名和弓雄『間違いだらけの時代劇』
時代考証家の著者が、制作現場での体験をまじえ、フィクションと史実との差違を語るエッセイ集。
正編と続編の2冊が刊行されている。
テレビや映画の時代劇について、時代考証の問題点を指摘する書籍は、あまた出版されている。そのツッコミぶりが面白く、歴史の勉強にもなるので、手に取ってみることが多い。
本書の著者・名和弓雄は、正木流古武術宗家として剣術や十手術を極め、時代劇の考証ならびに砲術・古武術の指導に長年携わった。NHK大河ドラマは「樅の木は残った」から「琉球の風」まで、民放ドラマ・映画・舞台も多数手がけている。
その過程にて、強風の中で火縄銃を放つ、本物の鎧を刀や鉄砲で攻撃する、などの実験も行なった。
豊富な実体験に基づき書かれた本書は、リアリティがあって大変興味深い。
文章はわかりやすく、写真や絵図も適宜添えられ、肩の凝らない読みものとして楽しめる。
それぞれの章立ては、以下のとおり。各章は、さらに細かく10~30項に分かれている。
正編……時代劇の考証にまつわる話が中心。
1.様にならない作法のお笑い
2.講釈師、見てきたような嘘を言い
3.テレビの花形、捕物帖の取り違い
4.知らぬが仏、小道具、大道具の間違い
5.いざ戦場に!便利にできている衣裳・武具
6.これはビックリ!常識破る珍兵器
続編……武具・甲冑など武将の装備、著者の武具・骨董コレクションに関する話題が中心。
1.甲冑を着用して戦えば
2.捕者にはこんな捕具が必要
3.考証・なるほど時代劇
4.珍談奇談骨董談義
新選組に関連した記述が、両編に散見される。
例えば、忠臣蔵の芝居と新選組の隊服の関連(正編)、時代小説『女新選組』の考証的な問題点(正編)、近藤勇が処刑された板橋刑場のこと(続編)などである。
中でも注目すべきは、「沖田総司君の需(もと)めに応じ」(続編)と題する一項。
沖田総司の関連著作を多く手がけた作家・森満喜子は、沖田の注文で作られたという短刀を所有していた。
その詳細が「沖田総司君の需めに応じ」によってわかる。ごく大まかにまとめると下記のような内容。
著者・名和弓雄はある時、大牟田市内の催しにて、地元在住の森満喜子と知りあった。
いろいろと話すうち、森が所有する短刀の鑑定を依頼された。
刀身も拵えも良いものであり、中心(茎)には「沖田総司君の需めに応じ、文久三年八月、京に於て、信濃国住人浮州之を鍛う」との銘が切ってあった(※原文のままでなく、著者が読み下し文に改めた模様)。
名和は調査に入るが、「信濃国住人浮州」という刀工の実在は確認できない。
実物を見た時に「武州下原刀では」と直感したことから、下原刀に詳しい研究家・村上孝介に問い合わせた。
わかったことは次のとおり。
◯「浮州」は、下原刀工の酒井濤江之介正近が用いた偽銘である。
◯濤江之介は、自作に「近藤勇君のために」「土方歳三君のために」などの銘を、明治になっても切った。
◯最期は多摩川の河原で斬首に処された。理由は偽物作りと伝わる。
(※正編「幽霊刀工横行」には、八王子千人同心により打ち首にされたとの旨がある。)
他の研究家にも問い合わせてみたが、これ以上の詳細は掴めなかった。
濤江之介が本当に沖田からの依頼で作刀したとすれば、偽銘を切ったのはなぜか。また、明治期に入れば新選組に関連するものなど世間を憚るばかりで、作っても利益になるとは思えない――
と名和は疑問を呈しつつ、「沖田をおもしろく書ける作家なら、この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」と結ぶ。
森満喜子は、これを受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう。
収録書『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞があることからも間違いない。
こうした経緯を知って、下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた。
【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】
本国は奥州白河。(※関係の有無は不明だが、沖田総司の父は白河藩に仕えていた。)
細川正義の門下として学んだとされる。
天保末年(1843頃)より八王子の小比企村に在住した。
(※埼玉県入間郡越生町にも、正近の工房跡と伝わる場所があるとか。)
弘化3年(1846)、同4年、嘉永6年(1853)などの年紀が入った八王子千人同心の佩刀を鍛造している。
安政2年(1855)、武蔵太郎安貞と合作した太刀(八王子市指定文化財)を高尾山薬王院に献納。
鑑定の鞘書きを残しており、博識で鑑識眼もあった節がうかがえる。
明治初年、偽物を作った廉により、多摩の浅川河原で斬首に処された。
一方、小栗騒動との関連により新政府軍の横暴の犠牲になった、とする説もあるものの詳細不明。
(参考:『刀剣と歴史』2010年5月号 大沢都志夫「酒井濤江介正近について」)
【細川正義】
初代・細川良助正義(1758~1814)と、二代・細川主税佐正義(1786~1858)がいる。
濤江之介の師匠と考えられるのは二代のほうか。
二代正義は、天明6年(1786)初代の長男として下野国鹿沼に生まれる。
水心子に入門し相州伝・備前伝を会得、江戸にて津山藩お抱えとなる。安政5年(1858)73歳で死去。
新々刀期(天明年間~明治初年)の下野刀工の最高峰ともされている。
【武蔵太郎安貞】
下原刀工の弟子筋。同名の刀工が何代かにわたり存在した様子で、濤江之介と合作したのは四代目か。
鍛冶場を上長房村(八王子市裏高尾町・西浅川町)に置いた。文化4年(1087)、安政5年(1858)の年紀が見られる。墓は小名路(八王子西浅川町)の金南寺にある。
【小栗騒動】
幕府の要職を歴任した小栗上野介忠順は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、徹底抗戦を唱えて罷免された。そこで江戸を去り、知行地の上州権田村に隠棲する。
上州では、前年11~12月の出流山事件により治安が悪化(※薩摩系浪士が率いる約160人が武装蜂起し、幕府と諸藩に追討された)。その後「世直し」を掲げる打ち壊しが頻発していた。また、1月に小栗の新政府迎撃構想を受け、岩鼻代官所の渋谷鷲郎(関東取締出役)が発した農兵取立命令は、農民たちの反発を買った。さらに「小栗は大金を蓄えている」との噂が流れ、これを奪おうと企てる博徒一味も現れた模様。
そして3月4日、博徒に煽動された近隣村々の暴徒が、権田村に押し寄せた。その数は約2千人ともいう。
しかし、小栗の下にはフランス式調練を受けた家臣たちがおり、最新の火器を備えていた。権田村の人々も協力して防衛に努める。彼らの働きにより、暴徒は追い払われた。
約2ヶ月後、小栗は新政府軍によって捕縛、処刑された。小栗の暴徒鎮圧に用いた武備が「新政府に対する叛意の証拠」とみなされた節もある。
以上が大略であるが、濤江之介が騒動にどう関わっていたというのか、まったくわからない。
(参考:高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』、長谷川伸『相楽総三とその同志』)
【武州下原刀】
下原鍛冶が製作した刀剣類の通称。
下原鍛冶とは、武蔵国多摩郡の下恩方村、横川村、慈根寺村(八王子市)などに散在した刀工群。(※濤江之介が住んだ小比企村は、この村々の南東に位置する近村。)
山本姓を名乗る一族が、室町時代末期より山内上杉氏~小田原北条氏~徳川幕府と歴代支配者の庇護を受け、御用を務めてきた。江戸中期以降は衰退するが、幕末まで続く武州唯一の刀工群である。
新々刀の祖・水心子正秀も修業時代、下原鍛冶の弟子筋・武蔵丸吉英に師事した。
「下原(したはら)」は「下腹」に通じ切腹を連想させる、と厭われもした一方、切れ味の良さには定評があった。なお、文政期や明治・大正期に「しもはら」と読みがながふられた例もあり、いつから「したはら」の読みが定着したのか不明。
下原鍛冶の弟子筋に、乞田鍛冶の吉之・正行兄弟がいる。
吉之は天保5年(1834)生まれ、正行は天保14年(1843)生まれ。父は貝取村瓜生(多摩市)の濱田助左衛門。
正行の師匠は、濤江之介正近であった。
また、兄弟は新選組隊士の刀や三多摩壮士の杖刀を作ったともいう。
(参考:八王子市郷土資料館『下原刀』、福生市郷土資料館『武州下原刀展』『武州下原刀展II』)
天然理心流(増田蔵六系)の師範・山本満次郎は、下原刀工の本流・山本一族の出身である。
満次郎の門人には、後に新選組隊士となる中島登もいた。
山本一族は、歴代領主から広大な除地(免税地)を与えられていたが、明治新政府に特権を剥奪、課税されることとなる。満次郎は、一族の代表として復権を嘆願したものの叶わず、明治4年に切腹して果てた。
(参考:小島政孝『武術 天然理心流』)
以上のとおり下原刀は、天然理心流、八王子千人同心、新選組ともそれぞれ関わりがあった。
濤江之介が「浮州」の銘を用いた理由は不明ながら、沖田総司ら新選組隊士から作刀を依頼されたことは実際にあったのでは、と思えてくる。
また、現代の美術品的鑑定では高評価をされていない下原刀だが、上々の作もあり、中には別の鍛冶の作と誤って判断されているものもあるらしい。
新選組のふるさと多摩の郷土に根ざす下原刀と下原鍛冶が、今後も末永く研究され、正当な評価を受けることを願ってやまない。
話を本書に戻そう。
新選組に直接関係しない項にも、興味深い要素は多い。特に、次の項目が強く印象に残った。
「徳川に過ぎたるもの、唐の兜」(続編)…戊辰戦争で新政府軍の隊長などが着けていた熊毛の被り物は、江戸城から没収したヤクの毛だった。このヤクの毛を徳川家が入手した意外な経緯。
「火吹きだるま」(続編)…大村益次郎の渾名として名が知れているわりに、実体は意外に知られていないこの道具についての詳しい解説。
正編『間違いだらけの時代劇』は1989年、続編『続 間違いだらけの時代劇』は1994年に初版発行された。
いずれも河出文庫。


正編と続編の2冊が刊行されている。
テレビや映画の時代劇について、時代考証の問題点を指摘する書籍は、あまた出版されている。そのツッコミぶりが面白く、歴史の勉強にもなるので、手に取ってみることが多い。
本書の著者・名和弓雄は、正木流古武術宗家として剣術や十手術を極め、時代劇の考証ならびに砲術・古武術の指導に長年携わった。NHK大河ドラマは「樅の木は残った」から「琉球の風」まで、民放ドラマ・映画・舞台も多数手がけている。
その過程にて、強風の中で火縄銃を放つ、本物の鎧を刀や鉄砲で攻撃する、などの実験も行なった。
豊富な実体験に基づき書かれた本書は、リアリティがあって大変興味深い。
文章はわかりやすく、写真や絵図も適宜添えられ、肩の凝らない読みものとして楽しめる。
それぞれの章立ては、以下のとおり。各章は、さらに細かく10~30項に分かれている。
正編……時代劇の考証にまつわる話が中心。
1.様にならない作法のお笑い
2.講釈師、見てきたような嘘を言い
3.テレビの花形、捕物帖の取り違い
4.知らぬが仏、小道具、大道具の間違い
5.いざ戦場に!便利にできている衣裳・武具
6.これはビックリ!常識破る珍兵器
続編……武具・甲冑など武将の装備、著者の武具・骨董コレクションに関する話題が中心。
1.甲冑を着用して戦えば
2.捕者にはこんな捕具が必要
3.考証・なるほど時代劇
4.珍談奇談骨董談義
新選組に関連した記述が、両編に散見される。
例えば、忠臣蔵の芝居と新選組の隊服の関連(正編)、時代小説『女新選組』の考証的な問題点(正編)、近藤勇が処刑された板橋刑場のこと(続編)などである。
中でも注目すべきは、「沖田総司君の需(もと)めに応じ」(続編)と題する一項。
沖田総司の関連著作を多く手がけた作家・森満喜子は、沖田の注文で作られたという短刀を所有していた。
その詳細が「沖田総司君の需めに応じ」によってわかる。ごく大まかにまとめると下記のような内容。
著者・名和弓雄はある時、大牟田市内の催しにて、地元在住の森満喜子と知りあった。
いろいろと話すうち、森が所有する短刀の鑑定を依頼された。
刀身も拵えも良いものであり、中心(茎)には「沖田総司君の需めに応じ、文久三年八月、京に於て、信濃国住人浮州之を鍛う」との銘が切ってあった(※原文のままでなく、著者が読み下し文に改めた模様)。
名和は調査に入るが、「信濃国住人浮州」という刀工の実在は確認できない。
実物を見た時に「武州下原刀では」と直感したことから、下原刀に詳しい研究家・村上孝介に問い合わせた。
わかったことは次のとおり。
◯「浮州」は、下原刀工の酒井濤江之介正近が用いた偽銘である。
◯濤江之介は、自作に「近藤勇君のために」「土方歳三君のために」などの銘を、明治になっても切った。
◯最期は多摩川の河原で斬首に処された。理由は偽物作りと伝わる。
(※正編「幽霊刀工横行」には、八王子千人同心により打ち首にされたとの旨がある。)
他の研究家にも問い合わせてみたが、これ以上の詳細は掴めなかった。
濤江之介が本当に沖田からの依頼で作刀したとすれば、偽銘を切ったのはなぜか。また、明治期に入れば新選組に関連するものなど世間を憚るばかりで、作っても利益になるとは思えない――
と名和は疑問を呈しつつ、「沖田をおもしろく書ける作家なら、この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」と結ぶ。
森満喜子は、これを受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう。
収録書『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞があることからも間違いない。
こうした経緯を知って、下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた。
【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】
本国は奥州白河。(※関係の有無は不明だが、沖田総司の父は白河藩に仕えていた。)
細川正義の門下として学んだとされる。
天保末年(1843頃)より八王子の小比企村に在住した。
(※埼玉県入間郡越生町にも、正近の工房跡と伝わる場所があるとか。)
弘化3年(1846)、同4年、嘉永6年(1853)などの年紀が入った八王子千人同心の佩刀を鍛造している。
安政2年(1855)、武蔵太郎安貞と合作した太刀(八王子市指定文化財)を高尾山薬王院に献納。
鑑定の鞘書きを残しており、博識で鑑識眼もあった節がうかがえる。
明治初年、偽物を作った廉により、多摩の浅川河原で斬首に処された。
一方、小栗騒動との関連により新政府軍の横暴の犠牲になった、とする説もあるものの詳細不明。
(参考:『刀剣と歴史』2010年5月号 大沢都志夫「酒井濤江介正近について」)
【細川正義】
初代・細川良助正義(1758~1814)と、二代・細川主税佐正義(1786~1858)がいる。
濤江之介の師匠と考えられるのは二代のほうか。
二代正義は、天明6年(1786)初代の長男として下野国鹿沼に生まれる。
水心子に入門し相州伝・備前伝を会得、江戸にて津山藩お抱えとなる。安政5年(1858)73歳で死去。
新々刀期(天明年間~明治初年)の下野刀工の最高峰ともされている。
【武蔵太郎安貞】
下原刀工の弟子筋。同名の刀工が何代かにわたり存在した様子で、濤江之介と合作したのは四代目か。
鍛冶場を上長房村(八王子市裏高尾町・西浅川町)に置いた。文化4年(1087)、安政5年(1858)の年紀が見られる。墓は小名路(八王子西浅川町)の金南寺にある。
【小栗騒動】
幕府の要職を歴任した小栗上野介忠順は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、徹底抗戦を唱えて罷免された。そこで江戸を去り、知行地の上州権田村に隠棲する。
上州では、前年11~12月の出流山事件により治安が悪化(※薩摩系浪士が率いる約160人が武装蜂起し、幕府と諸藩に追討された)。その後「世直し」を掲げる打ち壊しが頻発していた。また、1月に小栗の新政府迎撃構想を受け、岩鼻代官所の渋谷鷲郎(関東取締出役)が発した農兵取立命令は、農民たちの反発を買った。さらに「小栗は大金を蓄えている」との噂が流れ、これを奪おうと企てる博徒一味も現れた模様。
そして3月4日、博徒に煽動された近隣村々の暴徒が、権田村に押し寄せた。その数は約2千人ともいう。
しかし、小栗の下にはフランス式調練を受けた家臣たちがおり、最新の火器を備えていた。権田村の人々も協力して防衛に努める。彼らの働きにより、暴徒は追い払われた。
約2ヶ月後、小栗は新政府軍によって捕縛、処刑された。小栗の暴徒鎮圧に用いた武備が「新政府に対する叛意の証拠」とみなされた節もある。
以上が大略であるが、濤江之介が騒動にどう関わっていたというのか、まったくわからない。
(参考:高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』、長谷川伸『相楽総三とその同志』)
【武州下原刀】
下原鍛冶が製作した刀剣類の通称。
下原鍛冶とは、武蔵国多摩郡の下恩方村、横川村、慈根寺村(八王子市)などに散在した刀工群。(※濤江之介が住んだ小比企村は、この村々の南東に位置する近村。)
山本姓を名乗る一族が、室町時代末期より山内上杉氏~小田原北条氏~徳川幕府と歴代支配者の庇護を受け、御用を務めてきた。江戸中期以降は衰退するが、幕末まで続く武州唯一の刀工群である。
新々刀の祖・水心子正秀も修業時代、下原鍛冶の弟子筋・武蔵丸吉英に師事した。
「下原(したはら)」は「下腹」に通じ切腹を連想させる、と厭われもした一方、切れ味の良さには定評があった。なお、文政期や明治・大正期に「しもはら」と読みがながふられた例もあり、いつから「したはら」の読みが定着したのか不明。
下原鍛冶の弟子筋に、乞田鍛冶の吉之・正行兄弟がいる。
吉之は天保5年(1834)生まれ、正行は天保14年(1843)生まれ。父は貝取村瓜生(多摩市)の濱田助左衛門。
正行の師匠は、濤江之介正近であった。
また、兄弟は新選組隊士の刀や三多摩壮士の杖刀を作ったともいう。
(参考:八王子市郷土資料館『下原刀』、福生市郷土資料館『武州下原刀展』『武州下原刀展II』)
天然理心流(増田蔵六系)の師範・山本満次郎は、下原刀工の本流・山本一族の出身である。
満次郎の門人には、後に新選組隊士となる中島登もいた。
山本一族は、歴代領主から広大な除地(免税地)を与えられていたが、明治新政府に特権を剥奪、課税されることとなる。満次郎は、一族の代表として復権を嘆願したものの叶わず、明治4年に切腹して果てた。
(参考:小島政孝『武術 天然理心流』)
以上のとおり下原刀は、天然理心流、八王子千人同心、新選組ともそれぞれ関わりがあった。
濤江之介が「浮州」の銘を用いた理由は不明ながら、沖田総司ら新選組隊士から作刀を依頼されたことは実際にあったのでは、と思えてくる。
また、現代の美術品的鑑定では高評価をされていない下原刀だが、上々の作もあり、中には別の鍛冶の作と誤って判断されているものもあるらしい。
新選組のふるさと多摩の郷土に根ざす下原刀と下原鍛冶が、今後も末永く研究され、正当な評価を受けることを願ってやまない。
話を本書に戻そう。
新選組に直接関係しない項にも、興味深い要素は多い。特に、次の項目が強く印象に残った。
「徳川に過ぎたるもの、唐の兜」(続編)…戊辰戦争で新政府軍の隊長などが着けていた熊毛の被り物は、江戸城から没収したヤクの毛だった。このヤクの毛を徳川家が入手した意外な経緯。
「火吹きだるま」(続編)…大村益次郎の渾名として名が知れているわりに、実体は意外に知られていないこの道具についての詳しい解説。
正編『間違いだらけの時代劇』は1989年、続編『続 間違いだらけの時代劇』は1994年に初版発行された。
いずれも河出文庫。
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服部之総『黒船前後・志士と経済』
史論ふうエッセイ集。「他十六篇」の副題が付いている。
幕末から明治の諸相を、社会学的な見地から考察した18編を収録。うち1編が「新撰組」である。
著者・服部之総(はっとりしそう)は、1901(明治34)年、島根県に生まれた。
父親が浄土真宗本願寺派の寺の住職であったので、跡取りとなることを期待されていたが、東京帝国大学文学部社会学科に進み、社会主義への関心を深める。
卒業後は、東京帝国大学文学部社会学科の副手、東洋大学教授、中央公論社の初代出版部長、プロレタリヤ科学研究所所員、花王石鹸取締役、鎌倉アカデミア学監、法政大学社会学部教授などを歴任。
1956(昭和31)年に亡くなるまで、学術論文のほかエッセイも多数残した。
本書には、複数のエッセイ集から選ばれた18編が収録されている。
各編は以下のとおり。(*は初出誌と最初の収録本)
「黒船前後」(原題「黎明期の船史」)
*『中央公論』1932(S7)年9月号、『黒船前後』大畑書店/1933
木造船から鉄造船へ、帆船から汽船への移り変わりを、主に国際経済の見地から述べる。
「せいばい」
*不明 『微視の史学』理論社/1953
徳川時代の死刑の種類と、会津藩にだけ許された裁量権について述べる。
「黒船来航」
*『新しい世界』1953(S28)年7月号、『服部之総全集 第22巻』福村出版/1975
日本を開国へ導く役割を、列強国の中でもアメリカが担うことになった経緯について、解き明かす。
「汽船が太平洋を横断するまで」
*『中央公論』1931(S6)年11月号、『黒船前後』大畑書店/1933
汽船による太平洋横断の歴史には、船舶や航海技術の発達のみならず、経済的問題が大きく影響していた。
米カリフォルニアのゴールドラッシュ、日米和親条約と通商条約、南北戦争、中国の茶貿易などさまざまな要素との関連から考察する。
「咸臨丸その他」
*不明、『黒船前後』大畑書店/1933
汽船による太平洋横断の歴史。その黎明期、日本の咸臨丸が単独横断を成し遂げた。
「撥陵遠征隊」
*不明、『黒船前後』大畑書店/1933
朝鮮の「攘夷」の歴史、すなわち欧米列強の干渉を退けた経緯。主に1868年、国王の陵墓が無断で発掘されたために起きた武力衝突の記録について述べる。
「空罎」
*『法律春秋』1931(S6)年5月号、『黒船前後』大畑書店/1933
幕末の自由貿易開始の経緯。ゴンチャロフが記録した、日露交渉における川路聖謨の人物像。ウォッカの空き瓶をめぐるエピソード。
「尊攘戦略史」(原題「尊皇攘夷戦略史)
*『中央公論』1931(S6)年7月号、『黒船前後』大畑書店/1933
幕末、尊皇攘夷思想が成立し、変容していった過程について。当初は幕権維持のため生まれたこのスローガンは、有力大藩の権力拡大に利用され、やがて討幕の旗印となる。その背景には、外国貿易の利益をめぐる幕府と諸大名との対立、物価高騰による国内経済の混乱など、様々な問題があった。
「新撰組」
*『歴史科学』1934(S9)年9月号、『黒船前後』大畑書店/1933
(詳しくは後述する↓)
「蓮月焼」
*不明、『微視の史学』
歌人・太田垣蓮月尼の陶器は、その人気のため当時から贋作が多かった。ある時からニセモノつくりの陶工たちが作陶し、本人が歌を書くという分業方式となった。これを注文によらない大量生産的商品生産の先駆であった、とする一考察。
「志士と経済」(原題「雲浜その他」)
*『歴史科学』1934(S9)年10月号、『黒船前後』清和書店
梅田雲浜が、政治だけでなく経済にもすぐれた手腕を発揮した志士であったこと。政治と経済とは相容れぬものではない。著名な志士の伝記は多数あるが、その活動の社会的経済的根底の問題にまで言及したものは少ない、と分析する。
「福沢諭吉」(原題「福沢諭吉前史」)
*『歴史科学』1934(S9)年12月号、『黒船前後』清和書店
福沢諭吉の内面について、著作や慶應義塾の創始などといった多くの業績に関連して述べる。
「Moods cashey」
*書き下ろし、『Moods cashey』真善美社/1947
開国後、来日した外国人たちが日本人との会話のため編み出したヨコハマ・ジャパニーズなる実用言語について。(※例えれば「ありがとう」をalligatorとするようなもの)。表題のMoods casheyはdifficultを意味する言葉で、当時の会話集に載っていたという。
「武鑑譜」
*『文藝春秋』1947(S22)年7月号、『Moods cashey』真善美社/1947
江戸期に発行された武鑑(幕府役人や諸大名を網羅した紳士録)は、明治以降「藩銘録」「官員録」として続いた。それらを繙くと様々なことがわかる。
「明治の五十銭銀貨」
*『社会労働研究』1954(S29)年1月創刊号、『服部之総全集 第12巻』福村出版/1974
幕末明治の通貨制度について。日本の金銀比価が改定された経緯と、それをめぐる対英・対米関係。さらに、日本の鉄道が狭軌を採用することになった理由。
「黒田清隆の方針」
*『歴史家』1954(S29)年5月号、『服部之総全集 第12巻』福村出版/1974
アラバマ号事件を端緒とする米英間の緊張関係が、明治初年の日本の外交政策に及ぼした影響を探る。
「加波山」
*『総合文化』1947(S22)年1月号、『Moods cashey』真善美社/1947
茨城県へ講演のため出かけた著者が、その地に伝説を残した親鸞と、自由民権運動家の河野広中に思いを馳せ、地元の郷士が歴史の中で果たしてきた役割を考察する。
「望郷 北海道初行脚」(原題「さいはての地を往く 北海道初行脚」)
*『改造』1952(S27)年12月号、『微視の史学』
北海道へ講演旅行に行った著者が、札幌・茶志内・小樽・余市・函館などを訪れた印象を語るとともに、開拓の歴史を経済、外交、自由民権運動といった様々な側面から述べる。
↑「新撰組」について、ここで説明しておく。
内容は「一 清河八郎」「二 肥後守容保」「三 芹沢鴨」「四 近藤勇」「五 続」の5章に分かれている。
「清河八郎」 …彼はブルジョアの出であったにもかかわらず、尊攘活動を封建的支配層に直結させる路線を採ったことで、図らずも実現の客観的地盤を喪失させてしまった。
「肥後守容保」 …京都守護職に任ぜられた松平容保は、公武一和による尊皇攘夷を目指したものの、過渡期の折衷案たるそれを一途に貫徹しようとして矛盾に苦しんだ。
「芹沢鴨」 …文久3年3月の発足から9月までの新撰組(壬生浪士組)は、仕事らしい仕事をしていない。肥後守の内命によって芹沢一派を排除した後、ようやく信頼される配下となった。
「近藤勇」 …近藤の道場・試衛館は、武州多摩郡の農村支配層の上に築かれていた。この層は初期資本家の源であると同時に封建制根底者(=農民)でもあり、幕末の非常時に彼らが果たした役割を見る上で、試衛館一派の歴史は重要である。
「続」 …近藤らは、自らを尊皇攘夷実現のための集団と主張したものの、攘夷の前提となる公武一和を守るため、市中警備に携わることとなっていった。
表面的な出来事だけを追うなら、特に目新しい部分はない。
しかし著者は、維新史の中で新撰組はどのように位置づけられる存在か、ということを論じている。それを読み取ろうとしないかぎり、この1編に込められた意図はつかみにくいだろう。
試衛館一党の浪士組加盟には、彼らの後援者たる多摩の豪農層の、何らかの意思が作用していたのでは、と当方は以前から考えてきた。この「新撰組」には、それに通じるものがあると感じた次第である。
ちなみに、末尾にある一文「試みに読者、然るべき幕末史観に照しつつ、材料詳細をきわめた二つの新撰組記録、子母澤寛氏『新撰組始末記』、平尾道雄氏『新撰組史』、いずれも昭和三年版について考案したまえ」が印象に残った。
本書全体として、歴史に関する単純な雑感に留まらず、社会学的研究に基づく一種の哲学に貫かれている。
維新については、どうやら以下の定義が根幹となっているらしい。
◯維新は市民革命であり、原動力となったのは社会の中間層(※具体例としては郷士や豪農か)
◯幕末維新期の日本経済は、本来的マニュファクチュア時代である
一般読者向けに書かれた文章であり、学術論文ほど難解な言葉遣いや言い回しはされていない。
それでも、著者の真意を読み取るにはそれなりの集中力を要する。
各論的には現在の幕末史観から見て古びた部分もあるだろうが、全体としてはこれからも検討すべき多くの問題を提示していると感じる。
特に、幕末維新の日本を考える時、国内の政治的な対立関係にばかり目が向いてしまいがちだ。
しかし、当時の国際情勢の中で日本が置かれた状況と、内外の経済的問題とを考えることによって、初めて見えてくるものがある。本書はそれを示してくれる貴重な1冊。
とは言え、誰もがそこまで深く考えることを要求されるわけでもない。単純に好奇心を満たし、物知り気分を味わうために読んでもよいと思う。
本書『黒船前後・志士と経済 他十六篇』は、1981年、岩波文庫(青)として刊行された。
巻末に奈良本辰也による詳しい解説が載っている。あるいは、この解説から先に読んだほうが理解しやすい。
本書収録の各編は、青空文庫にて公開され、また電子書籍も各種出ている。
ただし、解説は付いていないようなので留意されたい。
『黒船前後』を表題作とする服部の著書は、複数の出版社から何度か刊行され、バージョンによって収録作品が異なる。「新撰組」が入っていないものもあるので要注意。
「新撰組」は、服部の単著以外では、アンソロジー『新選組読本』(司馬遼太郎ほか著/日本ペンクラブ編/光文社文庫/2003)にも収録されている。

幕末から明治の諸相を、社会学的な見地から考察した18編を収録。うち1編が「新撰組」である。
著者・服部之総(はっとりしそう)は、1901(明治34)年、島根県に生まれた。
父親が浄土真宗本願寺派の寺の住職であったので、跡取りとなることを期待されていたが、東京帝国大学文学部社会学科に進み、社会主義への関心を深める。
卒業後は、東京帝国大学文学部社会学科の副手、東洋大学教授、中央公論社の初代出版部長、プロレタリヤ科学研究所所員、花王石鹸取締役、鎌倉アカデミア学監、法政大学社会学部教授などを歴任。
1956(昭和31)年に亡くなるまで、学術論文のほかエッセイも多数残した。
本書には、複数のエッセイ集から選ばれた18編が収録されている。
各編は以下のとおり。(*は初出誌と最初の収録本)
「黒船前後」(原題「黎明期の船史」)
*『中央公論』1932(S7)年9月号、『黒船前後』大畑書店/1933
木造船から鉄造船へ、帆船から汽船への移り変わりを、主に国際経済の見地から述べる。
「せいばい」
*不明 『微視の史学』理論社/1953
徳川時代の死刑の種類と、会津藩にだけ許された裁量権について述べる。
「黒船来航」
*『新しい世界』1953(S28)年7月号、『服部之総全集 第22巻』福村出版/1975
日本を開国へ導く役割を、列強国の中でもアメリカが担うことになった経緯について、解き明かす。
「汽船が太平洋を横断するまで」
*『中央公論』1931(S6)年11月号、『黒船前後』大畑書店/1933
汽船による太平洋横断の歴史には、船舶や航海技術の発達のみならず、経済的問題が大きく影響していた。
米カリフォルニアのゴールドラッシュ、日米和親条約と通商条約、南北戦争、中国の茶貿易などさまざまな要素との関連から考察する。
「咸臨丸その他」
*不明、『黒船前後』大畑書店/1933
汽船による太平洋横断の歴史。その黎明期、日本の咸臨丸が単独横断を成し遂げた。
「撥陵遠征隊」
*不明、『黒船前後』大畑書店/1933
朝鮮の「攘夷」の歴史、すなわち欧米列強の干渉を退けた経緯。主に1868年、国王の陵墓が無断で発掘されたために起きた武力衝突の記録について述べる。
「空罎」
*『法律春秋』1931(S6)年5月号、『黒船前後』大畑書店/1933
幕末の自由貿易開始の経緯。ゴンチャロフが記録した、日露交渉における川路聖謨の人物像。ウォッカの空き瓶をめぐるエピソード。
「尊攘戦略史」(原題「尊皇攘夷戦略史)
*『中央公論』1931(S6)年7月号、『黒船前後』大畑書店/1933
幕末、尊皇攘夷思想が成立し、変容していった過程について。当初は幕権維持のため生まれたこのスローガンは、有力大藩の権力拡大に利用され、やがて討幕の旗印となる。その背景には、外国貿易の利益をめぐる幕府と諸大名との対立、物価高騰による国内経済の混乱など、様々な問題があった。
「新撰組」
*『歴史科学』1934(S9)年9月号、『黒船前後』大畑書店/1933
(詳しくは後述する↓)
「蓮月焼」
*不明、『微視の史学』
歌人・太田垣蓮月尼の陶器は、その人気のため当時から贋作が多かった。ある時からニセモノつくりの陶工たちが作陶し、本人が歌を書くという分業方式となった。これを注文によらない大量生産的商品生産の先駆であった、とする一考察。
「志士と経済」(原題「雲浜その他」)
*『歴史科学』1934(S9)年10月号、『黒船前後』清和書店
梅田雲浜が、政治だけでなく経済にもすぐれた手腕を発揮した志士であったこと。政治と経済とは相容れぬものではない。著名な志士の伝記は多数あるが、その活動の社会的経済的根底の問題にまで言及したものは少ない、と分析する。
「福沢諭吉」(原題「福沢諭吉前史」)
*『歴史科学』1934(S9)年12月号、『黒船前後』清和書店
福沢諭吉の内面について、著作や慶應義塾の創始などといった多くの業績に関連して述べる。
「Moods cashey」
*書き下ろし、『Moods cashey』真善美社/1947
開国後、来日した外国人たちが日本人との会話のため編み出したヨコハマ・ジャパニーズなる実用言語について。(※例えれば「ありがとう」をalligatorとするようなもの)。表題のMoods casheyはdifficultを意味する言葉で、当時の会話集に載っていたという。
「武鑑譜」
*『文藝春秋』1947(S22)年7月号、『Moods cashey』真善美社/1947
江戸期に発行された武鑑(幕府役人や諸大名を網羅した紳士録)は、明治以降「藩銘録」「官員録」として続いた。それらを繙くと様々なことがわかる。
「明治の五十銭銀貨」
*『社会労働研究』1954(S29)年1月創刊号、『服部之総全集 第12巻』福村出版/1974
幕末明治の通貨制度について。日本の金銀比価が改定された経緯と、それをめぐる対英・対米関係。さらに、日本の鉄道が狭軌を採用することになった理由。
「黒田清隆の方針」
*『歴史家』1954(S29)年5月号、『服部之総全集 第12巻』福村出版/1974
アラバマ号事件を端緒とする米英間の緊張関係が、明治初年の日本の外交政策に及ぼした影響を探る。
「加波山」
*『総合文化』1947(S22)年1月号、『Moods cashey』真善美社/1947
茨城県へ講演のため出かけた著者が、その地に伝説を残した親鸞と、自由民権運動家の河野広中に思いを馳せ、地元の郷士が歴史の中で果たしてきた役割を考察する。
「望郷 北海道初行脚」(原題「さいはての地を往く 北海道初行脚」)
*『改造』1952(S27)年12月号、『微視の史学』
北海道へ講演旅行に行った著者が、札幌・茶志内・小樽・余市・函館などを訪れた印象を語るとともに、開拓の歴史を経済、外交、自由民権運動といった様々な側面から述べる。
↑「新撰組」について、ここで説明しておく。
内容は「一 清河八郎」「二 肥後守容保」「三 芹沢鴨」「四 近藤勇」「五 続」の5章に分かれている。
「清河八郎」 …彼はブルジョアの出であったにもかかわらず、尊攘活動を封建的支配層に直結させる路線を採ったことで、図らずも実現の客観的地盤を喪失させてしまった。
「肥後守容保」 …京都守護職に任ぜられた松平容保は、公武一和による尊皇攘夷を目指したものの、過渡期の折衷案たるそれを一途に貫徹しようとして矛盾に苦しんだ。
「芹沢鴨」 …文久3年3月の発足から9月までの新撰組(壬生浪士組)は、仕事らしい仕事をしていない。肥後守の内命によって芹沢一派を排除した後、ようやく信頼される配下となった。
「近藤勇」 …近藤の道場・試衛館は、武州多摩郡の農村支配層の上に築かれていた。この層は初期資本家の源であると同時に封建制根底者(=農民)でもあり、幕末の非常時に彼らが果たした役割を見る上で、試衛館一派の歴史は重要である。
「続」 …近藤らは、自らを尊皇攘夷実現のための集団と主張したものの、攘夷の前提となる公武一和を守るため、市中警備に携わることとなっていった。
表面的な出来事だけを追うなら、特に目新しい部分はない。
しかし著者は、維新史の中で新撰組はどのように位置づけられる存在か、ということを論じている。それを読み取ろうとしないかぎり、この1編に込められた意図はつかみにくいだろう。
試衛館一党の浪士組加盟には、彼らの後援者たる多摩の豪農層の、何らかの意思が作用していたのでは、と当方は以前から考えてきた。この「新撰組」には、それに通じるものがあると感じた次第である。
ちなみに、末尾にある一文「試みに読者、然るべき幕末史観に照しつつ、材料詳細をきわめた二つの新撰組記録、子母澤寛氏『新撰組始末記』、平尾道雄氏『新撰組史』、いずれも昭和三年版について考案したまえ」が印象に残った。
本書全体として、歴史に関する単純な雑感に留まらず、社会学的研究に基づく一種の哲学に貫かれている。
維新については、どうやら以下の定義が根幹となっているらしい。
◯維新は市民革命であり、原動力となったのは社会の中間層(※具体例としては郷士や豪農か)
◯幕末維新期の日本経済は、本来的マニュファクチュア時代である
一般読者向けに書かれた文章であり、学術論文ほど難解な言葉遣いや言い回しはされていない。
それでも、著者の真意を読み取るにはそれなりの集中力を要する。
各論的には現在の幕末史観から見て古びた部分もあるだろうが、全体としてはこれからも検討すべき多くの問題を提示していると感じる。
特に、幕末維新の日本を考える時、国内の政治的な対立関係にばかり目が向いてしまいがちだ。
しかし、当時の国際情勢の中で日本が置かれた状況と、内外の経済的問題とを考えることによって、初めて見えてくるものがある。本書はそれを示してくれる貴重な1冊。
とは言え、誰もがそこまで深く考えることを要求されるわけでもない。単純に好奇心を満たし、物知り気分を味わうために読んでもよいと思う。
本書『黒船前後・志士と経済 他十六篇』は、1981年、岩波文庫(青)として刊行された。
巻末に奈良本辰也による詳しい解説が載っている。あるいは、この解説から先に読んだほうが理解しやすい。
本書収録の各編は、青空文庫にて公開され、また電子書籍も各種出ている。
ただし、解説は付いていないようなので留意されたい。
『黒船前後』を表題作とする服部の著書は、複数の出版社から何度か刊行され、バージョンによって収録作品が異なる。「新撰組」が入っていないものもあるので要注意。
「新撰組」は、服部の単著以外では、アンソロジー『新選組読本』(司馬遼太郎ほか著/日本ペンクラブ編/光文社文庫/2003)にも収録されている。
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杉浦日向子『大江戸観光』
エッセイ集。雑誌に掲載された作品の中から、江戸文化に関するものを集成した。
杉浦日向子は江戸風俗研究家であり、著作の多くはマンガやエッセイとして発表されている。
かつて江戸風俗研究やら時代考証やらいうものは、学者やごく一部の趣味人のものだった気がする。決してそうではなく、誰もが気軽に楽しめるものと教えてくれたのが、この人の作品である。
デビュー当時、彼女のような若い女性がそういう研究を手がけるのは珍しかった。(本書にも、珍しがられて困惑したり面白がったりした体験が綴られている。)現今ならば「歴女の元祖」とでも言われそうだ。
その碩学ぶりは正統な研究に基づいているが、だからといって決して高尚ぶらず、著作には親しみやすい表現がなされている。テレビ番組のトークでも、おっとりとした物腰で終始微笑みながら、わかりやすく楽しい解説をしていた様子が思い出される。
しかし惜しくも2005年、46歳にて病没。この早世はあまりにも残念だった。
それから9年後の2014年4月、遺作のマンガ『百日紅(さるすべり)』がアニメ映画化されると報じられた(2015年5月公開決定)。
また同年12月、同じくマンガ『合葬』の実写映画化がニュースになった(2015年秋公開予定)。
何故いま相次いで?と不思議に思う一方、嬉しかったのも事実だ。
これをきっかけとして、本書『大江戸観光』に新選組関連の記述があったことを思い出した。
本書の章立ては、以下のとおり。
壱 江戸の楽しみ
弐 浮世絵と時代劇
参 江戸への恋文
四 私の江戸散歩
伍 お江戸珍奇
六 江戸本を読む
七 二十一世紀の風景
それぞれの章に、数編から20余編のエッセイが編まれている。
初出掲載誌は『第三文明』『歴史読本』『就職ジャーナル』『ザ・テレビジョン』『芸術新潮』『演劇界』『小説春秋』『月刊カドカワ』『ポップティーン』『JUNE』等々、幅広い。
「伍 お江戸珍奇」のうち「美形列伝」上・中・下の3編は、歴史上のイケメンについて述べる。
それぞれに名前が挙がっているのは以下の人物(全員を美形と認めているわけではない)。
「美形列伝(上)」
日本武尊 大津皇子 草壁皇子
在原業平 源義経 天草四郎 細川忠興 小早川秀秋 豊臣秀頼
木村重成 長曾我部元親 山本主殿 山田三十郎 不破万作 森蘭丸
「美形列伝(中)」
芳沢あやめ(初代) 生島新五郎 水木辰之助(初世) 佐野川市松 瀬川菊之丞(二世)
沢村田之助(初世・三世) 市川団十郎(八世)
「美形列伝(下)」
土方歳三 沖田総司 伊庭八郎 春日左衛門 山岡鉄太郎
上記のとおり、新撰組では土方歳三と沖田総司が取り上げられている。
ただし、それほど詳しく言及されているわけでない。執筆当時、彼らはすでにイケメンとして人気者だったためだろう、ごくあっさりと触れるのみだ。
土方歳三については、
美形と言えば美形なんでしょうが、ミシンのセールスマンに見えないこともありません。ソフトな風貌に冷徹な性格、このギャップが魅力なのだと思います。
――と述べているが、この「ミシンのセールスマン」という表現がわからない。作者はギャグマンガにも造詣が深かったようだが、よもや藤子不二雄「黒ィせぇるすまん(笑ゥせぇるすまん)」とは関係あるまい。どうやら作者にとっては「ソフトな風貌」の象徴みたいなものらしい、と察せられるのみだ(笑)
沖田総司については、
肺病の青白い美剣士は、いくら暗示をかけても想像できなくて、どうしても、小麦色の、ほお骨の張った、目のちっこい、人の良さそうな朴とつな青年が咳込んでいる場面が目に浮かんでしまいます。
――と、佐藤彦五郎家の伝承や「八木為三郎老人壬生ばなし」(子母澤寛『新選組遺聞』所収)に基づいたイメージを語っている。作者にとっては、イケメンよりもむしろこのほうが好ましく思えるという。
一方で、「青白い美剣士」総司の熱烈なファンから非難されるのを恐れて「コワイんですよね、新撰組周辺というのは」「石を投げないでください」とも言い添えているのが可笑しい。
作者は、土方歳三や沖田総司ほどには知られていない人物の紹介に力を入れたかった様子。
美男・強勇を「幕軍にこの人あり」と知られた遊撃隊隊長・伊庭八郎と、「容貌美麗にして尤も強気あり」と評された彰義隊頭並・春日左衛門について詳述している。
余談ながら、「参 江戸への恋文」には「〈創作〉北斎とお栄」が収録されている。
文化14年(1817)初夏の、浮世絵師・葛飾北斎と三女お栄の暮らしの1コマを切り取った、叙景的な掌編である。
1986年6月、タウン誌『うえの』(上野のれん会発行)に発表されたもの。当時、「百日紅」を『漫画サンデー』に連載中だったことに関連して書いたのだろう。
マンガの世界が、作者によって散文の形で表現されているのは興味深い。
ちなみに、「百日紅」は葛飾北斎、お栄(葛飾応為)、居候の池田善次郎(溪斎英泉)の3人を主軸に展開する長編マンガ。
タイトルは、江戸時代の俳人・加賀千代女の「散れば咲き散れば咲きして百日紅」から採ったらしい。
一話読み切りの連作形式で、主人公たちの日常生活のほか、彼らを取り巻く人々の人情譚、オカルティックな怪異譚など、様々な出来事が描かれている。
どこか子母澤寛『幕末奇談』を思わせる、時代の空気のようなものが伝わってくる作品である。
葛飾北斎は、一見すると新撰組とはまったく関係なさそうに思える。
しかし、北斎が活躍した文化文政期は、新撰組隊士らの祖父母世代が青春を過ごし、親世代が生まれ育った時期である。隊士たちにも、化政期の影響が何らかの形で伝わっているのではないだろうか。「百日紅」もそういう感覚を持って読むと、また別の面白さを味わえる気がする。
「百日紅」は、アニメ化して面白そうな作品とは思う。ただし、単純に動画の面白さだけを狙った映画にはなって欲しくない。杉浦日向子の原作がある以上、時代考証にもしっかり力を入れた仕上がりであることを願う。
そしてこれを機会に、杉浦日向子の遺した仕事の数々が、再び注目されることを期待している。
本書『大江戸観光』は、1989年、筑摩書房より単行本が刊行された。
また1994年、単行本の内容に「お江戸珍奇」3編を追加し、ちくま文庫版が出版された。
マンガ「百日紅」は、以下のとおり刊行されている。
『百日紅』全3巻 実業之日本社 マンサンコミックス 1986-1987
『百日紅 上・下(杉浦日向子全集 第3巻・第4巻)』 筑摩書房 1995
『百日紅』上・下 ちくま文庫 1996



杉浦日向子は江戸風俗研究家であり、著作の多くはマンガやエッセイとして発表されている。
かつて江戸風俗研究やら時代考証やらいうものは、学者やごく一部の趣味人のものだった気がする。決してそうではなく、誰もが気軽に楽しめるものと教えてくれたのが、この人の作品である。
デビュー当時、彼女のような若い女性がそういう研究を手がけるのは珍しかった。(本書にも、珍しがられて困惑したり面白がったりした体験が綴られている。)現今ならば「歴女の元祖」とでも言われそうだ。
その碩学ぶりは正統な研究に基づいているが、だからといって決して高尚ぶらず、著作には親しみやすい表現がなされている。テレビ番組のトークでも、おっとりとした物腰で終始微笑みながら、わかりやすく楽しい解説をしていた様子が思い出される。
しかし惜しくも2005年、46歳にて病没。この早世はあまりにも残念だった。
それから9年後の2014年4月、遺作のマンガ『百日紅(さるすべり)』がアニメ映画化されると報じられた(2015年5月公開決定)。
また同年12月、同じくマンガ『合葬』の実写映画化がニュースになった(2015年秋公開予定)。
何故いま相次いで?と不思議に思う一方、嬉しかったのも事実だ。
これをきっかけとして、本書『大江戸観光』に新選組関連の記述があったことを思い出した。
本書の章立ては、以下のとおり。
壱 江戸の楽しみ
弐 浮世絵と時代劇
参 江戸への恋文
四 私の江戸散歩
伍 お江戸珍奇
六 江戸本を読む
七 二十一世紀の風景
それぞれの章に、数編から20余編のエッセイが編まれている。
初出掲載誌は『第三文明』『歴史読本』『就職ジャーナル』『ザ・テレビジョン』『芸術新潮』『演劇界』『小説春秋』『月刊カドカワ』『ポップティーン』『JUNE』等々、幅広い。
「伍 お江戸珍奇」のうち「美形列伝」上・中・下の3編は、歴史上のイケメンについて述べる。
それぞれに名前が挙がっているのは以下の人物(全員を美形と認めているわけではない)。
「美形列伝(上)」
日本武尊 大津皇子 草壁皇子
在原業平 源義経 天草四郎 細川忠興 小早川秀秋 豊臣秀頼
木村重成 長曾我部元親 山本主殿 山田三十郎 不破万作 森蘭丸
「美形列伝(中)」
芳沢あやめ(初代) 生島新五郎 水木辰之助(初世) 佐野川市松 瀬川菊之丞(二世)
沢村田之助(初世・三世) 市川団十郎(八世)
「美形列伝(下)」
土方歳三 沖田総司 伊庭八郎 春日左衛門 山岡鉄太郎
上記のとおり、新撰組では土方歳三と沖田総司が取り上げられている。
ただし、それほど詳しく言及されているわけでない。執筆当時、彼らはすでにイケメンとして人気者だったためだろう、ごくあっさりと触れるのみだ。
土方歳三については、
美形と言えば美形なんでしょうが、ミシンのセールスマンに見えないこともありません。ソフトな風貌に冷徹な性格、このギャップが魅力なのだと思います。
――と述べているが、この「ミシンのセールスマン」という表現がわからない。作者はギャグマンガにも造詣が深かったようだが、よもや藤子不二雄「黒ィせぇるすまん(笑ゥせぇるすまん)」とは関係あるまい。どうやら作者にとっては「ソフトな風貌」の象徴みたいなものらしい、と察せられるのみだ(笑)
沖田総司については、
肺病の青白い美剣士は、いくら暗示をかけても想像できなくて、どうしても、小麦色の、ほお骨の張った、目のちっこい、人の良さそうな朴とつな青年が咳込んでいる場面が目に浮かんでしまいます。
――と、佐藤彦五郎家の伝承や「八木為三郎老人壬生ばなし」(子母澤寛『新選組遺聞』所収)に基づいたイメージを語っている。作者にとっては、イケメンよりもむしろこのほうが好ましく思えるという。
一方で、「青白い美剣士」総司の熱烈なファンから非難されるのを恐れて「コワイんですよね、新撰組周辺というのは」「石を投げないでください」とも言い添えているのが可笑しい。
作者は、土方歳三や沖田総司ほどには知られていない人物の紹介に力を入れたかった様子。
美男・強勇を「幕軍にこの人あり」と知られた遊撃隊隊長・伊庭八郎と、「容貌美麗にして尤も強気あり」と評された彰義隊頭並・春日左衛門について詳述している。
余談ながら、「参 江戸への恋文」には「〈創作〉北斎とお栄」が収録されている。
文化14年(1817)初夏の、浮世絵師・葛飾北斎と三女お栄の暮らしの1コマを切り取った、叙景的な掌編である。
1986年6月、タウン誌『うえの』(上野のれん会発行)に発表されたもの。当時、「百日紅」を『漫画サンデー』に連載中だったことに関連して書いたのだろう。
マンガの世界が、作者によって散文の形で表現されているのは興味深い。
ちなみに、「百日紅」は葛飾北斎、お栄(葛飾応為)、居候の池田善次郎(溪斎英泉)の3人を主軸に展開する長編マンガ。
タイトルは、江戸時代の俳人・加賀千代女の「散れば咲き散れば咲きして百日紅」から採ったらしい。
一話読み切りの連作形式で、主人公たちの日常生活のほか、彼らを取り巻く人々の人情譚、オカルティックな怪異譚など、様々な出来事が描かれている。
どこか子母澤寛『幕末奇談』を思わせる、時代の空気のようなものが伝わってくる作品である。
葛飾北斎は、一見すると新撰組とはまったく関係なさそうに思える。
しかし、北斎が活躍した文化文政期は、新撰組隊士らの祖父母世代が青春を過ごし、親世代が生まれ育った時期である。隊士たちにも、化政期の影響が何らかの形で伝わっているのではないだろうか。「百日紅」もそういう感覚を持って読むと、また別の面白さを味わえる気がする。
「百日紅」は、アニメ化して面白そうな作品とは思う。ただし、単純に動画の面白さだけを狙った映画にはなって欲しくない。杉浦日向子の原作がある以上、時代考証にもしっかり力を入れた仕上がりであることを願う。
そしてこれを機会に、杉浦日向子の遺した仕事の数々が、再び注目されることを期待している。
本書『大江戸観光』は、1989年、筑摩書房より単行本が刊行された。
また1994年、単行本の内容に「お江戸珍奇」3編を追加し、ちくま文庫版が出版された。
マンガ「百日紅」は、以下のとおり刊行されている。
『百日紅』全3巻 実業之日本社 マンサンコミックス 1986-1987
『百日紅 上・下(杉浦日向子全集 第3巻・第4巻)』 筑摩書房 1995
『百日紅』上・下 ちくま文庫 1996
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子母澤寛『幕末奇談』
エッセイ集。「幕末研究」「露宿洞雑筆」の2部で構成されている。
「幕末研究」
史伝ふう随筆。談話を速記したような文体で書かれている。
もとは「幕末物研究」のタイトルで、昭和8~13年(1933-38)、文藝春秋社刊『新文芸思想講座』(全10巻)に6回にわたり連載された。内容は下記の全28章。
序説/人物と事件/事変と人物/新撰組大活躍/池田屋事変/近藤勇
官軍東征/彰義隊の会合/官軍と彰義隊の衝突/上野の戦争
大政奉還/建白書草稿/坂本、後藤の奔走/廉前会議/岩倉具視の二策
幕末対外事件/生麦事件/殺害顛末/英国の要求/薩英問題
長藩外船砲撃/井上伊藤の奔走/長藩の苦境/高杉と井上
御前評議/和睦の失敗/和議の紛争/和議の成立
前回「池田屋襲撃」を紹介した後、子母澤寛による菊池寛への影響が気になって、いろいろと考えていた。そして、本書のページをめくるうち、以下の一節を発見した。
近藤勇といえば、芝居、映画、小説では、なんといっても幕末の寵児ですが、あつかわれている近藤勇は、大抵暴力団の団長以外に出ていないようですな。よくいって、まあ剣術が出来る。腕よりは度胸がよくって、技術以上に真剣勝負の時は強かった。というくらいのところで、それより好意をもって、旗本八万騎の意気地のなかったのに、身は三多摩の百姓でありながら、幕府のために身をつくしたというぐらいが、贔屓な観方ですが、ただこれだけで近藤勇というものを見るんじゃ近藤勇が気の毒じゃないですかな。(「事変と人物」)
前回引用した菊池寛の近藤勇評と比べてみると、明らかに似ている。
この「事変と人物」の発表は、おそらく連載1回目の昭和8年(1933)。掲載誌『新文芸思想講座』の出版元が文藝春秋社なのだから、菊池寛も当然目を通したろう。
そして、菊池寛「池田屋襲撃」の発表は、昭和12年(1937)。
つまり、子母澤が菊池に影響を及ぼしたことは実際にあったと考えてよさそうだ。「池田屋襲撃」を読んで抱いた印象は、的外れではなかったのだと納得できた。
念のため断っておくが、菊池が子母澤をパクったなどと言うつもりは毛頭ない。
上記引用のほかには、こうまで類似性を感じさせる表現はないからだ。
また、全体の構成が異なるのは、章立てや項目を比較するだけでも一目瞭然だろう。
かつ、歴史を語る姿勢も違う。菊池が旧幕側と新政府側を公平に扱っているのに対して、子母澤は不当に貶められてきた旧幕側の名誉回復に力を入れている。
特に、新撰組と近藤勇を弁護する文言は「序説」「近藤勇」の項にもあり、愛と熱意を感じさせる。
ただ、子母澤も、無闇やたらに旧幕側を賛美しているわけではない。たとえば、下関戦争の戦後処理では幕府の腐敗ぶりを指摘している。
さらに、新政府側についても、武力倒幕回避のための努力があったことなどを挙げている。
結局、子母澤が主張するのは「官軍が正しく賊軍は悪い」という旧来の先入的解釈が間違いということであって、事実を曲げてまで旧幕側の肩を持ちたいわけでは決してない。
本作中、池田屋事件の経緯説明は、昭和3年(1928)出版『新選組始末記』の当該箇所とよく似ている。ただ、表現が微妙に変わっていたり、史料引用があったりなかったりの違いはあり、比較してみるのも面白い。
また些細なことだが、三部作では「新選組」と表記した子母澤が、本作では「新撰組」を用いている。
新撰組関連のほかには、坂下門外の変と安藤信正、上野戦争と彰義隊の天野八郎について述べた部分も、興味深く読めた。
本作は前述のとおり『新文芸思想講座』に連載されたためであろう、歴史を小説化することについての提言が繰り返されている。たとえば――
――といった具合だ。
これらを、「歴史を作り話のネタにしろ」という意味に読むべきではないと思う。
他人の史観を鵜呑みにせず自分なりに調べることで、事実の中にドラマを見出せる、あるいは新しい価値観が拓ける、という趣旨と捉えたいところだ。
これは、小説など文芸の世界に限ったことではないのではなかろうか。
研究分野において、定説が覆されて新説が次々登場してくるのも、既成概念にとらわれることなく歴史に取り組む人達の努力に拠るのだと思う。
「露宿洞雑筆」
江戸期から明治にかけての歴史物・回顧物の随筆集。
作者が折々に書いた掌編の集成であり、昭和9年(1934)、岡倉書房から単行本として刊行された。
内容は、有名な剣客や大名の人物像・逸話、侠客や妓夫(妓楼で働く男)の世界、忠臣蔵・四谷怪談・番町皿屋敷の裏話、幽霊や妖怪などの怪異・因縁譚など幅広い。全30編、各タイトルは以下のとおり。
小金井小次郎の臨終/十四歳の介錯人/桜下に人を斬る/名君/小便
旅人/小笠原壱岐守/妓夫仁義/戸ヶ崎熊太郎/大石進とちんばの孝吉
近藤周助邦武/あたけ丸事件/皿屋舗弁疑録/権助、女中、行水/のっぺらぼう
小平次因果噺/小豆ばかり屋敷/貞女お岩/池田候分家/甲斐屋敷の血糊餅
武兵衛家出/宇治の間/女中自害/武林唯七と蝦/頻霞荘雑記
古老ばなし/新徴組雑記/佐久間象山の倅/南窓閑話/逃げる旗本の記
このうち、新選組に関連があるものは下記の5編。
「十四歳の介錯人」 沖田総司の甥・芳次郎の話。『剣客物語』所収「おじ様お手が」と同じ題材。
「戸ヶ崎熊太郎」 神道無念流初代の事蹟と逸話。二代、三代についても言及あり。
「近藤周助邦武」 近藤勇の養父、天然理心流三代目・近藤周助の人物像と生涯。
「新徴組雑記」 江戸へ帰還した浪士組が新徴組となった後の、さまざまな逸話。
「佐久間象山の倅」 三浦啓之助の入隊と脱走。『新選組遺聞』収録「象山の倅」とほぼ同じ内容。
また、佐倉藩士・依田学海や心形刀流剣客・伊庭八郎が登場する「南窓閑話」、徳川海軍士官・山田静五郎と美嘉保丸の座礁を描く「逃げる旗本の記」も、興味深く読めた。
「露宿洞雑筆」の多くは、往時を知る古老から聞いた回顧談が元になっている。また、「幕末研究」にも同じような聞き書きが散見される。
聞き書きには、話し手や聞き手の錯誤あるいは創作が混ざっている可能性もあり、必ずしも正確な史実を反映しているとは限らない。
しかしそれでも、往時を知る手がかりとしては貴重である。すべてを事実と受け止めるのは危ないけれども、傍証を固められさえすれば、研究に活かすことも充分可能と考える。
本書の最初は、作者没後の昭和47年(1972)、別々に書かれた「幕末研究」「露宿洞雑筆」を桃源社が一冊にまとめ『幕末奇談』と題し刊行したものである。書名は、作者の侠客ものを集成した『游侠奇談』と対にする意図で、同社が銘打ったという。
また、同社の編集により「露宿洞雑筆」の中の「刺青」「竹居の吃安」2編が『游侠奇談』に移され、代わりに『幕末奇談』には他の随筆から「南窓閑話」「逃げる旗本の記」が追加された。
昭和47年(1972)の単行本の後、昭和51年(1976)に同じ桃源社から判型がやや小さいもの(新書サイズか)が出版された。
昭和56年(1981)、旺文社文庫版が刊行。
平成元年(1989)、文春文庫版が刊行。
平成26年(2014)、中公文庫版が刊行された。
ちなみに「刺青」「竹居の吃安」を収録した『游侠奇談』は、2012年にちくま文庫版が出ている。


「幕末研究」
史伝ふう随筆。談話を速記したような文体で書かれている。
もとは「幕末物研究」のタイトルで、昭和8~13年(1933-38)、文藝春秋社刊『新文芸思想講座』(全10巻)に6回にわたり連載された。内容は下記の全28章。
序説/人物と事件/事変と人物/新撰組大活躍/池田屋事変/近藤勇
官軍東征/彰義隊の会合/官軍と彰義隊の衝突/上野の戦争
大政奉還/建白書草稿/坂本、後藤の奔走/廉前会議/岩倉具視の二策
幕末対外事件/生麦事件/殺害顛末/英国の要求/薩英問題
長藩外船砲撃/井上伊藤の奔走/長藩の苦境/高杉と井上
御前評議/和睦の失敗/和議の紛争/和議の成立
前回「池田屋襲撃」を紹介した後、子母澤寛による菊池寛への影響が気になって、いろいろと考えていた。そして、本書のページをめくるうち、以下の一節を発見した。
近藤勇といえば、芝居、映画、小説では、なんといっても幕末の寵児ですが、あつかわれている近藤勇は、大抵暴力団の団長以外に出ていないようですな。よくいって、まあ剣術が出来る。腕よりは度胸がよくって、技術以上に真剣勝負の時は強かった。というくらいのところで、それより好意をもって、旗本八万騎の意気地のなかったのに、身は三多摩の百姓でありながら、幕府のために身をつくしたというぐらいが、贔屓な観方ですが、ただこれだけで近藤勇というものを見るんじゃ近藤勇が気の毒じゃないですかな。(「事変と人物」)
前回引用した菊池寛の近藤勇評と比べてみると、明らかに似ている。
この「事変と人物」の発表は、おそらく連載1回目の昭和8年(1933)。掲載誌『新文芸思想講座』の出版元が文藝春秋社なのだから、菊池寛も当然目を通したろう。
そして、菊池寛「池田屋襲撃」の発表は、昭和12年(1937)。
つまり、子母澤が菊池に影響を及ぼしたことは実際にあったと考えてよさそうだ。「池田屋襲撃」を読んで抱いた印象は、的外れではなかったのだと納得できた。
念のため断っておくが、菊池が子母澤をパクったなどと言うつもりは毛頭ない。
上記引用のほかには、こうまで類似性を感じさせる表現はないからだ。
また、全体の構成が異なるのは、章立てや項目を比較するだけでも一目瞭然だろう。
かつ、歴史を語る姿勢も違う。菊池が旧幕側と新政府側を公平に扱っているのに対して、子母澤は不当に貶められてきた旧幕側の名誉回復に力を入れている。
特に、新撰組と近藤勇を弁護する文言は「序説」「近藤勇」の項にもあり、愛と熱意を感じさせる。
ただ、子母澤も、無闇やたらに旧幕側を賛美しているわけではない。たとえば、下関戦争の戦後処理では幕府の腐敗ぶりを指摘している。
さらに、新政府側についても、武力倒幕回避のための努力があったことなどを挙げている。
結局、子母澤が主張するのは「官軍が正しく賊軍は悪い」という旧来の先入的解釈が間違いということであって、事実を曲げてまで旧幕側の肩を持ちたいわけでは決してない。
本作中、池田屋事件の経緯説明は、昭和3年(1928)出版『新選組始末記』の当該箇所とよく似ている。ただ、表現が微妙に変わっていたり、史料引用があったりなかったりの違いはあり、比較してみるのも面白い。
また些細なことだが、三部作では「新選組」と表記した子母澤が、本作では「新撰組」を用いている。
新撰組関連のほかには、坂下門外の変と安藤信正、上野戦争と彰義隊の天野八郎について述べた部分も、興味深く読めた。
本作は前述のとおり『新文芸思想講座』に連載されたためであろう、歴史を小説化することについての提言が繰り返されている。たとえば――
- 安藤対馬守の一生は、立派な小説であると申上げましたが、この近藤勇の一生も私は立派な小説であると見ています。(「近藤勇」)
- 長門守ばかりでなく、この頃の人物が活躍したいろんな事件が小説に随分なるんじゃないかと思います。(「長藩の苦境」)
- こうした歴史から、いろんな大衆小説が生まれて来ないんでしょうか。この下関戦争なんか、よく調べてみますといい大衆小説が生まれてもいいと思っております。(「和議の成立」)
――といった具合だ。
これらを、「歴史を作り話のネタにしろ」という意味に読むべきではないと思う。
他人の史観を鵜呑みにせず自分なりに調べることで、事実の中にドラマを見出せる、あるいは新しい価値観が拓ける、という趣旨と捉えたいところだ。
これは、小説など文芸の世界に限ったことではないのではなかろうか。
研究分野において、定説が覆されて新説が次々登場してくるのも、既成概念にとらわれることなく歴史に取り組む人達の努力に拠るのだと思う。
「露宿洞雑筆」
江戸期から明治にかけての歴史物・回顧物の随筆集。
作者が折々に書いた掌編の集成であり、昭和9年(1934)、岡倉書房から単行本として刊行された。
内容は、有名な剣客や大名の人物像・逸話、侠客や妓夫(妓楼で働く男)の世界、忠臣蔵・四谷怪談・番町皿屋敷の裏話、幽霊や妖怪などの怪異・因縁譚など幅広い。全30編、各タイトルは以下のとおり。
小金井小次郎の臨終/十四歳の介錯人/桜下に人を斬る/名君/小便
旅人/小笠原壱岐守/妓夫仁義/戸ヶ崎熊太郎/大石進とちんばの孝吉
近藤周助邦武/あたけ丸事件/皿屋舗弁疑録/権助、女中、行水/のっぺらぼう
小平次因果噺/小豆ばかり屋敷/貞女お岩/池田候分家/甲斐屋敷の血糊餅
武兵衛家出/宇治の間/女中自害/武林唯七と蝦/頻霞荘雑記
古老ばなし/新徴組雑記/佐久間象山の倅/南窓閑話/逃げる旗本の記
このうち、新選組に関連があるものは下記の5編。
「十四歳の介錯人」 沖田総司の甥・芳次郎の話。『剣客物語』所収「おじ様お手が」と同じ題材。
「戸ヶ崎熊太郎」 神道無念流初代の事蹟と逸話。二代、三代についても言及あり。
「近藤周助邦武」 近藤勇の養父、天然理心流三代目・近藤周助の人物像と生涯。
「新徴組雑記」 江戸へ帰還した浪士組が新徴組となった後の、さまざまな逸話。
「佐久間象山の倅」 三浦啓之助の入隊と脱走。『新選組遺聞』収録「象山の倅」とほぼ同じ内容。
また、佐倉藩士・依田学海や心形刀流剣客・伊庭八郎が登場する「南窓閑話」、徳川海軍士官・山田静五郎と美嘉保丸の座礁を描く「逃げる旗本の記」も、興味深く読めた。
「露宿洞雑筆」の多くは、往時を知る古老から聞いた回顧談が元になっている。また、「幕末研究」にも同じような聞き書きが散見される。
聞き書きには、話し手や聞き手の錯誤あるいは創作が混ざっている可能性もあり、必ずしも正確な史実を反映しているとは限らない。
しかしそれでも、往時を知る手がかりとしては貴重である。すべてを事実と受け止めるのは危ないけれども、傍証を固められさえすれば、研究に活かすことも充分可能と考える。
本書の最初は、作者没後の昭和47年(1972)、別々に書かれた「幕末研究」「露宿洞雑筆」を桃源社が一冊にまとめ『幕末奇談』と題し刊行したものである。書名は、作者の侠客ものを集成した『游侠奇談』と対にする意図で、同社が銘打ったという。
また、同社の編集により「露宿洞雑筆」の中の「刺青」「竹居の吃安」2編が『游侠奇談』に移され、代わりに『幕末奇談』には他の随筆から「南窓閑話」「逃げる旗本の記」が追加された。
昭和47年(1972)の単行本の後、昭和51年(1976)に同じ桃源社から判型がやや小さいもの(新書サイズか)が出版された。
昭和56年(1981)、旺文社文庫版が刊行。
平成元年(1989)、文春文庫版が刊行。
平成26年(2014)、中公文庫版が刊行された。
ちなみに「刺青」「竹居の吃安」を収録した『游侠奇談』は、2012年にちくま文庫版が出ている。
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菊池寛「池田屋襲撃」
史伝もしくは歴史エッセイ。「大衆維新史読本」シリーズ中の1編。
「新撰組結成」「近藤勇」「池田屋斬込み」「血河の乱闘」「殉難の諸士」「近藤勇の最後」の6節から成る。
菊池寛の作品を読んだことがない人でも、名前は知っているだろう。
小説家、劇作家、ジャーナリストであり、『文藝春秋』を創刊、日本文芸家協会を設立、芥川賞と直木賞の設立にも関わり、競馬・麻雀の愛好家としても知られる。
代表作は「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」「真珠夫人」ほか多数。
歴史を題材とした小説も発表している。ただし新撰組を描いたものはない――と思っていた。
池田屋事件について調べていた時、たまたま本作が目についた。
菊池寛作品に新撰組ものがあると、初めて知った。
ただし小説や戯曲ではなく、史伝というか歴史エッセイのようなものだ。
(※高松市菊池寛記念館の全集では「随想集」でなく「史伝」の巻に収録されているが、味わいとしてはエッセイに近いと感じるので、本項ではエッセイとして扱うことにした。)
作者がどのような史観を持っているのか寡聞にして知らなかったが、発表されたのが昭和12年(1937)ということもあり、新撰組は「幕府の走狗となり維新の大業を妨げた賊軍」などと評されているのだろうか?と思いつつ読んでみた。
ところが、そんな予想はまったく外れた。
作者は、新撰組側と長州系志士側との両面から、公平な分析を試みている。
新撰組では近藤勇が郷党に宛てた報告を基に、また長州側では乃美織江の手記を基に、池田屋事件の経過を追っている。
また、近藤勇の人物評価に、特に多くの字数を費やしている。曰く、
近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせいぜいである。
しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽くしてゐないし、彼の為にも気の毒である。
これに続けて、近藤が同時代人らに智勇兼備の人物と高く評価されていたこと、公武合体と尊王攘夷を強く望む志があったことを、具体例を挙げて解説。さらに、以下のように結んでいる。
真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
つまり、新撰組を「賊軍」扱いするどころか、むしろそのように決めつけてきた明治政府主導の「御用歴史」を皮肉っているのだ。
昭和後期にさえ「御用歴史」支持の作家や作品が珍しくなかったのだから(どうかすると平成の今でも支持的な見解を見かける)、発表当時にはかなり先駆的だったろうと感じる。
関係あるかどうかわからないが、第10回・菊池寛賞(昭和37年=1962)を子母澤寛が受賞している。
「『父子鷹』を中心とした業績」が理由だという。
ひょっとして菊池寛も子母澤の『新選組始末記』(昭和3年)など三部作を読んで、新撰組の雪冤にかける意気込みに共感したのだろうか。
そして、その共感が本作にも表れているのだろうか――などと想像してしまった。
(※関連記事、子母澤寛『幕末奇談』に詳述。)
「大衆維新史読本」シリーズは、本作を含めて以下の全23編が発表されている。
黒船来!
安政大獄
桜田事変
寺田屋事件前後
天誅組義挙
生野義挙
池田屋襲撃 (←本作)
水戸天狗党転戦記
元治甲子 禁門の変
高杉晋作の活躍
薩長連合と坂本龍馬
大政奉還
皇政復古の大号令
伏見鳥羽の戦
五箇条の御誓文
江戸城明渡し
維新に躍る英仏の勢力
上野の戦争
北越戦争と河井継之助
会津鶴ヶ城の悲劇
東京奠都
箱館戦争
廃藩置県まで
本作以外では、「伏見鳥羽の戦」「箱館戦争」にも新撰組に関する言及がある。
「伏見鳥羽の戦」では、以下のくだりが少々気になった。
新撰組など、伏見の奉行所の門前で戦ったが、一たまりもなく敗れて、近藤の養子、周平外十七名がやられている。
谷周平(近藤周平、谷昌武とも)が伏見で戦死した事実はなく、亡くなったのは明治34年である。
しかし、この頃は戦死説が流布していたのだろう。直木三十五も、「近藤勇と科学」に周平戦死を描いている。
また、「箱館戦争」において新撰組は土方歳三の名前が数回出てくるくらいなのだが、旧幕脱走軍や榎本武揚に対して同情的な記述が多く、印象に残る。たとえば――
上野に戦ひ、越後に転戦し、更に会津に力闘し、然も大きな時代の波に攘(さら)はれて、今この北海の孤島に打上げられた彼等将士の落莫たる心中は何(ど)んなであつたらうか。
酷烈、骨に徹する冬の蝦夷地とは云へ、彼等にとっては、全く最後の希望の灯だつたのだ。総てに裏切られ、総てに捨てられた、時の敗残者達は、こゝで力強く団結し、この最後の灯を華やかに燃やさうとするのだ。
――というくだりなど、妙にロマンチックで抒情たっぷりである。
「大衆維新史読本」全般にわたり、旧仮名遣いで表記され、史実に関して古い通説を含む。
けれども、幕末維新史の見方としては古くさい感じがせず、「なるほど」と教わる面もある。
旧幕府と新政府、どちらか一方の味方をするわけでなく、双方をバランスよく扱っているのも良い。
また、掌編の集合なので読みやすい。
本作の初出は、文藝春秋刊『オール讀物』昭和12年(1937)8月号。収録書は下記のとおり。
『大衆維新史読本』 上・下巻 モダン日本社 昭和14年(1939)
『大衆維新史読本』 上・下巻 新太陽社 昭和16年(1941)
『菊池寛全集 第19巻 史伝四』 高松市菊池寛記念館 平成7年(1995)
現在、本作「池田屋襲撃」は、青空文庫で読むことができる。
また、honto、Kindleなどの電子書籍版もあり、価格0円で販売されている。
作者の没後50年を経て著作権保護期間が終了し、こうしたことが可能となった。
ちなみに、青空文庫には菊池寛作品が他にも多数収録されている。
その中で「日本合戦譚」シリーズの1編「鳥羽伏見の戦」が目についた。
本項で紹介した「大衆維新史読本」シリーズの「伏見鳥羽の戦」と題材は同じだが、さらに短い掌編であり、内容も微妙に異なる。
新撰組についての言及ももちろんある。
青空文庫にて公開されている「大衆維新史読本」シリーズは、現在のところ本作「池田屋襲撃」のみ。
なお、「薩長連合と坂本龍馬」「大政奉還」が作業中であるという。
ゆくゆくは全編が公開されて欲しいところだ。

池田屋事件について、さらに新しく専門的な研究書を読みたい向きには、こちらがオススメ↓
『新選組・池田屋事件顛末記』 冨成博 新人物往来社
『池田屋事件の研究』 中村武生 講談社現代新書
「新撰組結成」「近藤勇」「池田屋斬込み」「血河の乱闘」「殉難の諸士」「近藤勇の最後」の6節から成る。
菊池寛の作品を読んだことがない人でも、名前は知っているだろう。
小説家、劇作家、ジャーナリストであり、『文藝春秋』を創刊、日本文芸家協会を設立、芥川賞と直木賞の設立にも関わり、競馬・麻雀の愛好家としても知られる。
代表作は「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」「真珠夫人」ほか多数。
歴史を題材とした小説も発表している。ただし新撰組を描いたものはない――と思っていた。
池田屋事件について調べていた時、たまたま本作が目についた。
菊池寛作品に新撰組ものがあると、初めて知った。
ただし小説や戯曲ではなく、史伝というか歴史エッセイのようなものだ。
(※高松市菊池寛記念館の全集では「随想集」でなく「史伝」の巻に収録されているが、味わいとしてはエッセイに近いと感じるので、本項ではエッセイとして扱うことにした。)
作者がどのような史観を持っているのか寡聞にして知らなかったが、発表されたのが昭和12年(1937)ということもあり、新撰組は「幕府の走狗となり維新の大業を妨げた賊軍」などと評されているのだろうか?と思いつつ読んでみた。
ところが、そんな予想はまったく外れた。
作者は、新撰組側と長州系志士側との両面から、公平な分析を試みている。
新撰組では近藤勇が郷党に宛てた報告を基に、また長州側では乃美織江の手記を基に、池田屋事件の経過を追っている。
また、近藤勇の人物評価に、特に多くの字数を費やしている。曰く、
近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせいぜいである。
しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽くしてゐないし、彼の為にも気の毒である。
これに続けて、近藤が同時代人らに智勇兼備の人物と高く評価されていたこと、公武合体と尊王攘夷を強く望む志があったことを、具体例を挙げて解説。さらに、以下のように結んでいる。
真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
つまり、新撰組を「賊軍」扱いするどころか、むしろそのように決めつけてきた明治政府主導の「御用歴史」を皮肉っているのだ。
昭和後期にさえ「御用歴史」支持の作家や作品が珍しくなかったのだから(どうかすると平成の今でも支持的な見解を見かける)、発表当時にはかなり先駆的だったろうと感じる。
関係あるかどうかわからないが、第10回・菊池寛賞(昭和37年=1962)を子母澤寛が受賞している。
「『父子鷹』を中心とした業績」が理由だという。
ひょっとして菊池寛も子母澤の『新選組始末記』(昭和3年)など三部作を読んで、新撰組の雪冤にかける意気込みに共感したのだろうか。
そして、その共感が本作にも表れているのだろうか――などと想像してしまった。
(※関連記事、子母澤寛『幕末奇談』に詳述。)
「大衆維新史読本」シリーズは、本作を含めて以下の全23編が発表されている。
黒船来!
安政大獄
桜田事変
寺田屋事件前後
天誅組義挙
生野義挙
池田屋襲撃 (←本作)
水戸天狗党転戦記
元治甲子 禁門の変
高杉晋作の活躍
薩長連合と坂本龍馬
大政奉還
皇政復古の大号令
伏見鳥羽の戦
五箇条の御誓文
江戸城明渡し
維新に躍る英仏の勢力
上野の戦争
北越戦争と河井継之助
会津鶴ヶ城の悲劇
東京奠都
箱館戦争
廃藩置県まで
本作以外では、「伏見鳥羽の戦」「箱館戦争」にも新撰組に関する言及がある。
「伏見鳥羽の戦」では、以下のくだりが少々気になった。
新撰組など、伏見の奉行所の門前で戦ったが、一たまりもなく敗れて、近藤の養子、周平外十七名がやられている。
谷周平(近藤周平、谷昌武とも)が伏見で戦死した事実はなく、亡くなったのは明治34年である。
しかし、この頃は戦死説が流布していたのだろう。直木三十五も、「近藤勇と科学」に周平戦死を描いている。
また、「箱館戦争」において新撰組は土方歳三の名前が数回出てくるくらいなのだが、旧幕脱走軍や榎本武揚に対して同情的な記述が多く、印象に残る。たとえば――
上野に戦ひ、越後に転戦し、更に会津に力闘し、然も大きな時代の波に攘(さら)はれて、今この北海の孤島に打上げられた彼等将士の落莫たる心中は何(ど)んなであつたらうか。
酷烈、骨に徹する冬の蝦夷地とは云へ、彼等にとっては、全く最後の希望の灯だつたのだ。総てに裏切られ、総てに捨てられた、時の敗残者達は、こゝで力強く団結し、この最後の灯を華やかに燃やさうとするのだ。
――というくだりなど、妙にロマンチックで抒情たっぷりである。
「大衆維新史読本」全般にわたり、旧仮名遣いで表記され、史実に関して古い通説を含む。
けれども、幕末維新史の見方としては古くさい感じがせず、「なるほど」と教わる面もある。
旧幕府と新政府、どちらか一方の味方をするわけでなく、双方をバランスよく扱っているのも良い。
また、掌編の集合なので読みやすい。
本作の初出は、文藝春秋刊『オール讀物』昭和12年(1937)8月号。収録書は下記のとおり。
『大衆維新史読本』 上・下巻 モダン日本社 昭和14年(1939)
『大衆維新史読本』 上・下巻 新太陽社 昭和16年(1941)
『菊池寛全集 第19巻 史伝四』 高松市菊池寛記念館 平成7年(1995)
現在、本作「池田屋襲撃」は、青空文庫で読むことができる。
また、honto、Kindleなどの電子書籍版もあり、価格0円で販売されている。
作者の没後50年を経て著作権保護期間が終了し、こうしたことが可能となった。
ちなみに、青空文庫には菊池寛作品が他にも多数収録されている。
その中で「日本合戦譚」シリーズの1編「鳥羽伏見の戦」が目についた。
本項で紹介した「大衆維新史読本」シリーズの「伏見鳥羽の戦」と題材は同じだが、さらに短い掌編であり、内容も微妙に異なる。
新撰組についての言及ももちろんある。
青空文庫にて公開されている「大衆維新史読本」シリーズは、現在のところ本作「池田屋襲撃」のみ。
なお、「薩長連合と坂本龍馬」「大政奉還」が作業中であるという。
ゆくゆくは全編が公開されて欲しいところだ。

池田屋事件について、さらに新しく専門的な研究書を読みたい向きには、こちらがオススメ↓
『新選組・池田屋事件顛末記』 冨成博 新人物往来社
『池田屋事件の研究』 中村武生 講談社現代新書