菊池寛「池田屋襲撃」
史伝もしくは歴史エッセイ。「大衆維新史読本」シリーズ中の1編。
「新撰組結成」「近藤勇」「池田屋斬込み」「血河の乱闘」「殉難の諸士」「近藤勇の最後」の6節から成る。
菊池寛の作品を読んだことがない人でも、名前は知っているだろう。
小説家、劇作家、ジャーナリストであり、『文藝春秋』を創刊、日本文芸家協会を設立、芥川賞と直木賞の設立にも関わり、競馬・麻雀の愛好家としても知られる。
代表作は「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」「真珠夫人」ほか多数。
歴史を題材とした小説も発表している。ただし新撰組を描いたものはない――と思っていた。
池田屋事件について調べていた時、たまたま本作が目についた。
菊池寛作品に新撰組ものがあると、初めて知った。
ただし小説や戯曲ではなく、史伝というか歴史エッセイのようなものだ。
(※高松市菊池寛記念館の全集では「随想集」でなく「史伝」の巻に収録されているが、味わいとしてはエッセイに近いと感じるので、本項ではエッセイとして扱うことにした。)
作者がどのような史観を持っているのか寡聞にして知らなかったが、発表されたのが昭和12年(1937)ということもあり、新撰組は「幕府の走狗となり維新の大業を妨げた賊軍」などと評されているのだろうか?と思いつつ読んでみた。
ところが、そんな予想はまったく外れた。
作者は、新撰組側と長州系志士側との両面から、公平な分析を試みている。
新撰組では近藤勇が郷党に宛てた報告を基に、また長州側では乃美織江の手記を基に、池田屋事件の経過を追っている。
また、近藤勇の人物評価に、特に多くの字数を費やしている。曰く、
近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせいぜいである。
しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽くしてゐないし、彼の為にも気の毒である。
これに続けて、近藤が同時代人らに智勇兼備の人物と高く評価されていたこと、公武合体と尊王攘夷を強く望む志があったことを、具体例を挙げて解説。さらに、以下のように結んでいる。
真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
つまり、新撰組を「賊軍」扱いするどころか、むしろそのように決めつけてきた明治政府主導の「御用歴史」を皮肉っているのだ。
昭和後期にさえ「御用歴史」支持の作家や作品が珍しくなかったのだから(どうかすると平成の今でも支持的な見解を見かける)、発表当時にはかなり先駆的だったろうと感じる。
関係あるかどうかわからないが、第10回・菊池寛賞(昭和37年=1962)を子母澤寛が受賞している。
「『父子鷹』を中心とした業績」が理由だという。
ひょっとして菊池寛も子母澤の『新選組始末記』(昭和3年)など三部作を読んで、新撰組の雪冤にかける意気込みに共感したのだろうか。
そして、その共感が本作にも表れているのだろうか――などと想像してしまった。
(※関連記事、子母澤寛『幕末奇談』に詳述。)
「大衆維新史読本」シリーズは、本作を含めて以下の全23編が発表されている。
黒船来!
安政大獄
桜田事変
寺田屋事件前後
天誅組義挙
生野義挙
池田屋襲撃 (←本作)
水戸天狗党転戦記
元治甲子 禁門の変
高杉晋作の活躍
薩長連合と坂本龍馬
大政奉還
皇政復古の大号令
伏見鳥羽の戦
五箇条の御誓文
江戸城明渡し
維新に躍る英仏の勢力
上野の戦争
北越戦争と河井継之助
会津鶴ヶ城の悲劇
東京奠都
箱館戦争
廃藩置県まで
本作以外では、「伏見鳥羽の戦」「箱館戦争」にも新撰組に関する言及がある。
「伏見鳥羽の戦」では、以下のくだりが少々気になった。
新撰組など、伏見の奉行所の門前で戦ったが、一たまりもなく敗れて、近藤の養子、周平外十七名がやられている。
谷周平(近藤周平、谷昌武とも)が伏見で戦死した事実はなく、亡くなったのは明治34年である。
しかし、この頃は戦死説が流布していたのだろう。直木三十五も、「近藤勇と科学」に周平戦死を描いている。
また、「箱館戦争」において新撰組は土方歳三の名前が数回出てくるくらいなのだが、旧幕脱走軍や榎本武揚に対して同情的な記述が多く、印象に残る。たとえば――
上野に戦ひ、越後に転戦し、更に会津に力闘し、然も大きな時代の波に攘(さら)はれて、今この北海の孤島に打上げられた彼等将士の落莫たる心中は何(ど)んなであつたらうか。
酷烈、骨に徹する冬の蝦夷地とは云へ、彼等にとっては、全く最後の希望の灯だつたのだ。総てに裏切られ、総てに捨てられた、時の敗残者達は、こゝで力強く団結し、この最後の灯を華やかに燃やさうとするのだ。
――というくだりなど、妙にロマンチックで抒情たっぷりである。
「大衆維新史読本」全般にわたり、旧仮名遣いで表記され、史実に関して古い通説を含む。
けれども、幕末維新史の見方としては古くさい感じがせず、「なるほど」と教わる面もある。
旧幕府と新政府、どちらか一方の味方をするわけでなく、双方をバランスよく扱っているのも良い。
また、掌編の集合なので読みやすい。
本作の初出は、文藝春秋刊『オール讀物』昭和12年(1937)8月号。収録書は下記のとおり。
『大衆維新史読本』 上・下巻 モダン日本社 昭和14年(1939)
『大衆維新史読本』 上・下巻 新太陽社 昭和16年(1941)
『菊池寛全集 第19巻 史伝四』 高松市菊池寛記念館 平成7年(1995)
現在、本作「池田屋襲撃」は、青空文庫で読むことができる。
また、honto、Kindleなどの電子書籍版もあり、価格0円で販売されている。
作者の没後50年を経て著作権保護期間が終了し、こうしたことが可能となった。
ちなみに、青空文庫には菊池寛作品が他にも多数収録されている。
その中で「日本合戦譚」シリーズの1編「鳥羽伏見の戦」が目についた。
本項で紹介した「大衆維新史読本」シリーズの「伏見鳥羽の戦」と題材は同じだが、さらに短い掌編であり、内容も微妙に異なる。
新撰組についての言及ももちろんある。
青空文庫にて公開されている「大衆維新史読本」シリーズは、現在のところ本作「池田屋襲撃」のみ。
なお、「薩長連合と坂本龍馬」「大政奉還」が作業中であるという。
ゆくゆくは全編が公開されて欲しいところだ。

池田屋事件について、さらに新しく専門的な研究書を読みたい向きには、こちらがオススメ↓
『新選組・池田屋事件顛末記』 冨成博 新人物往来社
『池田屋事件の研究』 中村武生 講談社現代新書
「新撰組結成」「近藤勇」「池田屋斬込み」「血河の乱闘」「殉難の諸士」「近藤勇の最後」の6節から成る。
菊池寛の作品を読んだことがない人でも、名前は知っているだろう。
小説家、劇作家、ジャーナリストであり、『文藝春秋』を創刊、日本文芸家協会を設立、芥川賞と直木賞の設立にも関わり、競馬・麻雀の愛好家としても知られる。
代表作は「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」「真珠夫人」ほか多数。
歴史を題材とした小説も発表している。ただし新撰組を描いたものはない――と思っていた。
池田屋事件について調べていた時、たまたま本作が目についた。
菊池寛作品に新撰組ものがあると、初めて知った。
ただし小説や戯曲ではなく、史伝というか歴史エッセイのようなものだ。
(※高松市菊池寛記念館の全集では「随想集」でなく「史伝」の巻に収録されているが、味わいとしてはエッセイに近いと感じるので、本項ではエッセイとして扱うことにした。)
作者がどのような史観を持っているのか寡聞にして知らなかったが、発表されたのが昭和12年(1937)ということもあり、新撰組は「幕府の走狗となり維新の大業を妨げた賊軍」などと評されているのだろうか?と思いつつ読んでみた。
ところが、そんな予想はまったく外れた。
作者は、新撰組側と長州系志士側との両面から、公平な分析を試みている。
新撰組では近藤勇が郷党に宛てた報告を基に、また長州側では乃美織江の手記を基に、池田屋事件の経過を追っている。
また、近藤勇の人物評価に、特に多くの字数を費やしている。曰く、
近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせいぜいである。
しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽くしてゐないし、彼の為にも気の毒である。
これに続けて、近藤が同時代人らに智勇兼備の人物と高く評価されていたこと、公武合体と尊王攘夷を強く望む志があったことを、具体例を挙げて解説。さらに、以下のように結んでいる。
真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
つまり、新撰組を「賊軍」扱いするどころか、むしろそのように決めつけてきた明治政府主導の「御用歴史」を皮肉っているのだ。
昭和後期にさえ「御用歴史」支持の作家や作品が珍しくなかったのだから(どうかすると平成の今でも支持的な見解を見かける)、発表当時にはかなり先駆的だったろうと感じる。
関係あるかどうかわからないが、第10回・菊池寛賞(昭和37年=1962)を子母澤寛が受賞している。
「『父子鷹』を中心とした業績」が理由だという。
ひょっとして菊池寛も子母澤の『新選組始末記』(昭和3年)など三部作を読んで、新撰組の雪冤にかける意気込みに共感したのだろうか。
そして、その共感が本作にも表れているのだろうか――などと想像してしまった。
(※関連記事、子母澤寛『幕末奇談』に詳述。)
「大衆維新史読本」シリーズは、本作を含めて以下の全23編が発表されている。
黒船来!
安政大獄
桜田事変
寺田屋事件前後
天誅組義挙
生野義挙
池田屋襲撃 (←本作)
水戸天狗党転戦記
元治甲子 禁門の変
高杉晋作の活躍
薩長連合と坂本龍馬
大政奉還
皇政復古の大号令
伏見鳥羽の戦
五箇条の御誓文
江戸城明渡し
維新に躍る英仏の勢力
上野の戦争
北越戦争と河井継之助
会津鶴ヶ城の悲劇
東京奠都
箱館戦争
廃藩置県まで
本作以外では、「伏見鳥羽の戦」「箱館戦争」にも新撰組に関する言及がある。
「伏見鳥羽の戦」では、以下のくだりが少々気になった。
新撰組など、伏見の奉行所の門前で戦ったが、一たまりもなく敗れて、近藤の養子、周平外十七名がやられている。
谷周平(近藤周平、谷昌武とも)が伏見で戦死した事実はなく、亡くなったのは明治34年である。
しかし、この頃は戦死説が流布していたのだろう。直木三十五も、「近藤勇と科学」に周平戦死を描いている。
また、「箱館戦争」において新撰組は土方歳三の名前が数回出てくるくらいなのだが、旧幕脱走軍や榎本武揚に対して同情的な記述が多く、印象に残る。たとえば――
上野に戦ひ、越後に転戦し、更に会津に力闘し、然も大きな時代の波に攘(さら)はれて、今この北海の孤島に打上げられた彼等将士の落莫たる心中は何(ど)んなであつたらうか。
酷烈、骨に徹する冬の蝦夷地とは云へ、彼等にとっては、全く最後の希望の灯だつたのだ。総てに裏切られ、総てに捨てられた、時の敗残者達は、こゝで力強く団結し、この最後の灯を華やかに燃やさうとするのだ。
――というくだりなど、妙にロマンチックで抒情たっぷりである。
「大衆維新史読本」全般にわたり、旧仮名遣いで表記され、史実に関して古い通説を含む。
けれども、幕末維新史の見方としては古くさい感じがせず、「なるほど」と教わる面もある。
旧幕府と新政府、どちらか一方の味方をするわけでなく、双方をバランスよく扱っているのも良い。
また、掌編の集合なので読みやすい。
本作の初出は、文藝春秋刊『オール讀物』昭和12年(1937)8月号。収録書は下記のとおり。
『大衆維新史読本』 上・下巻 モダン日本社 昭和14年(1939)
『大衆維新史読本』 上・下巻 新太陽社 昭和16年(1941)
『菊池寛全集 第19巻 史伝四』 高松市菊池寛記念館 平成7年(1995)
現在、本作「池田屋襲撃」は、青空文庫で読むことができる。
また、honto、Kindleなどの電子書籍版もあり、価格0円で販売されている。
作者の没後50年を経て著作権保護期間が終了し、こうしたことが可能となった。
ちなみに、青空文庫には菊池寛作品が他にも多数収録されている。
その中で「日本合戦譚」シリーズの1編「鳥羽伏見の戦」が目についた。
本項で紹介した「大衆維新史読本」シリーズの「伏見鳥羽の戦」と題材は同じだが、さらに短い掌編であり、内容も微妙に異なる。
新撰組についての言及ももちろんある。
青空文庫にて公開されている「大衆維新史読本」シリーズは、現在のところ本作「池田屋襲撃」のみ。
なお、「薩長連合と坂本龍馬」「大政奉還」が作業中であるという。
ゆくゆくは全編が公開されて欲しいところだ。

池田屋事件について、さらに新しく専門的な研究書を読みたい向きには、こちらがオススメ↓
『新選組・池田屋事件顛末記』 冨成博 新人物往来社
『池田屋事件の研究』 中村武生 講談社現代新書
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