実際の流れは以下のとおり。(※参考『新選組日誌』ほか)
1月18日 沖田総司、神田和泉橋の医学所に入院する(2~3月に浅草今戸へ転院か)
2月28日 新選組、甲府鎮撫を命じられる
2月30日 甲陽鎮撫隊、江戸より出陣する
3月 2日 甲陽鎮撫隊、日野の佐藤彦五郎方に立ち寄る(総司も同行、翌日に離脱か)
3月 6日 甲陽鎮撫隊、柏尾の戦いに敗れ退却する(この直後に総司は千駄ヶ谷へ移転か)
4月 3日 流山の近藤勇、新政府軍の出頭要請に応じる
4月11日 江戸城明け渡し
4月25日 近藤勇、板橋で処刑される
5月15日 上野戦争が勃発 彰義隊が敗退する
5月30日 沖田総司、病没する(グレゴリオ暦では1868年7月19日、ユリウス暦では同年7月7日)
最大の違いは、作中の総司が実際より約1ヶ月半も早く没したことである。
作者は何故そのように設定したのだろうか。
江戸城が新政府軍に明け渡された日、すなわち徳川幕府が終焉を迎えた日に、総司もその命を終えた……
あくまで想像だが、両者を重ね合わせて意味を持たせたように思える。
作中に描かれる総司の臨終は、心安らかなものではない。
望みが達せられた悦びの一方で、怨嗟と憎悪を吐き出すさまは痛ましく衝撃的。
これが最後の最後に、彼の無念を晴らそうとする者たちの、精一杯の一撃へとつながっていく。
「植甚」の(何も彼(か)も是(これ)で片がついた)という感慨込めた呟きが、物語を締めくくる。
この言葉には、二重の意味がある。
ひとつは、総司の鎮魂のために、残された者たちが報復を遂げたこと。
もうひとつは、彰義隊が敗北し、徳川時代が完全に終わったと江戸の民衆が実感したこと。
旧幕方と新政府方の戦いは翌年まで続いたけれども、上野戦争がひとつの節目となったことは間違いないだろう。
沖田総司への、そして去りゆく江戸への名残を惜しむ心情が、本作の底流に感じられた。
本作「甲州鎮撫隊」の初出は、1938年の『講談倶楽部』(大日本雄弁会講談社)。
下記の書籍に収録されている。
『国枝史郎名作選』 新正堂刊 1942
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990 ←本項の参考書
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003
『国枝史郎歴史小説傑作選』 末國善己編 作品社 2006
このほかにもありそうだが、生憎とデータを見出せなかった。
なお、青空文庫でも読むことかできる。
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井上友一郎「武田観柳斎」
短編小説。新選組の幹部隊士・武田観柳斎が、非業の死を遂げる経緯を描く。
◆作者・井上友一郎
井上友一郎(1909~1997)は、大阪出身。都新聞の記者を経て、作家となる。
特に風俗小説で人気を集めた。幕末維新史を題材とした作品も手がけている。下記はその一部。
◆「武田観柳斎」(前半あらすじ)
武田観柳斎は、副長助勤や文学師範を務める新選組の幹部である。
長沼流兵法を修め、隊士の調練の指揮を任されてもいる。
その立場をよいことに、若い隊士たちを些細な理由でネチネチいびり、己の機嫌を取る者だけを贔屓した。
観柳斎に追従する者の中に、梅崎実之助という若者がいた。観柳斎も彼に何かと目をかけてやる。
やがて、新選組に西洋式調練が導入されると、長沼流兵法とともに観柳斎の存在感は薄くなっていく。
威勢の衰えを感じた観柳斎は、むしろ己のほうが梅崎を頼りにするような言葉も洩らすのだった。
その頃、梅崎は菓子屋の若後家おらくと懇ろになり、それを観柳斎に打ち明けた。
町屋の女房との私通など、本来は切腹に値する隊規違反である。しかし観柳斎は、大目に見てやった。
ところが、梅崎とおらくの逢引を、土方歳三が知ってしまう。
詰問された梅崎は、しらを切り通す。観柳斎も、事実を隠して梅崎を庇った。
彼らの言い分を信じたのかどうか、土方は観柳斎に意外なことを告げる――
◆作品と観柳斎の人物像
子母澤寛『新選組始末記』の「隊士ぞくぞく斃る」に、観柳斎の逸話がある。
本作「武田観柳斎」は、この逸話をベースに、架空の隊士を登場させて独自のストーリーとした作品。
土方の観柳斎に対する態度は、本意とも罠ともつかず、なかなかスリリングな展開となる。
「隊士ぞくぞく斃る」ではいささか唐突な伏見の薩摩屋敷のことも、本作は巧く関連づけてある。
子母澤描くところの観柳斎は、西村兼文『新撰組始末記(一名壬生浪士始末記)』が元ネタとなっている。
西村の書く人物像もかなりユニークだが、子母澤はいっそう特異なキャラクターに潤色した。
『新選組物語』の「隊中美男五人衆」にも再登場させ、強烈な印象を残している。
おかげで以後、観柳斎という隊士は、多くの作家によって多数の作品に描かれることとなった。
観柳斎が実在の隊士であることは、複数の史料により裏づけられており、間違いない。
ただし、本当に西村や子母澤が書くとおりの人物であったかどうかは、不明である。
「隊中美男五人衆」の、馬越三郎に言い寄ったというくだりは、おそらく子母澤の創作であろう。
◆観柳斎の死
観柳斎の死亡状況もまた、西村の記述に詳しく、子母澤がドラマチックに盛った。
要するに、慶応2年9月28日の夜、近藤勇の意を受けた斎藤一と篠原泰之進が、観柳斎を伏見へ送っていく途中、銭取橋で斬り殺したのだという。本作「武田観柳斎」にも反映されている。
ただ、この説は、現在では疑問視されている。
【疑問その壱 日時】
研究家諸氏の指摘によると、尾張藩士が書き残した『世態志』に以下の記述がある。
「(慶応3年)六月二十二日、油小路竹田街道にて元新選組武田某、肩先より大ケサに切害におよびあい果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし」(『新選組大人名事典』より引用)
西村の記述は明治22年の出版物なので、それより同時代史料『世態志』に信憑性がある、と判断される。
ちなみに、別の同時代史料『新選組金談一件』から、「慶応2年9月28日」はどうやら観柳斎が新選組を脱走した時期(死亡したのはその8ヶ月余後)と推測可能である。
【疑問その弐 実行犯】
斎藤一と篠原泰之進が斬ったとする点も、事実ではないと指摘されている。
なぜなら、両人とも伊東甲子太郎の分離脱盟に加わり、慶応3年3月、新選組を離れている。新選組隊士ではなくなった彼らが、近藤や土方の命令によって観柳斎を斬る、という道理はない。
もっとも、葉室麟『影踏み鬼』では、両人が伊東配下の御陵衛士でありながら観柳斎粛清に関わる経緯を、巧みに処理している。フィクションとはいえ、そのような可能性も捨てきれないと考えさせる好例。
【疑問その参 場所】
現場を銭取橋とする点も、『ふぃーるどわーく京都 南』(歳月堂/2001)によると疑わしい。
そもそもは「油小路通を南に向かい(中略)、銭取橋にさしかかったが、本街道に出ると人通りが多くなるので、橋を渡ったとたん背後から斬った」との旨を西村が記し、そのとおりに信じられてきた。
しかし、『世態志』に信憑性があるとすれば、現場は「油小路竹田街道」のどこかである。
この「油小路竹田街道」は、銭取橋を通らないのだ。
京都と伏見とを結ぶ竹田街道は、二通りの道筋がある。
(1)東洞院通を南下し、勧進橋(=銭取橋)で鴨川を渡り、竹田村領の東端を通り、伏見に入る本街道
(2)油小路通を南下し、竹田橋で鴨川を渡り、竹田村の集落を通り、竹田村の南で(1)に合流する
「竹田街道」とは、狭義には(1)を指し、広義には(1)(2)の両方を指す。
そして、「油小路竹田街道」は(2)を意味する表現、と捉えるのが順当であろう。(1)と区別するため「油小路」を補ったと思われるからだ。
つまり、現場が銭取橋(もしくは(1)上のどこか)であったならば、わざわざ「油小路竹田街道」と表現するのは不自然であり、そのような必然性がない。
ひょっとすると、現場は「油小路竹田街道」が通る竹田橋だったのではないだろうか。
西村の記述には矛盾があるものの、「銭取橋」を「竹田橋」に置き換えさえすれば意味が通るのだ。
本願寺の寺侍であった彼が、京都の地理に疎いはずはないと思えるが、何か勘違いした可能性もあろう。
よしんば場所を特定できないとしても、銭取橋とする説は根拠薄弱と言わざるをえない。
◆出版情報
本作「武田観柳斎」は、井上友一郎の短編集『新選組外伝』(久保書店/1965)に収録されている。
『新選組外伝』の収録作品は「武田観柳斎」のほか、「壬生の風雲児」「高台寺党」「無法の剣」「祇園心中」「深雪太夫」「人斬り以蔵」の全7編。
久保書店が2017年より、オンデマンド版(ペーパーバック)を取り扱っている。
全7作をまとめたもののほか、1作品ずつの分冊版もある様子。
このほか、短編「武田観柳斎」を収録した書籍は、下記のとおり。
『武田観柳斎』 河出書房/新書 1956 …井上友一郎の短編集、表題作を含む全6編を収録。
『新選組傑作コレクション 烈士の巻』 河出書房新社 1990 …縄田一男編のアンソロジー、本項の参考書。


◆作者・井上友一郎
井上友一郎(1909~1997)は、大阪出身。都新聞の記者を経て、作家となる。
特に風俗小説で人気を集めた。幕末維新史を題材とした作品も手がけている。下記はその一部。
『清河八郎』 大觀堂出版 1944
『近藤勇』 新潮社/1953 鱒書房/1955/1990 六興出版部/1958 双葉社/1964
『幕末刺客伝』 鱒書房 1955
『幕末長恨歌』 光風社出版 1985
『近藤勇』 新潮社/1953 鱒書房/1955/1990 六興出版部/1958 双葉社/1964
『幕末刺客伝』 鱒書房 1955
『幕末長恨歌』 光風社出版 1985
◆「武田観柳斎」(前半あらすじ)
武田観柳斎は、副長助勤や文学師範を務める新選組の幹部である。
長沼流兵法を修め、隊士の調練の指揮を任されてもいる。
その立場をよいことに、若い隊士たちを些細な理由でネチネチいびり、己の機嫌を取る者だけを贔屓した。
観柳斎に追従する者の中に、梅崎実之助という若者がいた。観柳斎も彼に何かと目をかけてやる。
やがて、新選組に西洋式調練が導入されると、長沼流兵法とともに観柳斎の存在感は薄くなっていく。
威勢の衰えを感じた観柳斎は、むしろ己のほうが梅崎を頼りにするような言葉も洩らすのだった。
その頃、梅崎は菓子屋の若後家おらくと懇ろになり、それを観柳斎に打ち明けた。
町屋の女房との私通など、本来は切腹に値する隊規違反である。しかし観柳斎は、大目に見てやった。
ところが、梅崎とおらくの逢引を、土方歳三が知ってしまう。
詰問された梅崎は、しらを切り通す。観柳斎も、事実を隠して梅崎を庇った。
彼らの言い分を信じたのかどうか、土方は観柳斎に意外なことを告げる――
◆作品と観柳斎の人物像
子母澤寛『新選組始末記』の「隊士ぞくぞく斃る」に、観柳斎の逸話がある。
本作「武田観柳斎」は、この逸話をベースに、架空の隊士を登場させて独自のストーリーとした作品。
土方の観柳斎に対する態度は、本意とも罠ともつかず、なかなかスリリングな展開となる。
「隊士ぞくぞく斃る」ではいささか唐突な伏見の薩摩屋敷のことも、本作は巧く関連づけてある。
子母澤描くところの観柳斎は、西村兼文『新撰組始末記(一名壬生浪士始末記)』が元ネタとなっている。
西村の書く人物像もかなりユニークだが、子母澤はいっそう特異なキャラクターに潤色した。
『新選組物語』の「隊中美男五人衆」にも再登場させ、強烈な印象を残している。
おかげで以後、観柳斎という隊士は、多くの作家によって多数の作品に描かれることとなった。
観柳斎が実在の隊士であることは、複数の史料により裏づけられており、間違いない。
ただし、本当に西村や子母澤が書くとおりの人物であったかどうかは、不明である。
「隊中美男五人衆」の、馬越三郎に言い寄ったというくだりは、おそらく子母澤の創作であろう。
◆観柳斎の死
観柳斎の死亡状況もまた、西村の記述に詳しく、子母澤がドラマチックに盛った。
要するに、慶応2年9月28日の夜、近藤勇の意を受けた斎藤一と篠原泰之進が、観柳斎を伏見へ送っていく途中、銭取橋で斬り殺したのだという。本作「武田観柳斎」にも反映されている。
ただ、この説は、現在では疑問視されている。
【疑問その壱 日時】
研究家諸氏の指摘によると、尾張藩士が書き残した『世態志』に以下の記述がある。
「(慶応3年)六月二十二日、油小路竹田街道にて元新選組武田某、肩先より大ケサに切害におよびあい果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし」(『新選組大人名事典』より引用)
西村の記述は明治22年の出版物なので、それより同時代史料『世態志』に信憑性がある、と判断される。
ちなみに、別の同時代史料『新選組金談一件』から、「慶応2年9月28日」はどうやら観柳斎が新選組を脱走した時期(死亡したのはその8ヶ月余後)と推測可能である。
【疑問その弐 実行犯】
斎藤一と篠原泰之進が斬ったとする点も、事実ではないと指摘されている。
なぜなら、両人とも伊東甲子太郎の分離脱盟に加わり、慶応3年3月、新選組を離れている。新選組隊士ではなくなった彼らが、近藤や土方の命令によって観柳斎を斬る、という道理はない。
もっとも、葉室麟『影踏み鬼』では、両人が伊東配下の御陵衛士でありながら観柳斎粛清に関わる経緯を、巧みに処理している。フィクションとはいえ、そのような可能性も捨てきれないと考えさせる好例。
【疑問その参 場所】
現場を銭取橋とする点も、『ふぃーるどわーく京都 南』(歳月堂/2001)によると疑わしい。
そもそもは「油小路通を南に向かい(中略)、銭取橋にさしかかったが、本街道に出ると人通りが多くなるので、橋を渡ったとたん背後から斬った」との旨を西村が記し、そのとおりに信じられてきた。
しかし、『世態志』に信憑性があるとすれば、現場は「油小路竹田街道」のどこかである。
この「油小路竹田街道」は、銭取橋を通らないのだ。
京都と伏見とを結ぶ竹田街道は、二通りの道筋がある。
(1)東洞院通を南下し、勧進橋(=銭取橋)で鴨川を渡り、竹田村領の東端を通り、伏見に入る本街道
(2)油小路通を南下し、竹田橋で鴨川を渡り、竹田村の集落を通り、竹田村の南で(1)に合流する
「竹田街道」とは、狭義には(1)を指し、広義には(1)(2)の両方を指す。
そして、「油小路竹田街道」は(2)を意味する表現、と捉えるのが順当であろう。(1)と区別するため「油小路」を補ったと思われるからだ。
つまり、現場が銭取橋(もしくは(1)上のどこか)であったならば、わざわざ「油小路竹田街道」と表現するのは不自然であり、そのような必然性がない。
ひょっとすると、現場は「油小路竹田街道」が通る竹田橋だったのではないだろうか。
西村の記述には矛盾があるものの、「銭取橋」を「竹田橋」に置き換えさえすれば意味が通るのだ。
本願寺の寺侍であった彼が、京都の地理に疎いはずはないと思えるが、何か勘違いした可能性もあろう。
よしんば場所を特定できないとしても、銭取橋とする説は根拠薄弱と言わざるをえない。
◆出版情報
本作「武田観柳斎」は、井上友一郎の短編集『新選組外伝』(久保書店/1965)に収録されている。
『新選組外伝』の収録作品は「武田観柳斎」のほか、「壬生の風雲児」「高台寺党」「無法の剣」「祇園心中」「深雪太夫」「人斬り以蔵」の全7編。
久保書店が2017年より、オンデマンド版(ペーパーバック)を取り扱っている。
全7作をまとめたもののほか、1作品ずつの分冊版もある様子。
このほか、短編「武田観柳斎」を収録した書籍は、下記のとおり。
『武田観柳斎』 河出書房/新書 1956 …井上友一郎の短編集、表題作を含む全6編を収録。
『新選組傑作コレクション 烈士の巻』 河出書房新社 1990 …縄田一男編のアンソロジー、本項の参考書。
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葉室麟、木下昌輝ほか『決戦!新選組』
アンソロジー。6人の作家による新選組の短編小説を収録。
作家6人は、葉室麟、門井慶喜、小松エメル、土橋章宏、天野純希、木下昌輝。
本書の責任表示にも「著者」として6人が列記されている。ただ、当記事タイトルには全員を書き切れないので、便宜的に最初と最後の2人を挙げた。悪しからずご了承いただきたい。
収録作品6編は、以下のとおり。
葉室麟「鬼火」
沖田総司は、少年期の忌まわしい体験によって心的外傷を負う。
以来、感情をうまく表わせない、人に心を許すことができない性格となり、そのまま成長した。
試衛館一党が浪士組に加わって京に上った後、残留者同士の間で勢力争いが起きる。
邪魔者を粛清するよう命じられた総司だが、敵に後れを取ってしまう。その危機を救ったのは芹沢鴨だった。
芹沢は、壬生浪士組を土台に「尊王義軍」を組織しようと、様々な方策を果敢に断行していく。
一方、富商からの押し借り、大坂力士との乱闘事件、大和屋焼き討ち事件などで、乱暴者と恐れられた。
芹沢の優しさを知る総司は、彼の生き方に惹かれ、その行く末を見届けたいと思う。ところが――
本作の沖田総司は、周囲の人間に心から打ち解けられない。土方歳三に対しても、常に距離をおいている。
そんな総司が、芹沢鴨に対して単なる親愛以上の感情を抱く展開は、珍しいと思う。
本作の芹沢鴨は、武田耕雲斎や藤田小四郎と連携して攘夷を実行するため、浪士組に加わった。
壬生浪士組を「尊王義軍」にするため、戦闘集団として組織編成し、鉄の規律を設けたのも芹沢である。既成の作品では、土方が組織編成や法度の制定を行なったとされる例が多い。しかし、本作では「農民出身の近藤や土方にできることではなかった」と記述されている。
芹沢が有栖川宮に接近したのも、攘夷を実行するための一方策。
これほど具体的な目標を持ち、ひたすら努力・邁進する芹沢の人物造形は、ユニークで興味深い。
ちなみに、作者が新選組を描いた作品に、篠原泰之進を主人公とする長編『影踏み鬼』がある。
作者はおそらく、近藤・土方体制に従わない人物のほうが好きなのだろう。
門井慶喜「戦いを避ける」
元治元年6月5日の夜。
近藤勇は、わずかな人数を率いて、池田屋へ御用改めに立ち寄る。
思いがけずここが過激志士らの会合場所と知ったとたん、不本意ながら戦闘に突入してしまう。
焦燥の中、養子の周平が一刻も早くこの場へやってくるよう、ひたすら念じた。
近藤が谷三兄弟の末弟・喬太郎こと周平を養子に迎えたのは、ある大きな計画のためであった。
それは、この皇国(日本)を革めること、そのため新選組を強力な組織に仕立てて資することに他ならない。
やがて土方歳三のグループが駆けつけ、周平もようやく姿を現すが――
大坂にある谷道場を、近藤と原田左之助が訪問する場面が印象的。
本作の谷三十郎は、備中松山の元藩士というより、まるで「浪花の商人」。近藤とのやりとりがユーモラス。
万太郎と喬太郎が評価されると、すかさず自分も売り込む抜け目なさに、近藤もたじたじ。
近藤と周平との関係を描く小説は複数あるが、本作の場合は、板倉勝静(老中、備中松山藩主)が関連した新選組増強計画のあたりにオリジナリティを感じる。
司馬遼太郎「槍は宝蔵院流」、早乙女貢「槍の三十郎」、小松エメル「流木」などと読み比べるのも面白い。
また、近藤の熱しやすく醒めやすい性格は、作者の『新選組颯爽録』にも描かれている。
小松エメル「足りぬ月」
藤堂平助は、幼少期「藤堂和泉守の御落胤」を口実に実母から厄介払いされた、と信じて成長した。
人に必要なのは才と運。運はあれど才が今ひとつ及ばない己には、才のある誰かが必要だった。
山南敬助と出会い、彼の力量を頼みにして、いつか成功を得ようと決める。
山南の伝手で知りあった伊東甲子太郎は、さらに優れた容姿と文武の才を持つ魅力的な人物であった。
それに引き換え、近藤勇は剣・学問・要領・容姿いずれも秀でたもののない凡庸な人物、と目に映る。
やがて「夜道を照らす月」とも頼んだ山南を失った時、伊東を新選組にぜひ入隊させようと企図する――
本作の平助は、複雑な生い立ちから、人間関係を益になるか否かで判断する習慣がある。
損得ぬきの信頼なぞ理想論に過ぎないと思ってきたが、心の奥底では何よりそれを渇望していた。
プライドが高い一方で自己評価の低い平助が、それを自覚しないまま人生を模索する姿は、苦しく切ない。
得がたいものを得ようとする努力は大切だが、すでに得たものの価値に気づかず投げ捨てて「もっと素晴らしい何か」を探し求める生き方は不幸だ。
ただ、それは平助に限った話ではなく、人はこうした面を多かれ少なかれ持っている気がする。
こういう人柄の平助を、卑小な者ではなく共感できる主人公として描いた、作者の力量を感じる。
そのほか、近藤勇、伊東甲子太郎、斎藤一といった脇役の人物も魅力的。
作者の『夢の燈影』『総司の夢』とのつながりを見出すのも、楽しめると思う。
「足りぬ月」というタイトルは、少しだけ欠けた姿の月を意味している。
昨年12月13日の当方ツイートを引用しておく↓
【慶応3年11月18日=1867年12月13日・京都の夜空】
現地時刻で月出18:54、月没9:10(翌日)、月齢16.9(右側が少し欠けている)。
嵯峨實愛の日記によると、18日は晴れて雲が南へ行くのが見えたとか。
油小路事件の時、雲さえ無ければ月もよく見えたはず。
>>Twitter「誠の栞」@bkmakoto 2016/12/13
完璧なものだけに価値があるのではなく、多少不足があっても素晴らしいものは素晴らしい。
そのことに平助が気づいたのは、命が尽きようとする瞬間だった。
土橋章宏「決死剣」
慶応3年末、新選組を含めた幕府勢力は京都を引き払う。
永倉新八は、愛する内妻の小常を亡くし、生後まもない娘お磯とも別れ、戦いに臨む覚悟を決める。
負傷した近藤勇、病状が進んだ沖田総司は、戦列を離れた。
布陣した伏見で戦端が開かれると、ここを死に場所と定めた新八は、獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
新八にとって、時流も政治も思想も関係ない。剣を極め、信頼する仲間とともに戦うこと、先行きはわからなくても命あるかぎり今を生きることが、何より大切だった――
戦いの描写は迫力満点。
沖田が得意の三段突きを凌駕する必殺技を繰り出したり、新八が剣で薩摩の銃隊を圧倒したり、アクション映画的な味わいがある。
鳥羽・伏見戦争の場面で、新政府方の先込ミニエー銃に対し、新選組は火縄銃を装備している。
幕末、短期間に銃器が目覚ましく発展したのは事実。とはいえ、火縄銃から一足飛びにミニエー銃が導入されたわけではない。時期や地域によって、ゲベール銃やヤーゲル銃が用いられもしたし、幕府方にもミニエー銃・ドライゼ銃・シャスポー銃などを導入していた部隊はあった。
幕府や会津藩が軍制改革を進めていたのだから、新選組もゲベール銃くらいは装備していたと思う。
戊辰戦争で火縄銃が投入されたのは、軍備が遅れていた小藩の勢力、もしくは装備や人員が極端に不足した局面ではなかろうか。
新八の、同志たちと別れても戦いぬき、時代の移り変わりを見つめつつ、己の生を全うした生涯。
本人に「死に遅れた」という思いはあったかもしれないが、亡き盟友たちの分まで生きた、と感じられた。
天野純希「死にぞこないの剣」
会津にやってきた斎藤一は、土方歳三の代理として新選組隊長の任に就く。
松平容保に初めて親しく言葉をかけられ、この主君のために戦おうと決意を新たにした。
白河の攻防戦では、同盟軍の一翼を担って戦い、敵を退ける。しかしその後、新たに着任した総督の指揮が振るわず、劣勢に陥り撤退を余儀なくされた。
次いで、母成峠の守備につく。ところが、傷が癒えて戦線に復帰した土方は、会津藩の敗北を予言する。
曰く、兵員不足の母成峠は突破され、城下戦になる。そうなれば同盟は瓦解するだろう。
「会津を出て蝦夷地へ渡り、徳川旧臣による新政権を樹立する」という壮大な計画に誘われ、一の心は迷う。
やがて、霧を衝き山中の険路を踏破した敵軍が、猛攻を開始する。応戦する守備勢だが――
斎藤一の視点から、会津戦争の苦しさが描写される。
軍事能力より家柄を重視した同盟側の人事。たとえ能力があろうと、軽格者の進言は採用されない。
それらが影響して敗色が濃くなると、ついに心が離れていく者も出る。
このような状況の中、一が敢えて会津に残り戦い続けるに至った理由は、単純だけれども深く大きい。
土方は、合理的な判断から見切りをつけ、新天地を求める。
ただ本作では、一と対比させるため、このように描かれているのだろう。
実際のところ、当初は救援要請が第一だったと思われる。最初から旧幕海軍との合流が目的ならば、新選組を大鳥圭介に預けて米沢方面へ向かう必要はなかった。
戊辰戦争後、明治を生きる一の心境には、土橋章宏「決死剣」の永倉新八に似通ったものを感じた。
性格や生き方はそれぞれ違っても、生き残り幹部としての精神には共通項がありそうだ。
戦後にこのふたりが会ったとしたら、どんな話をしたのか……そんな想像をせずにいられない。
木下昌輝「慈母のごとく」
土方歳三は、鳥羽・伏見の戦場で、旧幕将兵の士気がまったく振るわず、逃げ出すさまを多く目撃する。
やはり鬼となって叱咤激励する指揮官がいなければ、勝てはしない。己は、部下に怯懦の振る舞いを許さない。
近藤勇は、そんな歳三を「厳しいだけでは人はついてこない」と諫める。
それでも歳三は、自分の正しさを信じて疑わなかった。
流山で敵に包囲された時、近藤は指揮官として責任を取り、武士として死ぬため、切腹しようとする。
それを止めた歳三は、一か八かの起死回生に賭け、新政府方へ出頭せよと勧める。
やむなく応じた近藤は、別れ際、歳三にある「約束」をさせるのだった――
「鬼」と畏れられた土方歳三が、戊辰戦争の中で「仏」に変わり部下たちから慕われるようになった経緯の裏には、近藤勇との「約束」があった、という物語。
歳三は、近藤を死なせた償いとして「約束」を守るが、最後の戦いでは破らなければと心に決めた。
ところが激戦の最中、目の当たりにしたのは、歳三のそんな思いとはまったく裏腹な光景だったのだ。
予測が外れてむしろ良かったと思わせる結末が、切なくも温かい。
脇役の野村利三郎と島田魁が、それぞれ妙味を見せている。
野村は、意欲的だけれど強情な性格。何かにつけ他人の非を糺しては叱りつける。しかし、戦いでは常に危険な役回りを引き受けるので、人望がある。
島田は、野村をかつての歳三に似ていると評するが、歳三は「俺はあんな馬鹿じゃない」と不満顔。
そして宮古湾海戦では、やはり野村が真っ先に敵艦へ飛び込んでゆくのだった。
歳三が宇都宮戦で味方の兵を斬ったこと、二股台場山で部下たちを労ったこと、いつしか子に慕われる「慈母」の如く配下の者たちに慕われたこと、箱館市街戦で「退く者は斬る」と宣言したことなど、多くの史料や通説を採り入れつつ、巧みに独自の展開へ落とし込んでいる。
その手法は、『人魚ノ肉』でも活かされていた。
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収録作品の初出は、『日刊ゲンダイ』2016年11月8日~2017年5月1日。
本書は2017年5月、講談社より出版された。四六判ソフトカバー。電子書籍もある。

作家6人は、葉室麟、門井慶喜、小松エメル、土橋章宏、天野純希、木下昌輝。
本書の責任表示にも「著者」として6人が列記されている。ただ、当記事タイトルには全員を書き切れないので、便宜的に最初と最後の2人を挙げた。悪しからずご了承いただきたい。
収録作品6編は、以下のとおり。
葉室麟「鬼火」
沖田総司は、少年期の忌まわしい体験によって心的外傷を負う。
以来、感情をうまく表わせない、人に心を許すことができない性格となり、そのまま成長した。
試衛館一党が浪士組に加わって京に上った後、残留者同士の間で勢力争いが起きる。
邪魔者を粛清するよう命じられた総司だが、敵に後れを取ってしまう。その危機を救ったのは芹沢鴨だった。
芹沢は、壬生浪士組を土台に「尊王義軍」を組織しようと、様々な方策を果敢に断行していく。
一方、富商からの押し借り、大坂力士との乱闘事件、大和屋焼き討ち事件などで、乱暴者と恐れられた。
芹沢の優しさを知る総司は、彼の生き方に惹かれ、その行く末を見届けたいと思う。ところが――
本作の沖田総司は、周囲の人間に心から打ち解けられない。土方歳三に対しても、常に距離をおいている。
そんな総司が、芹沢鴨に対して単なる親愛以上の感情を抱く展開は、珍しいと思う。
本作の芹沢鴨は、武田耕雲斎や藤田小四郎と連携して攘夷を実行するため、浪士組に加わった。
壬生浪士組を「尊王義軍」にするため、戦闘集団として組織編成し、鉄の規律を設けたのも芹沢である。既成の作品では、土方が組織編成や法度の制定を行なったとされる例が多い。しかし、本作では「農民出身の近藤や土方にできることではなかった」と記述されている。
芹沢が有栖川宮に接近したのも、攘夷を実行するための一方策。
これほど具体的な目標を持ち、ひたすら努力・邁進する芹沢の人物造形は、ユニークで興味深い。
ちなみに、作者が新選組を描いた作品に、篠原泰之進を主人公とする長編『影踏み鬼』がある。
作者はおそらく、近藤・土方体制に従わない人物のほうが好きなのだろう。
門井慶喜「戦いを避ける」
元治元年6月5日の夜。
近藤勇は、わずかな人数を率いて、池田屋へ御用改めに立ち寄る。
思いがけずここが過激志士らの会合場所と知ったとたん、不本意ながら戦闘に突入してしまう。
焦燥の中、養子の周平が一刻も早くこの場へやってくるよう、ひたすら念じた。
近藤が谷三兄弟の末弟・喬太郎こと周平を養子に迎えたのは、ある大きな計画のためであった。
それは、この皇国(日本)を革めること、そのため新選組を強力な組織に仕立てて資することに他ならない。
やがて土方歳三のグループが駆けつけ、周平もようやく姿を現すが――
大坂にある谷道場を、近藤と原田左之助が訪問する場面が印象的。
本作の谷三十郎は、備中松山の元藩士というより、まるで「浪花の商人」。近藤とのやりとりがユーモラス。
万太郎と喬太郎が評価されると、すかさず自分も売り込む抜け目なさに、近藤もたじたじ。
近藤と周平との関係を描く小説は複数あるが、本作の場合は、板倉勝静(老中、備中松山藩主)が関連した新選組増強計画のあたりにオリジナリティを感じる。
司馬遼太郎「槍は宝蔵院流」、早乙女貢「槍の三十郎」、小松エメル「流木」などと読み比べるのも面白い。
また、近藤の熱しやすく醒めやすい性格は、作者の『新選組颯爽録』にも描かれている。
小松エメル「足りぬ月」
藤堂平助は、幼少期「藤堂和泉守の御落胤」を口実に実母から厄介払いされた、と信じて成長した。
人に必要なのは才と運。運はあれど才が今ひとつ及ばない己には、才のある誰かが必要だった。
山南敬助と出会い、彼の力量を頼みにして、いつか成功を得ようと決める。
山南の伝手で知りあった伊東甲子太郎は、さらに優れた容姿と文武の才を持つ魅力的な人物であった。
それに引き換え、近藤勇は剣・学問・要領・容姿いずれも秀でたもののない凡庸な人物、と目に映る。
やがて「夜道を照らす月」とも頼んだ山南を失った時、伊東を新選組にぜひ入隊させようと企図する――
本作の平助は、複雑な生い立ちから、人間関係を益になるか否かで判断する習慣がある。
損得ぬきの信頼なぞ理想論に過ぎないと思ってきたが、心の奥底では何よりそれを渇望していた。
プライドが高い一方で自己評価の低い平助が、それを自覚しないまま人生を模索する姿は、苦しく切ない。
得がたいものを得ようとする努力は大切だが、すでに得たものの価値に気づかず投げ捨てて「もっと素晴らしい何か」を探し求める生き方は不幸だ。
ただ、それは平助に限った話ではなく、人はこうした面を多かれ少なかれ持っている気がする。
こういう人柄の平助を、卑小な者ではなく共感できる主人公として描いた、作者の力量を感じる。
そのほか、近藤勇、伊東甲子太郎、斎藤一といった脇役の人物も魅力的。
作者の『夢の燈影』『総司の夢』とのつながりを見出すのも、楽しめると思う。
「足りぬ月」というタイトルは、少しだけ欠けた姿の月を意味している。
昨年12月13日の当方ツイートを引用しておく↓
【慶応3年11月18日=1867年12月13日・京都の夜空】
現地時刻で月出18:54、月没9:10(翌日)、月齢16.9(右側が少し欠けている)。
嵯峨實愛の日記によると、18日は晴れて雲が南へ行くのが見えたとか。
油小路事件の時、雲さえ無ければ月もよく見えたはず。
>>Twitter「誠の栞」@bkmakoto 2016/12/13
完璧なものだけに価値があるのではなく、多少不足があっても素晴らしいものは素晴らしい。
そのことに平助が気づいたのは、命が尽きようとする瞬間だった。
土橋章宏「決死剣」
慶応3年末、新選組を含めた幕府勢力は京都を引き払う。
永倉新八は、愛する内妻の小常を亡くし、生後まもない娘お磯とも別れ、戦いに臨む覚悟を決める。
負傷した近藤勇、病状が進んだ沖田総司は、戦列を離れた。
布陣した伏見で戦端が開かれると、ここを死に場所と定めた新八は、獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
新八にとって、時流も政治も思想も関係ない。剣を極め、信頼する仲間とともに戦うこと、先行きはわからなくても命あるかぎり今を生きることが、何より大切だった――
戦いの描写は迫力満点。
沖田が得意の三段突きを凌駕する必殺技を繰り出したり、新八が剣で薩摩の銃隊を圧倒したり、アクション映画的な味わいがある。
鳥羽・伏見戦争の場面で、新政府方の先込ミニエー銃に対し、新選組は火縄銃を装備している。
幕末、短期間に銃器が目覚ましく発展したのは事実。とはいえ、火縄銃から一足飛びにミニエー銃が導入されたわけではない。時期や地域によって、ゲベール銃やヤーゲル銃が用いられもしたし、幕府方にもミニエー銃・ドライゼ銃・シャスポー銃などを導入していた部隊はあった。
幕府や会津藩が軍制改革を進めていたのだから、新選組もゲベール銃くらいは装備していたと思う。
戊辰戦争で火縄銃が投入されたのは、軍備が遅れていた小藩の勢力、もしくは装備や人員が極端に不足した局面ではなかろうか。
新八の、同志たちと別れても戦いぬき、時代の移り変わりを見つめつつ、己の生を全うした生涯。
本人に「死に遅れた」という思いはあったかもしれないが、亡き盟友たちの分まで生きた、と感じられた。
天野純希「死にぞこないの剣」
会津にやってきた斎藤一は、土方歳三の代理として新選組隊長の任に就く。
松平容保に初めて親しく言葉をかけられ、この主君のために戦おうと決意を新たにした。
白河の攻防戦では、同盟軍の一翼を担って戦い、敵を退ける。しかしその後、新たに着任した総督の指揮が振るわず、劣勢に陥り撤退を余儀なくされた。
次いで、母成峠の守備につく。ところが、傷が癒えて戦線に復帰した土方は、会津藩の敗北を予言する。
曰く、兵員不足の母成峠は突破され、城下戦になる。そうなれば同盟は瓦解するだろう。
「会津を出て蝦夷地へ渡り、徳川旧臣による新政権を樹立する」という壮大な計画に誘われ、一の心は迷う。
やがて、霧を衝き山中の険路を踏破した敵軍が、猛攻を開始する。応戦する守備勢だが――
斎藤一の視点から、会津戦争の苦しさが描写される。
軍事能力より家柄を重視した同盟側の人事。たとえ能力があろうと、軽格者の進言は採用されない。
それらが影響して敗色が濃くなると、ついに心が離れていく者も出る。
このような状況の中、一が敢えて会津に残り戦い続けるに至った理由は、単純だけれども深く大きい。
土方は、合理的な判断から見切りをつけ、新天地を求める。
ただ本作では、一と対比させるため、このように描かれているのだろう。
実際のところ、当初は救援要請が第一だったと思われる。最初から旧幕海軍との合流が目的ならば、新選組を大鳥圭介に預けて米沢方面へ向かう必要はなかった。
戊辰戦争後、明治を生きる一の心境には、土橋章宏「決死剣」の永倉新八に似通ったものを感じた。
性格や生き方はそれぞれ違っても、生き残り幹部としての精神には共通項がありそうだ。
戦後にこのふたりが会ったとしたら、どんな話をしたのか……そんな想像をせずにいられない。
木下昌輝「慈母のごとく」
土方歳三は、鳥羽・伏見の戦場で、旧幕将兵の士気がまったく振るわず、逃げ出すさまを多く目撃する。
やはり鬼となって叱咤激励する指揮官がいなければ、勝てはしない。己は、部下に怯懦の振る舞いを許さない。
近藤勇は、そんな歳三を「厳しいだけでは人はついてこない」と諫める。
それでも歳三は、自分の正しさを信じて疑わなかった。
流山で敵に包囲された時、近藤は指揮官として責任を取り、武士として死ぬため、切腹しようとする。
それを止めた歳三は、一か八かの起死回生に賭け、新政府方へ出頭せよと勧める。
やむなく応じた近藤は、別れ際、歳三にある「約束」をさせるのだった――
「鬼」と畏れられた土方歳三が、戊辰戦争の中で「仏」に変わり部下たちから慕われるようになった経緯の裏には、近藤勇との「約束」があった、という物語。
歳三は、近藤を死なせた償いとして「約束」を守るが、最後の戦いでは破らなければと心に決めた。
ところが激戦の最中、目の当たりにしたのは、歳三のそんな思いとはまったく裏腹な光景だったのだ。
予測が外れてむしろ良かったと思わせる結末が、切なくも温かい。
脇役の野村利三郎と島田魁が、それぞれ妙味を見せている。
野村は、意欲的だけれど強情な性格。何かにつけ他人の非を糺しては叱りつける。しかし、戦いでは常に危険な役回りを引き受けるので、人望がある。
島田は、野村をかつての歳三に似ていると評するが、歳三は「俺はあんな馬鹿じゃない」と不満顔。
そして宮古湾海戦では、やはり野村が真っ先に敵艦へ飛び込んでゆくのだった。
歳三が宇都宮戦で味方の兵を斬ったこと、二股台場山で部下たちを労ったこと、いつしか子に慕われる「慈母」の如く配下の者たちに慕われたこと、箱館市街戦で「退く者は斬る」と宣言したことなど、多くの史料や通説を採り入れつつ、巧みに独自の展開へ落とし込んでいる。
その手法は、『人魚ノ肉』でも活かされていた。
---
収録作品の初出は、『日刊ゲンダイ』2016年11月8日~2017年5月1日。
本書は2017年5月、講談社より出版された。四六判ソフトカバー。電子書籍もある。
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草森紳一『歳三の写真』
表題作「歳三の写真」は中編小説。そのほか、史論やエッセイ4編を収録する。
歳三の写真
中編小説。箱館戦争を背景に、土方歳三が写真師・田本研造と出会い、肖像写真を撮らせる顛末を描く。
明治元年11月15日、旧幕脱走軍の旗艦開陽が、江差沖で座礁する。
脱出の努力もむなしく沈没していく様子に、人見勝太郎や松岡四郎次郎らは嘆きを禁じえない。
しかし歳三は、自分でも意外なほど冷静に事実を受けとめていた。
蝦夷へ渡る前、歳三は幕医・松本良順から肖像写真を撮るよう、強く勧められる。
良順から聞いた話を頼りに、箱館で写真師・田本研造を探すと、彼は同業の木津幸吉のもとにいた。
そこには先客として榎本武揚もおり、田本を従軍写真師として雇いたいと持ちかけたという。
歳三は、木津の写場を何度も訪ね、田本と語らったり、仕事ぶりを見物したりする。
しかし、自身の肖像撮影にはなかなか踏み切れないまま、箱館の冬を過ごす。
そして日を重ねるうち、新政府軍の侵攻は目前に迫るのだった。
著者が本作を描いたきっかけは、歳三の写真を見て「ある種の近代性の匂い」を感じとったこと、だとか。
これについては、巻末の著者あとがき、もしくは解説に詳しいので、ぜひ一読されたい。
写真に撮られるという行為は、現代においても、単に見られるのとは違った意味合いがある。
写真の黎明期・幕末にはなおさら、人は様々な思いを抱きつつ被写体となったことだろう。
本作は、歳三の写真がどのように撮られたか、当人の心理、田本研造との関係に焦点を当てて描いている。
歳三の生き方や、肖像写真を残すという行為の解釈は哲学的で、何か深淵を覗き込むような感覚すらおぼえる。
もっとも、そこまで深く考えず、単純にストーリーを楽しんでもよいと思う。
本作の歳三像は、生身の人間らしい親しみやリアリティを感じさせる。
写場(撮影スタジオ)で撮影の様子を見物したり写真機(カメラ)を覗いたり、宮古湾海戦の失敗を悔やんだり、二股台場山でクマに追いかけられたりといった場面には、特によく表われている。
最期は、馬上で督戦中に遂げるのではなく、まったく別の状況が描かれる。筆致は抑制的で、ヒーロー的な華々しさや感動を煽る要素はないにもかかわらず、妙に印象的で忘れがたい。
田本研造は、頑固で無愛想な職人気質の男として造形されている。
同時代の写真師たちも、木津幸吉のほか、紺野治重、横山松三郎、武林盛一が登場して、興味深い。
旧幕軍諸士では、榎本武揚の登場が多い。ただし、周囲の反発を買うなど、あまり良い扱いをされない。
ほかにも、林董三郎、中島三郎助、伊庭八郎、甲賀源吾、大鳥圭介などが出てくる。
新選組隊士は、市村鉄之助、立川主税、野村利三郎らが登場。
朝涼や人より先へ渡りふね
エッセイ。副題「伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」。
日記史料に窺える八郎の心理と、その生涯を考察する。
伊庭八郎は、言わずと知れた心形刀流・伊庭秀業の嫡子であり幕臣。
戊辰戦争では、箱根山崎の戦いで左手を失いながらも蝦夷地へ渡り、木古内の戦いで被弾、箱館で亡くなった。
本作のタイトルは、八郎が同日記に書き留めた発句を転用している。
『征西日記』は、正確には「御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳面」と称する。
元治元年、上洛する将軍家茂を八郎が奥詰(親衛隊)として警護した、約半年間の記録史料である。
この日記は、友人かつ同僚の中根香亭により明治期に出版され、世に知られている。
日記の内容は京坂滞在中の出来事だが、政情や任務にはあまり触れず、食事や名所見物、買い物の記述が多い。
そのため「危機感に欠ける」などと批判されることもある。
しかし著者は、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を意図的に記さなかったと捉える。
八郎に対する著者の評は、ごく客観的なようでいて、好意がそこはかとなく伝わってくる。
重い羽織
エッセイ。副題「新選組の「誠」」。
新選組の隊服「ダンダラ羽織」の成立過程と意義を、歴史的・社会学的・心理学的な見地から解き明かす。
隊旗、すなわち「誠の旗」にも言及している。
「誠」という言葉は、決して新選組の専売特許ではなく、当時多くの人々が使っている。
ただ、新選組の場合は「誠」を旗印や隊服にあしらい視覚化、これでもかと見せつけた。
それが、他者とは大きく異なる点であり、近代的宣伝術の走りであると、著者は指摘する。
批判的ともとれる表現もあるが、全体としてはごく客観的な考察として読める。
高台寺残党
史論。油小路事件の後、御陵衛士の面々がどのように行動したか、全9章にわたって考察する。
油小路事件で死亡した伊東甲子太郎らの遺骸は、後に光縁寺から戒光寺へ改葬された。
その葬列に200人もの「供卒」が従ったことが、記録に残っている。
本編は、この改葬がタイミング的にいつ行なわれたか、「供卒」とは何者なのか、なぜこのような人数を仕立てることが可能であり、その必要があったのか、を探る。
同時に、鈴木三樹三郎や篠原泰之進が赤報隊の成立・活動とどのように関わっていたか、相楽総三の言動と比較しながら、かなり克明に追っている。
中盤では、油小路事件や墨染狙撃事件にも言及する。
阿部十郎、加納道之助、富山弥兵衛たちの言動、その裏にある心理や薩摩藩との関係を子細に探っていく。
御陵衛士の研究書というと市居浩一『高台寺党の人びと』を思い出すが、本編もかなり詳しく勉強になる。
彼らに関心のある向きにとって必読、と言ってもよさそう。
「斜」の視線
エッセイ。副題「新選組副長土方歳三の「書体」」。
発句(俳句)や書簡の内容と、そこに残された筆跡を手がかりに、土方歳三の生き方を探る。
俳句には兵法に通じる側面がある、という。
俳人の祖父や兄を持つ歳三は、自身も句作に親しむ機会に恵まれていた。
彼の人格形成には、俳句と剣術に出会ったことが大きく影響している。
歳三のスタイリッシュな筆跡は、単に文字を書くというだけでなく、デザイン的な意図をうかがわせる。
著者の考察は、適確かつ奥深いと思えた。
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本書の初版は1978年。小説は別として、エッセイや史論は歴史研究として最新でない部分もある。
しかし、全体としては古さを感じさせず、むしろ高い普遍性がうかがえる。
著者の見解は、かなり真相に肉迫しているのでは、と思えた。
また、幅広い知識に裏づけられたユニークな視点は、参考になるところが多い。
文体には「品格」ともいうべき魅力があり、文章書きとして見習いたいほど感銘を受けた。
本書は、下記のとおり初版と増補版とが出版されている。
『歳三の写真』
1978年刊行。「歳三の写真」「朝涼や人より先へ渡りふね」「重い羽織」「高台寺残党」の4編と、著者あとがき「『歳三の写真』ノート 自跋をかねて」を収録。
『歳三の写真〔増補版〕』
2004年刊行。「歳三の写真」「朝涼や人より先へ渡りふね」「重い羽織」「高台寺残党」「「斜」の視線」の5編と、縄田一男の解説「エスプリと諧謔にみちた土方歳三像」を収録。
いずれも版元は新人物往来社、体裁は四六判ハードカバー。カバーデザインが異なる。
(※本項は『歳三の写真〔増補版〕』を参考として記述した。)
ちなみに、中編小説「歳三の写真」は下記アンソロジーにも収録されている。
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003

歳三の写真
中編小説。箱館戦争を背景に、土方歳三が写真師・田本研造と出会い、肖像写真を撮らせる顛末を描く。
明治元年11月15日、旧幕脱走軍の旗艦開陽が、江差沖で座礁する。
脱出の努力もむなしく沈没していく様子に、人見勝太郎や松岡四郎次郎らは嘆きを禁じえない。
しかし歳三は、自分でも意外なほど冷静に事実を受けとめていた。
蝦夷へ渡る前、歳三は幕医・松本良順から肖像写真を撮るよう、強く勧められる。
良順から聞いた話を頼りに、箱館で写真師・田本研造を探すと、彼は同業の木津幸吉のもとにいた。
そこには先客として榎本武揚もおり、田本を従軍写真師として雇いたいと持ちかけたという。
歳三は、木津の写場を何度も訪ね、田本と語らったり、仕事ぶりを見物したりする。
しかし、自身の肖像撮影にはなかなか踏み切れないまま、箱館の冬を過ごす。
そして日を重ねるうち、新政府軍の侵攻は目前に迫るのだった。
著者が本作を描いたきっかけは、歳三の写真を見て「ある種の近代性の匂い」を感じとったこと、だとか。
これについては、巻末の著者あとがき、もしくは解説に詳しいので、ぜひ一読されたい。
写真に撮られるという行為は、現代においても、単に見られるのとは違った意味合いがある。
写真の黎明期・幕末にはなおさら、人は様々な思いを抱きつつ被写体となったことだろう。
本作は、歳三の写真がどのように撮られたか、当人の心理、田本研造との関係に焦点を当てて描いている。
歳三の生き方や、肖像写真を残すという行為の解釈は哲学的で、何か深淵を覗き込むような感覚すらおぼえる。
もっとも、そこまで深く考えず、単純にストーリーを楽しんでもよいと思う。
本作の歳三像は、生身の人間らしい親しみやリアリティを感じさせる。
写場(撮影スタジオ)で撮影の様子を見物したり写真機(カメラ)を覗いたり、宮古湾海戦の失敗を悔やんだり、二股台場山でクマに追いかけられたりといった場面には、特によく表われている。
最期は、馬上で督戦中に遂げるのではなく、まったく別の状況が描かれる。筆致は抑制的で、ヒーロー的な華々しさや感動を煽る要素はないにもかかわらず、妙に印象的で忘れがたい。
田本研造は、頑固で無愛想な職人気質の男として造形されている。
同時代の写真師たちも、木津幸吉のほか、紺野治重、横山松三郎、武林盛一が登場して、興味深い。
旧幕軍諸士では、榎本武揚の登場が多い。ただし、周囲の反発を買うなど、あまり良い扱いをされない。
ほかにも、林董三郎、中島三郎助、伊庭八郎、甲賀源吾、大鳥圭介などが出てくる。
新選組隊士は、市村鉄之助、立川主税、野村利三郎らが登場。
朝涼や人より先へ渡りふね
エッセイ。副題「伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」。
日記史料に窺える八郎の心理と、その生涯を考察する。
伊庭八郎は、言わずと知れた心形刀流・伊庭秀業の嫡子であり幕臣。
戊辰戦争では、箱根山崎の戦いで左手を失いながらも蝦夷地へ渡り、木古内の戦いで被弾、箱館で亡くなった。
本作のタイトルは、八郎が同日記に書き留めた発句を転用している。
『征西日記』は、正確には「御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳面」と称する。
元治元年、上洛する将軍家茂を八郎が奥詰(親衛隊)として警護した、約半年間の記録史料である。
この日記は、友人かつ同僚の中根香亭により明治期に出版され、世に知られている。
日記の内容は京坂滞在中の出来事だが、政情や任務にはあまり触れず、食事や名所見物、買い物の記述が多い。
そのため「危機感に欠ける」などと批判されることもある。
しかし著者は、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を意図的に記さなかったと捉える。
八郎に対する著者の評は、ごく客観的なようでいて、好意がそこはかとなく伝わってくる。
重い羽織
エッセイ。副題「新選組の「誠」」。
新選組の隊服「ダンダラ羽織」の成立過程と意義を、歴史的・社会学的・心理学的な見地から解き明かす。
隊旗、すなわち「誠の旗」にも言及している。
「誠」という言葉は、決して新選組の専売特許ではなく、当時多くの人々が使っている。
ただ、新選組の場合は「誠」を旗印や隊服にあしらい視覚化、これでもかと見せつけた。
それが、他者とは大きく異なる点であり、近代的宣伝術の走りであると、著者は指摘する。
批判的ともとれる表現もあるが、全体としてはごく客観的な考察として読める。
高台寺残党
史論。油小路事件の後、御陵衛士の面々がどのように行動したか、全9章にわたって考察する。
油小路事件で死亡した伊東甲子太郎らの遺骸は、後に光縁寺から戒光寺へ改葬された。
その葬列に200人もの「供卒」が従ったことが、記録に残っている。
本編は、この改葬がタイミング的にいつ行なわれたか、「供卒」とは何者なのか、なぜこのような人数を仕立てることが可能であり、その必要があったのか、を探る。
同時に、鈴木三樹三郎や篠原泰之進が赤報隊の成立・活動とどのように関わっていたか、相楽総三の言動と比較しながら、かなり克明に追っている。
中盤では、油小路事件や墨染狙撃事件にも言及する。
阿部十郎、加納道之助、富山弥兵衛たちの言動、その裏にある心理や薩摩藩との関係を子細に探っていく。
御陵衛士の研究書というと市居浩一『高台寺党の人びと』を思い出すが、本編もかなり詳しく勉強になる。
彼らに関心のある向きにとって必読、と言ってもよさそう。
「斜」の視線
エッセイ。副題「新選組副長土方歳三の「書体」」。
発句(俳句)や書簡の内容と、そこに残された筆跡を手がかりに、土方歳三の生き方を探る。
俳句には兵法に通じる側面がある、という。
俳人の祖父や兄を持つ歳三は、自身も句作に親しむ機会に恵まれていた。
彼の人格形成には、俳句と剣術に出会ったことが大きく影響している。
歳三のスタイリッシュな筆跡は、単に文字を書くというだけでなく、デザイン的な意図をうかがわせる。
著者の考察は、適確かつ奥深いと思えた。
---
本書の初版は1978年。小説は別として、エッセイや史論は歴史研究として最新でない部分もある。
しかし、全体としては古さを感じさせず、むしろ高い普遍性がうかがえる。
著者の見解は、かなり真相に肉迫しているのでは、と思えた。
また、幅広い知識に裏づけられたユニークな視点は、参考になるところが多い。
文体には「品格」ともいうべき魅力があり、文章書きとして見習いたいほど感銘を受けた。
本書は、下記のとおり初版と増補版とが出版されている。
『歳三の写真』
1978年刊行。「歳三の写真」「朝涼や人より先へ渡りふね」「重い羽織」「高台寺残党」の4編と、著者あとがき「『歳三の写真』ノート 自跋をかねて」を収録。
『歳三の写真〔増補版〕』
2004年刊行。「歳三の写真」「朝涼や人より先へ渡りふね」「重い羽織」「高台寺残党」「「斜」の視線」の5編と、縄田一男の解説「エスプリと諧謔にみちた土方歳三像」を収録。
いずれも版元は新人物往来社、体裁は四六判ハードカバー。カバーデザインが異なる。
(※本項は『歳三の写真〔増補版〕』を参考として記述した。)
ちなみに、中編小説「歳三の写真」は下記アンソロジーにも収録されている。
『新選組傑作コレクション 興亡の巻』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 河出書房新社 1990
『新選組興亡録』 司馬遼太郎ほか著 縄田一男編 角川文庫 2003
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