新選組の本を読む ~誠の栞~

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 山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』 

副題『「伊庭八郎征西日記」を読む』。
文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。

伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。

この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。

本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。

第一章 将軍とともに上洛      元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個    元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ        元治元年(1864)5月
第五章 お役御免          元治元年(1864)6月

それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。

日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。

『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。

またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。

余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。

それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。

例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。

八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。

勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。

細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?

ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。

本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。

【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。

【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。

いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。

この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。

本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。

幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書)
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 青木直巳『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 

幕末の江戸における食文化の解説書、一般向けの教養書。
紀州藩士・酒井伴四郎の日記から、当時の下級武士の日常生活を読み取る。
史料の解題・解説書でもあるが、原文引用は少なめで、平易な内容となっている。

予めお断りするが、本書に新選組は登場しない。
しかしながら、彼らの日常生活の一端を知る参考として役立つので、取り上げることにした。

日記を残した酒井伴四郎は、新選組と同時代に実在した、紀州和歌山藩の藩士である。
現存する日記は、限られた期間のみであるものの、多くの貴重な情報が読み取れる。
史料から窺える伴四郎の経歴は、おおよそ以下のとおり。

◆万延元年(1860)… 伴四郎28歳。江戸勤番を命じられ、妻子を残して単身赴任。5月11日に和歌山を出発、大坂や伏見を経由、中山道をたどる。同月29日に江戸着、赤坂紀国坂にある中屋敷の長屋に入る。
◆文久元年(1861)… 江戸勤番を終える。12月3日に出立、同月18日に帰国。
◆元治2年(1865)… 再び江戸へ。2月22日に和歌山発、24日に京都着、3泊する。3月11日に江戸着。4月11~21日は日光へ出張。5月28日、帰国の途に着く。
◆慶応2年(1866)… 第二次長州戦争に従軍することに。5月27日に出発、9日に広島の本陣へ到着。6月25日、長州との戦闘に参加。9月2日の停戦協定成立により、同月4日に引き上げ、10日に帰国。
◆慶応4年(1868)… 4月、京都へ出張する。4月2日に和歌山発。4日に京都着、水落町(京都市上京区)の堺屋に宿泊。16日、帰還を命じられる。
※以後の消息については、史料が現存せず(もしくは未発見のため)不明。

上記の経歴には、新選組の面々と時期的・地理的に重なる部分がある。
伴四郎が江戸に在勤した頃、近藤勇は江戸の道場(試衛館、試衛場)に住まった。沖田総司や山南敬助など門人、永倉新八や原田左之助など食客たちも、そこに集っていたろう。
中山道の旅は、例えば文久3年(1863)、浪士組が京都へ上る際に彼らも体験している。
また、長州戦争に新選組は従軍しなかったが、近藤勇らが長州潜入を試みて広島から岩国の新湊へ赴いたり、山崎丞と吉村貫一郎が周辺で情勢を探索したり、という事実は史料から窺える。
さらに、伴四郎が京都へ行ったのは、新選組が同地を引き払ったわずか数ヶ月後だった。
つまり、新選組の面々も、伴四郎と同じような景色を見て同じようなものを食べた、と推測可能である。

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本書の内容は、下記のとおり。
(※増補版の目次を参考とした。文字色を変えた章や項目は、増補版にのみ掲載されている。)
第一章 江戸への旅立ち
    江戸と勤番侍/食のクロスロード/勤番侍の江戸生活マニュアル/江戸の酒/
    江戸へ出立/雲助の昼飯/道中の名物
第二章 藩邸と江戸の日々
    江戸最初の外食 そば/江戸の飲料水/手土産の菓子折/伴四郎、政変を知る
    伴四郎と叔父様のお仕事/冬支度と名物おてつ牡丹餅/勤番侍と出入り商人/勤番侍の病気
第三章 男子厨房に入る――江戸の食材と料理
    夏にはどじょう/御鷹の鳩/ずいきと長屋のお付き合い/初出勤とご飯のお供桜味噌
    酒の肴にはまぐりを/ぼらの潮煮/風邪を理由に豚鍋/おやつのさつま芋/かしわとすいとん/
    お土産にうなぎ/倹約家の食材 豆腐/料理自慢と五目ずし/自炊の基本 飯炊き/炊事当番
    飯炊きの東西/料理道具をそろえる
第四章 叔父様と伴四郎
    叔父様の食い意地/人参の煮物/伴四郎のやりくり
第五章 江戸の楽しみ
    三味線の稽古/長屋の酒盛り/鮨/大名見物/愛宕山から江戸を見る/江戸見物と名物/
    浅草のおばけと穴子の甘煮/吉原のおいらん道中と両国/清涼飲料/寄席・芝居・虎見物/
    伴四郎のおしゃれと菊見物/家庭料理/庭園都市江戸/江戸異人見物/横浜異人見物/
    銭湯は庶民の娯楽場
第六章 江戸の季節
    和菓子の儀式「嘉定」/七夕のそうめん/季節の味覚 梨/月見団子/食の節目/
    精進落しのさけ/酉の市と雁鍋/寒入りの餅と酒盛
第七章 江戸との別れ
    送別会の日々/伴四郎大変/和歌山へ
終章  伴四郎のその後
    竹の子でご挨拶/伴四郎日光へ行く/節句のおもてなし/はまち料理とやけ呑み/
    第二次長州戦争への出陣/明治直前の京都へ行く

コラム 江戸の味・調味料
    下り物と酒
    陰暦と太陽暦
    勤番侍の燃料事情

食生活を中心とした伴四郎の暮らしぶりや、その背景となった世相・文化などが解説されている。
◆日々の食事… 費用節約のため自炊中心。「男子厨房に入らず」などという、つまらないこだわりはない様子。煮売り屋の総菜を買うこともある。時には外食を楽しんだり、酒食の接待を受けたり。旅の途中や外出先では、その土地の名物を味わっている。
◆藩邸長屋での生活… 食材・飲料水・燃料の確保、衣類の調達、銭湯通い、金銭のやりくり、同僚や出入り商人とのつきあい、余暇を利用した習い事、芝居・見世物・名所の見物。市中や横浜で外国人を見かけた体験もある。
◆勤務の様子… 伴四郎の役職は衣紋方。朝から晩まで長時間の勤務に及ぶ日もあるが、どちらかというと出勤しない日のほうが多い模様。名所見物に出かけたり、昼から飲酒したりするのも、結局は暇だから。
◆周囲の人々との関係… 例えば、宇治田平三は伴四郎にとって叔父・上司・長屋の同居人であるが、彼との生活はかなり気詰まりの様子。せっかく作り置きした総菜をいつのまにか叔父に食べられてしまい、憤慨・落胆する心理も窺える。こうした人間関係は、昔も今も変わらない。
◆当時の世相… 武家社会あるいは庶民の季節行事、風俗や流行、物価。江戸と京坂との習俗のちがい。

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普通に読んでも面白いが、新選組の面々も似たような生活をしていたのでは、と想像しながら読むとなお楽しい。
とりわけ心に残った要素が、いくつかある。例えば――

原田左之助は、伊予松山を出奔する前、藩の命令により江戸に在勤した。
安政2年、16歳の頃からおよそ2年間、三田の松山藩中屋敷にて若党を務めたという。
伴四郎とは藩の違いや身分の違いがあるものの、勤番生活には共通点もあったと推測される。

慶応4年4月、伴四郎は京都へ出張した。
3~4日の短い滞在ながら、京都観光を楽しんでいる。
訪れた場所は、北野天満宮、平野神社、金閣寺、祇園社、知恩院など多数。
その中に、黒谷の金戒光明寺がある。ほんの数ヶ月前まで会津藩が本陣を置いていた場所であり、惜しいニアミスと思った。
また、誓願寺も拝観した様子。幕末期の住職・孫空義天が近藤勇と親しく、近藤の首級埋葬にも関わったという説がある。ただし、真偽のほどは定かでない。

当時、土産や記念の品として猪口(酒器)が好まれた、という話が出てくる。
陶磁器は、地域によるバリエーションが豊かであり、見栄えもそこそこ良い。
中でも、茶碗や皿に比べ小ぶりで邪魔にならない、猪口が適していたのだろう。
ちなみに、「土方歳三の京土産」と称する茶碗のセットが、佐藤彦五郎家に伝わっている。
「景徳鎮の茶器」だそうで、白地に紅色の花が描かれ、美麗なデザインである。
サイズは、大きめの猪口というか、ぐい呑みに近い。
この手の陶磁器が土産に好適とされたことの、ひとつの証左と思える。

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本書の元となったのは、2000年4月から2003年3月、NHK出版『男の食彩』(のち『食彩浪漫』)に連載された「幕末単身赴任 下級武士の食生活」である。これに大幅な加筆・訂正を行い、書籍化された。
2005年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記』と題し、日本放送出版協会より生活人新書として刊行。
2016年、『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』が、ちくま文庫として刊行。
旧版との違いは、おおよそ以下のとおり。
  • 後から発見・出版された史資料を交えて、新しい章や項目を追加(上記)。
  • 「はじめに」後半の【文庫版によせて】、巻末の「文庫版あとがき」を追加。
  • いくつかの項目名は、若干ながら語句を変更されている。
  • 旧版の誤りを訂正した箇所がある(※著者説明による)。

土山しげるのマンガ「勤番グルメ ブシメシ!」にも触れておく。
原作・酒井伴四郎、協力・青木直巳として、月刊『コミック乱』に連載される短編。
開始当初のタイトルは「幕末単身赴任 ブシメシ!」だったが、途中で解題された。
日記に記された酒井伴四郎の生活を、そのまま淡々とマンガ化しており、視覚的にわかりやすい。
リイド社より単行本(SPコミックス)が第2巻まで刊行されている。

ちなみに、青木直巳のエッセイ「食乱図会」も、同じく『コミック乱』に連載されている。
江戸の旬な食材を毎回ひとつ取り上げ、歴史的に解説しており、勉強になる。

テレビドラマ「幕末グルメ ブシメシ!」は、マンガ版を原作として制作された。
ストーリーはかなり脚色され、独自の展開を見せる。
フィクションの要素が強くなったためであろう、主人公の名前は酒井伴四郎でなく「酒田伴四郎」、所属は紀州藩でなく架空の「高野藩(こうやはん)」など、設定がずいぶん変更されている。
第1シーズンは、2017年1~2月、NHK BSプレミアムにて全8回放送。同年6~7月、NHK総合にて全6回に編集・放送された。
第2シーズンは、2018年1~2月、同じくNHK BSプレミアムにて全7回が放送された。

幕末単身赴任
下級武士の食日記
増補版 (ちくま文庫)
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勤番グルメ ブシメシ!
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勤番グルメ ブシメシ!
おかわり
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 太田俊穂『血の維新史の影に』 

史話集。副題『明治百年のため』。
南部盛岡藩士の子孫てある著者が見聞した、維新史にまつわる話の数々。

先日、書店でムック本『文藝春秋でしか読めない幕末維新』を見かけた。
明治150年を控えた企画ものの臨時増刊。本誌『文藝春秋』に創刊以来(1923~)掲載された幕末維新関連の記事の中から選りすぐったものを再録している。(※一部、別冊誌からの再録や書き下ろしもある。)
>> 文藝春秋 公式サイト『文藝春秋でしか読めない幕末維新』

面白そうな記事が多い中で、特に巻末のコラム「生きていた新選組」に目を引かれた。
初出は『文藝春秋』1964年11号。
執筆者の太田俊穂が、奥田松五郎という老人との交流について、思い出を書き記した内容。
この奥田老は、新選組について詳しく知っており、周囲から「新選組の生き残り」と噂されていた。

執筆者・太田俊穂は、1910年(明治42)、岩手県盛岡市生まれ。毎日新聞記者、岩手日報編集局長、岩手放送社長・会長などを歴任する一方、郷土史家として多くの著作を遺す。1988年(昭和63)に世を去った。

太田が奥田老を見かけたのは、自身が小学生の時、大正6~7年頃であったとか。
その後、新聞記者となってから親しい交際か始まり、自宅を訪問しては話を聞いた。
奥田老が狭心症のため亡くなったのは、1931年(昭和6)11月。墓碑には行年82とあるが、本当の年齢はわからずじまい。生前に太田が質問しても、口を濁して答えなかったという。

現今、奥田松五郎の経歴はそこそこ明らかになっている。
1854年(嘉永7)、幕臣・奥田萬吉の長男として江戸に生まれた。
父の萬吉が福野流柔術の達人であったため、松五郎も幼少期から柔術をはじめ武道を学ぶ。
やがて柔術家として活躍、1884年(明治17)に「奥田流柔術」を興した。
1893年(明治26)、岩手県知事・服部一三の招きで同県に移住。警察署や中学校などで指導にあたる。
1931年(昭和6)11月29日、78歳で死去。

嘉永7年=安政元年生まれということは、新選組隊士・市村鉄之助と同年齢である。
「生きていた新選組」によると、奥田老は沖田総司や藤堂平助を友達扱いしていたそうだが、実際は10歳ほど差があるわけで、同輩ではありえない。
奥田老の話は他にも、坂本龍馬暗殺を新選組の犯行とするなど、不可解な点があったという。
おそらく彼自身は新選組隊士ではなかった。ただ、誰か旧隊士と知り合って話を聞き、ある程度の内情を知る機会があったのではなかろうか。

奥田松五郎が新選組隊士ではなかったとしても、その証言は面白い。
彼について太田俊穂がさらに詳しく書いたものがあったはず、と押し入れを探したら本書が出てきた。
以前どこかの古書店で入手したもので、函はすでに失われ本体のみだった。
内容は、以下の15章から成っている。

序章・万亀女覚え書
万亀(まき)は、太田俊穂の母方祖母。1853年(嘉永6)、盛岡藩士・毛馬内家に生まれ、1926年(大正15)に他界した。「平民宰相」原敬とは幼なじみ。万亀の祖父が天狗党鎮圧に出征したこともあった。
太田はこの祖母に可愛がられ、彼女から幕末維新期や明治期のことを多く聞いたという。

黒髪と血と懐剣
万亀の叔母・由亀(ゆき)は、かなりの美人だったが、戊辰戦争で婚約者を亡くし、1年後に自害した。
遠縁の家には、歌子という美女がいた。戊辰戦争直後、新政府軍の肥前出身の隊長に力ずくで迫られた結果、心を病んでしまい、やはり自害したという。

夕映えの武士たち
戊辰の年、藩論がまとまらず揉める盛岡藩の様子と、万亀が目撃した藩士らの斬り合い。
万亀の祖父、大叔父、父といった親族の人となりと、戊辰戦争時の動向。

桜田門外の変に
若き盛岡藩士・福田金八が、井伊直弼暗殺計画に関わり、謎の自刃を遂げた一件。
その後輩・竹林由太郎(万亀の義兄)は、福田の関与を知っていたものの、問われても明かさなかった。
また、桜田門外の変後、庶民の間で流行った戯れ歌、戯れ句のこと。

最後の戊辰戦争
盛岡藩の戊辰戦争。秋田藩との戦いの様子を、生き残り藩士が生々しく証言している。
白兵戦において戸田一心流の剣を振るい、勇名を馳せた竹林由太郎の奮戦ぶり。

白萩の庭
竹林由太郎の屋敷の庭には、秋になると白い萩の花が見事に咲き誇った。
その屋敷に妻を残して出陣した由太郎は、激戦の中で行方知れずとなる。
ところが、3ヶ月後に舞い戻り、無法を働いた官兵3人を斬って、妻に「箱館へ渡って戦う」と別れを告げ去ったという。

老残の鐘楼守り
盛岡城址の鐘楼に独り住まう、鐘守りの老人・釜沢功一郎。著者の太田が、釜沢から聞いた思い出話。
若き日、盛岡藩士として江戸に詰めていた時、薩摩の無法な「不逞浪士」たちに無我夢中で立ち向かう。
国元へ戻り、秋田藩との戦い、敗戦を経て、明治期には県会議員を務めもした。

家老絶命記
盛岡藩の主席家老であった楢山佐渡の生涯。
京都で天下の情勢を目の当たりにしていた彼が、徹底抗戦と秋田藩攻撃を決断した理由は何だったか。
敗戦後、「反逆の首謀者」とされ、刎首(形式的には切腹)に処される。

介錯人無惨
楢山佐渡の介錯をした江釣子源吉は、弱冠23歳でありながら、戸田一心流の遣い手であった。
上司への敬意と労りから介錯役を願い出たものの、その体験に深く心を痛める。

原敬「賊名」を雪ぐ
大正6年9月8日、盛岡で戊辰戦争殉難者50年祭が開催された。場所は、楢山佐渡が亡くなった報恩寺。
当時の政友会総裁・原敬が事実上の祭主となり、南部家当主・利淳(旧盛岡藩主の次男)に続き、祭文を奉読。
祭文は簡潔ながら、戊辰戦争は政見の相違から起きた争いであり、我々はただ戦いに敗れたに過ぎず、「賊名」をこうむる理由はない、とした。「悲劇と恥辱の歴史に対する決別の宣言」であった。

三人の天狗党
元治元年3月、筑波山に挙兵した天狗党の中に、3人の盛岡脱藩士がいた。
蛇口安太郎は討死し、山田一郎と佐藤継助は捕えられ処刑されたという。
蛇口や山田の人柄を知る万亀は、当時12歳。彼らがそのような挙に加わったとは信じられなかった、と語る。

筑波山の青春像
山田一郎が、盛岡を脱藩し天狗党の参画者となるまでの経緯。
仙台藩の重臣・遠藤文七郎や、出羽の志士・清河八郎とも交流があった。清河の横浜襲撃計画に協力するも頓挫し、筑波挙兵に加わる。豪商を襲い軍資金を要求した所業が、悪名となって後々までつきまとう。

挫折と刑場への道
前章に続いて、山田一郎の天狗党への加盟と分裂。
軍資金横領の嫌疑をかけられ、佐藤継助とともに江戸町奉行所へ自訴。盛岡藩へ引き渡され、斬首に処された。
また、蛇口安太郎は那珂湊の激戦で戦死する。
3人とも20代であった。

新選組の残映
新選組の生き残りと噂された奥田松五郎のこと。
「生きていた新選組」と共通の部分もあるが、より詳述されている。
盛岡出身の新選組隊士・吉村貫一郎にも触れている。

雨に消えた彰義隊
前章に続いて、奥田松五郎のこと。やはり「生きていた新選組」と共通の部分がある。
奥田は、慶応4年の江戸帰還後、新選組を出て彰義隊に合流したと語る。上野の激戦に臨んだ体験談は、そこそこリアリティを感じさせる。
また、盛岡で過ごした晩年について、地元の祭礼でテキ屋と喧嘩になったことなど。

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半世紀前に出版された本であり、歴史研究として読めば、当然ながら古いところもある。
しかし、幕末から明治を生きた人々の体験・見聞が生々しく伝わってきて、感興を誘われる。
著者の盛岡への郷土愛は深い。
奥羽を覆った戊辰の戦火、奥羽諸藩の受けた「賊名」について、改めて考えさせられた。

本書は1965年、大和書房から刊行された。四六判、ハードカバー、函入り。
それから3年後の1968年が、ちょうど「明治100年」であった。


文藝春秋でしか
読めない幕末維新
(文春MOOK
明治150年)
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 新人物往来社編『近藤勇のすべて』 

研究本。近藤勇という人物について、生涯の様々な面を取り上げ考察する論考集。
全26編(1ページイラスト記事3点を含む)を、18人の執筆者がそれぞれ担当している。
収録内容は以下のとおり。

「近藤勇が生きた時代」 童門冬二
「異説・勇の少年時代」 林栄太郎
「近藤勇と宮川家」 宮川豊治
「試衛館はどこにあったのか」 菊地明
「山川さんが私の家の地主さんです」 林栄太郎
「天然理心流と近藤勇」 小島政孝
「新選組結成」 伊東成郎
「近藤勇の剣」 吉田光一
「近藤勇と松平容保」 宮崎十三八
「内部粛清された人々」 古賀茂作
「池田屋事変」 山村竜也
「龍馬暗殺の夜の近藤勇」 永岡清治
「新選組屯所を発見するの記」 石田孝喜
「甲州勝沼戦争」 今川徳三
「筆跡からみた近藤勇の性格」 森岡恒舟
「流山の朝――捕縛までの日々」 菊地明
「近藤勇の妻・おつね」 赤間倭子
「近藤勇の首級はどこに」 小島政孝
「近藤勇関係人名事典」 清水隆
「近藤勇史跡事典」 野田雅子
「近藤勇略年譜」 菊地明
「宮川家系図」 宮川豊治
「近藤勇関係文献目録」 清水隆
イラスト記事「同時代人が語る近藤勇」「幕末の女たち」「映像の中野近藤勇」 今川美玖

新人物往来社の『◯◯のすべて』シリーズは、1冊で◯◯を概ね把握できる、重宝な教養書。
テーマ(◯◯)は多彩ながら、やはり戦国と幕末維新の関連が最も多かった、と記憶している。
幕末維新の◯◯は、『徳川慶喜』『松平春嶽』『松平容保』『松平定敬』『山内容堂』『島津斉彬』『阿部正弘』『天璋院篤姫』『小栗忠順』『勝海舟』『河井継之助』『楢山佐渡』『ジョン万次郎』『伊庭八郎』『横井小楠』『吉田松陰』『由利公正』『坂本龍馬』『桐野利秋』『会津戦争』『会津白虎隊』『箱館戦争』など。
新選組の◯◯は、『新選組』『土方歳三』『沖田総司』『新選組・永倉新八』『新選組・斎藤一』があり、本書『近藤勇のすべて』もその1冊。

本書を今回取り上げようと思い立ったのは、最近の報道がきっかけである。
「百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持」と産経ニュースが2017年5月14日付けで報じた。
周知のとおり、近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、板橋にて斬首に処された。その首級は京都で梟された後、行方知れずとなり、埋葬地をめぐって複数の説がある。
記事は、会津埋葬説を補完する史料が発見された、という内容。近藤の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に貼付されていたメモに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」云々の文面と「若松市長・松江豊寿」の署名があるのだとか。
この報道を受け、「他の説も改めて検証すべきでは」という意見がネット上に見られた。

そこで、本書収録「近藤勇の首級はどこに」を思い出した次第。
全7ページとコンパクトな論考ではあるが、要点が簡潔にまとまっている。
近藤勇の墓といわれる7箇所とそれぞれの説明が、以下のように記述される。

1.板橋駅前(東京都北区滝野川)
永倉新八らが明治9年に建立。正面に近藤・土方の名を刻んだ大きな墓碑。
近藤の死亡地であり重要ではあるが、墓自体は供養墓とみるべき。

2.龍源寺(東京都三鷹市大沢)
主に近藤勇五郎の談話によると、遺体を板橋から密かに運んで埋葬した。首級は埋葬されていない。

3.天寧寺(福島県会津若松市東山町)
土方歳三が会津に滞在中、松平容保の許可を得て建立した。
近藤の墓としては、最も早期に造られたもの。首級は埋葬されていない。

4.円通寺(東京都荒川区南千住)
三河屋幸三郎が建立した「戦死墓」「死節之墓」がある。
「死節之墓」に、他の旧幕方戦死者と並んで近藤や土方の名もある。当然、供養墓である。

5.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町寺山)
石碑は現存せず。台石のみ、土中に長年埋もれていたものが昭和33年に発見された。
なぜか土方と伝習隊隊士らの名、「慶応三辰年」と誤った年号がある。
法蔵寺に「京都の誓願寺から託された首級を埋葬した」と伝わるも、誓願寺には史料がない。

6.京都市東山山中(未確認)
小島誠之進(鹿之助の四男)が、明治29年、本田退庵に案内されて首級埋葬地を訪ねた。
当時のメモらしき墓石の図と「東大谷之傍、京都黒谷之上ノ山、霊山と申山之中央」の文言が残る。
ただし、現地へ行ってみても発見できない。大雨による土砂崩れなどで埋まってしまったのかも。

7.高国寺(山形県米沢市鍛冶町)
「近藤金太郎が板橋から首級を盗み、荼毘に付し米沢へ埋葬した」と昭和59年、浅沼政直氏が発表。
金太郎家の系図に「近藤周助の妹と茂右衛門との間に金太郎が出生」と記されるも、周助に妹はいない。
首級が京都で梟されたのは事実であり、板橋から盗んだとする点も疑問。

以上は簡単な要約。原文には、もっと説得力がある。
これがもし覆るとしたら、誰もが認めるほど確実な証拠が出てきた時だろう。
研究家諸氏もおそらく近い見解をお持ちで、そのため諸説の再検討に至らないように思われる。

◆少々補足・その壱。
天寧寺の墓には、首級もしくは遺髪が埋められたという伝承がある。ただし確証は未発見。
先日発表された愛刀メモも、今のところ傍証的なものと捉える意見が多い様子。

◆少々補足・その弐。
明治22年、本田退庵と佐藤俊宣(彦五郎の長男)が京都を訪れ、霊山の中腹で首級埋葬地を発見したという。
退庵はこの時の発見によって、小島誠之進を案内したのだろう(上記「6」)。

◆少々補足・その参。
京都での梟首を、佐倉藩士・依田七郎(学海)が閏4月10日に目撃した。
「面色生くるが如く、余とともに談笑せし時を想ひ見る、悵然として之を久しうす」などと書き残している。
1月16日に江戸城で近藤・土方と面談した彼が認めたのだから、近藤の首に間違いないと思われる。

◆少々補足・その四。
梟された後の首級は粟田口(京都)に埋められたというので、探した者があったが発見できなかった…と子母澤寛が『新選組遺聞』の初出時(『サンデー毎日』)に書いている。(※出版時には脚色が加わえられた様子。)

◆少々補足・その五。
首から下の遺体についても、龍源寺埋葬説のほかに、「板橋の処刑場にいったん埋められるも、当日中に新政府軍の命令で寿徳寺境外墓地(現在の板橋駅前)に改葬された」という説がある。
これは、板橋の石山家子孫・石山亀二の証言に基づく。

---
本書には「近藤勇の首級はどこに」のほかにも興味深い論考が多い。
タイトルだけ見て「すでに周知の事柄」と思っても、読むと改めていろいろ気づかされる。
刊行後に研究が進んで少々古くなった部分もあるが、今も利用価値は高いと思う。
近藤勇の研究本自体がそれほど多く出版されていないので、その意味でも手元にあれば重宝する。

1993年、新人物往来社より刊行された。四六判ハードカバー。

近藤勇のすべて


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 伊藤春奈『幕末ハードボイルド』 

研究本。副題『明治維新を支えた志士たちとアウトロー』。
維新という革命に参加した人々の中でも「博徒」「侠客」「遊侠」などと呼ばれる階層に着目し、彼らが歴史の中で果たした役割を解説する。新選組に関連した項目あり。

博徒や侠客と、新選組との間にいかなる関わりがあったのか。
とっさに閃かなくとも、「会津の小鉄」や「水野弥太郎」の名を思い出せたら合点がいくだろう。
彼ら幕末アウトローの実像とその社会的背景について、本書はわかりやすく説明している。

内容は全5章。各章が4~7節に分かれ、さらに各節は数項目に分かれている。
各章の大まかな内容は、以下のとおり。

第一章 幕末――やくざの時代
博徒や侠客が日本社会に誕生した経緯と、その活動が幕末に活発化した事情。
反社会的な存在であるにもかかわらず、民衆にもてはやされた理由。

第二章 「諸隊」の誕生――武士の身代わりとして
幕末、武士以外の階層が政治的発言力を獲得。多くの諸隊が誕生し、そこに博徒・侠客が所属した。
  • 高杉晋作の奇兵隊(長州藩)
  • 大鳥圭介の伝習隊(幕府陸軍)
  • 古屋佐久左衛門の衝鋒隊(幕府陸軍)
  • 細谷十太夫の「からす組」こと衝撃隊(仙台藩)
  • 近藤実左衛門と集義隊(尾張藩)
  • 黒駒勝蔵と赤報隊(草莽、薩摩藩系)

第三章 片肌脱いで武士を助ける
日柳燕石… 高杉晋作など多くの志士を援助。富商、教養人、讃岐博徒の親分でもあった異色人物。
大分の灘亀… 彼の世話になった井上馨が、後年ゆかりの人々を訪問した事情。
水野弥太郎… 高台寺党(御陵衛士)との結びつき。赤報隊に加わった顛末。
新門辰五郎… 勝海舟に協力し、新政府軍の江戸城総攻撃に備え、江戸市中の治安や防災に努める。
口入屋「相政」相模屋政五郎… 土佐藩主・山内容堂と親交を結ぶ。稼業を通じて人足たちを救済した。

第四章 「遺体の埋葬」というタブーを打ち破る
会津の小鉄… 会津藩出入りとなった経緯。鳥羽・伏見に参戦後、会津・桑名藩の戦死者を埋葬した。
清水次郎長… 咸臨丸の幕兵遺体処理。山岡鉄舟との出会い。大親分・安東の文吉よりも有名になった事情。
三河屋幸三郎… 八丈島生まれ、神田育ちの侠商。彰義隊の戦死者を埋葬。『説夢録』の原稿を託される。
柳川熊吉… 大岡助右衛門とともに、箱館戦争後の旧幕戦死者を埋葬、地元の発展に尽くす。榎本武揚との親交。
明石屋万吉(小林佐兵衛)… 大坂の賭場荒らし、米相場潰しで名を上げ、治安や消防にも尽力。毛利家の依頼により、長州藩士の遺骨を回収。

第五章 アウトローの明治維新――破壊から再生へ
幕末から明治初期にかけての混乱期、社会奉仕や貧民救済を行なうアウトローが現われた。
近代化の過程における崩壊と再生の中、「公共」の担い手が不足した時期に、彼らがその役割を果たした。
大前田英五郎、飯岡助五郎、小金井小次郎、清水次郎長、会津の小鉄、小林佐兵衛(明石屋万吉)といった実例を挙げる。

このほかに「コラム」と銘打った別項5編が収録されている。
おおよその内容は、下記のとおり。

講談から時代劇へ
アウトローの活躍を描いた講談が、浪曲、時代小説、映画やドラマなどへ発展。
大衆文化に多大な影響を及ぼしてきた。

浪士組上洛の道中で起きた「抗争」
江戸帰還後の浪士組において、山本仙之助(祐天仙之助)が「父の仇」として大村達尾に討たれた経緯。
士分でなくとも剣術を学び、政治参加を目指す人々が増加した、幕末の実情。

お台場の裏面史に名を残した「台場やくざ」
品川沖に台場の築造を急ぐ工事に際し、多数の人足を調達した「大場の久八」。
そこには、代官・江川太郎左衛門英龍の優れた人材登用術があった。

義侠の僧、地元の戦死者を弔う
国定忠治ゆかりの僧・田村仙岳の生涯。元治元年の下仁田戦争後、高崎藩の戦死者を供養した。
また、明治2年、年貢軽減を求めた農民たちの一揆・五万石騒動では、交渉役として奔走した。

再び戦地へ――近代やくざとメディア戦略
昔ながらの親分衆が現役を退いて以降の、時代の推移とアウトローの変容。
産業(土建・炭鉱)、政治(自由民権運動)、軍事(西南戦争・日清戦争・日露戦争)との関わり。

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一般的に「博徒」「侠客」と聞いてイメージしやすいのは、時代劇の義侠的ヒーロー、もしくはイカサマ博打をしたり匕首を振り回したりするチンピラだろうか。
しかし実際は、そうしたパターンに収まりきれない多様な面を持っている。

そもそも彼らアウトローは、体制からはみ出しながらも、地域共同体の一員であった。
彼らと堅気との間に、黒白はっきりした区別はない。表向き正業を持ちつつ裏世界で活動する者も多く、表裏を巧みに使い分けていたようだ。社会の側も、さまざまな理由からそれを容認していた。
(新選組の面々も、彼らと隣り合わせに生きていた、と言えよう。)
このあたりの事情は、本書を読むとわかりやすいと思う。

博徒や侠客に関して、信頼できる史料は少ない。
反社会的な側面を忌避され、記録に残されず忘れられていくケースが多いのだろう。
ヒーロー扱いの有名人の場合も、記録には脚色が交じり、どこまでが事実かわかりにくい。
いきおい、この分野の研究は困難にならざるをえないが、その中で本書は丹念に調査された労作と感じた。

読者の理解を助ける工夫もされている。
関連年表(文化2年の関東取締出役設置から明治26年の清水次郎長死去まで)と、幕末期の日本地図(旧国名、主要な街道・地名・藩名を記載)が巻頭に載っており、なかなか重宝する。

個々の人物や出来事については、より詳細に記述した類書もあるだろう。
ただ、本書は多くの実例から「幕末アウトロー」の体系化を試みている様子で、その点が優れていると思えた。
頭の中の漠然としたイメージやまとまりのない情報が、本書によってかなり整理された気がする。

本書は、「幕末アウトロー」を徒に美化しておらず、善悪の二元論で断じてもいない。功罪両面を客観的に指摘し、どちらともつかない実像をありのまま提示している。
また、著者の主観に偏らず、多くの史料文献にあたり、歴史的事実を描き出そうとしている。かといって、学術論文のように取っつきにくいわけでなく、読みやすい上、そこはかとない余韻を残す。
バランスの良さを感じた。

余談ながら、会津の小鉄が会津藩や新選組の情報収集、諜報活動に関わっていたとすれば、その実態がいつか解明されて欲しいと思った。
諜報活動が秘密裏に行われる以上、そんな記録はなかなか残らないだろうが。

2016年、原書房より刊行された。四六判ソフトカバー。

※本書に用いられている漢字「俠(イ+夾)」は環境依存文字であるため、本項では「侠」で代用した。

※幕末の博徒・侠客に興味を持たれた向きには、以下もオススメ。
子母澤寛『新選組始末記』… 祐天仙之助の前歴や討たれた経緯を詳述した章がある。
子母澤寛『行きゆきて峠あり』… 榎本武揚の前半生を描く長編小説。柳川熊吉について詳しい。
飯干晃一『会津の小鉄』… 小鉄の生涯を描いた長編小説。新選組の面々も登場。
北方謙三『草莽枯れ行く』… 赤報隊の相楽総三と清水次郎長が主軸の長編小説。黒駒勝蔵や新門辰五郎も登場。
司馬遼太郎『アームストロング砲』… 侠客・鍵屋万助を描く短編「侠客万助珍談」を収録。万助のモデルは明石屋万吉。その後、万吉を主人公とした長編「俄 浪華遊侠伝」も著わされた。

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