永倉新八『新選組奮戦記』
実歴談。新選組の幹部隊士であった永倉新八が、晩年語った回顧談をまとめたもの。
『新撰組顛末記』の原典となった新聞連載記事「永倉新八」を、再活字化した単行本である。
本書の前書き「はじめに」によると――
大正2年(1913)3月17日から6月11日まで、小樽新聞に70回にわたり「永倉新八」と題する記事が連載された。小樽新聞・社会部記者の加藤眠柳と吉島力が、永倉本人に直接取材し、読み物ふうに書いたものである。
内容は、永倉の生涯を振り返った回顧談。近藤勇らと知り合い、新選組を結成して活躍、戊辰戦争後に松前藩へ帰参するまでの経緯に重点が置かれている。
帰参以後「杉村義衛」を名乗った永倉は、連載当時75歳の最晩年を迎えていた。毎日、この連載の紙面が届くのを心待ちにしていたという。
そして、連載終了から約1年半後の大正4年(1915)1月5日、世を去った。
その十三回忌が近づいた昭和2年(1927)6月、永倉の長男・杉村義太郎が、連載記事「永倉新八」をまとめた私家本『新撰組永倉新八』を刊行し、関係者に配布した。
この『新撰組永倉新八』は、『新撰組顛末記』のタイトルで昭和43年(1968)、新人物往来社より再刊された。(※過去記事『新撰組顛末記』を参照)
私家本『新撰組永倉新八』は、凡例に「本篇の本文は毫も改竄を加えず全部新聞紙上掲載のままを輯録した」と書かれているという。
そのため、誤字・脱字を訂正したり改行・句読点を追加したりの改変は当然あったにしても、それ以外は基本的に連載当時のままと考えられてきた。
ところが、実際に連載記事と比較したところ、改竄されている箇所が少なからず発見されたというのだ。
改竄と言っても別に悪意でなされたわけではなく、読みやすさを心がけて(時流に配慮した面もある様子)表現を変えたらしい。
元の「永倉新八」はどのような内容か、それがどのように変えられたのか、気になって読んでみた。
まず、各回のタイトル(小見出し)からして違う。
『新選組奮戦記』(=「永倉新八」)のタイトル → 『新撰組顛末記』のタイトル
中にはほとんど同じものもあるが、ここには大きな違いがある例を一部のみ挙げてみた。
どちらのタイトルからも中身を推測できるものの、ニュアンスがだいぶ異なる。
特に、過激な攘夷スローガン「毛唐を殺せ」を本文からわざわざ選び小見出しに据えたセンスには、目を疑ってしまった。
ちなみに、全70回が『新撰組顛末記』の単行本では、ただ順番に区切りなく並んでいる。
本書では、「第一章 京都へ」から「第十章 北関東転戦と明治以後」までの全10章に区切ってある。このほうが、特定の時期の出来事を探すには便利。
各章の扉ページに新聞連載時の挿絵が載っており、面白い趣向と感じた。
本文中の人名・地名・出来事に関する捕捉説明や、原文の過誤に関する解説は、注記方式により各章の末尾にまとめて記載されている。
『新撰組顛末記』との異同箇所も同様にまとめられているが、これは重大なものだけを取り上げており、細かい違いにまでは触れていない。
したがって、両書の違いを詳しく知るには2冊並べて交互に見比べながら読む必要があり、チト面倒ではある。
本文の違いについて、具体例をいくつか挙げると――
◆「新選組」の表記が「新選組」で統一されており、「新撰組」ではない。
どちらも間違いではないとはいえ、なんとなく意外に感じられた。
◆近藤勇との出会いを述べた章の一文は、以下のとおり異なる。
見てのとおり、太字部分が『新撰組顛末記』では脱漏している。
道理で、以前このくだりを読んだ時に違和感を覚えたが、やっと納得がいった。
◆池田屋事件の後日談を述べた章では、過激浪士らの計画が仮に成功した場合「少なくとも維新の大局は二年早く定まり」とある記述が、『新撰組顛末記』では「一年」に変えられている。
これは何を意図した変更だろう。浪士らの力を低めに見積もることにしたのか、あるいは新選組の功績を謙遜すべきと考えたのか、どうもよくわからない。
◆州崎の血闘を述べた章では、以下の部分に違いがある。
前者は警戒を保ち距離を意識していたように読めるが、後者ではまったく注意を払っていなかったことになっている。
このような具合で、比較しながら読むのは面倒でもなかなか面白い。
もちろん、比較などせず普通に通読しても興味深い1冊であることは言うまでもない。
なお、本文は旧漢字と旧仮名を現代のものに改め、改行と句読点が加えられ、漢字にルビが振られているので読みやすい。文体は、『浪士文久報国記事』とは異なり、ややクラシカルな言い回しがされているものの現代文と変わりない。
これらは『新撰組顛末記』とほぼ同様であるが、念のため付け加えておく。
「意味内容が同じだったら字句の違いなどにはこだわらない」という向きは、すでに『新撰組顛末記』を読んでいるなら、敢えて本書を読まずとも事足りると思う。
ただ、より永倉の肉声に近いものを求める向き、字句の違いが意味内容にも影響すると考える向きは、手に取ってみてはいかがだろうか。
また、『新撰組顛末記』単行本に収録されている「新撰組資料」8編や杉村義太郎「自序」は、本書には載っていない。(※過去記事『新撰組顛末記』を参照)
購読の際は、この点もご留意いただきたい。
本書は、2013年、PHPエディターズ・グループより発行された。B6判ソフトカバー。
注釈は、菊地明が担当している。
※永倉新八の関連書籍について、過去記事「永倉新八の本」にまとめているので参照されたい。

『新撰組顛末記』の原典となった新聞連載記事「永倉新八」を、再活字化した単行本である。
本書の前書き「はじめに」によると――
大正2年(1913)3月17日から6月11日まで、小樽新聞に70回にわたり「永倉新八」と題する記事が連載された。小樽新聞・社会部記者の加藤眠柳と吉島力が、永倉本人に直接取材し、読み物ふうに書いたものである。
内容は、永倉の生涯を振り返った回顧談。近藤勇らと知り合い、新選組を結成して活躍、戊辰戦争後に松前藩へ帰参するまでの経緯に重点が置かれている。
帰参以後「杉村義衛」を名乗った永倉は、連載当時75歳の最晩年を迎えていた。毎日、この連載の紙面が届くのを心待ちにしていたという。
そして、連載終了から約1年半後の大正4年(1915)1月5日、世を去った。
その十三回忌が近づいた昭和2年(1927)6月、永倉の長男・杉村義太郎が、連載記事「永倉新八」をまとめた私家本『新撰組永倉新八』を刊行し、関係者に配布した。
この『新撰組永倉新八』は、『新撰組顛末記』のタイトルで昭和43年(1968)、新人物往来社より再刊された。(※過去記事『新撰組顛末記』を参照)
私家本『新撰組永倉新八』は、凡例に「本篇の本文は毫も改竄を加えず全部新聞紙上掲載のままを輯録した」と書かれているという。
そのため、誤字・脱字を訂正したり改行・句読点を追加したりの改変は当然あったにしても、それ以外は基本的に連載当時のままと考えられてきた。
ところが、実際に連載記事と比較したところ、改竄されている箇所が少なからず発見されたというのだ。
改竄と言っても別に悪意でなされたわけではなく、読みやすさを心がけて(時流に配慮した面もある様子)表現を変えたらしい。
元の「永倉新八」はどのような内容か、それがどのように変えられたのか、気になって読んでみた。
まず、各回のタイトル(小見出し)からして違う。
『新選組奮戦記』(=「永倉新八」)のタイトル → 『新撰組顛末記』のタイトル
- 十八歳で本目録 十九の春藩邸を抜け出す → 十八歳には本目録、剣道の修行に脱藩
- 近藤勇と交わりを結ぶ 鳶鼻の毛唐を殺せ → 幕末江戸の侠勇者近藤勇と交を結ぶ
- 近藤以下の江戸発足 壮士芹沢の大々憤怒 → 浪士隊京都へ向かう、尽忠報国の士芹沢
- 清川八郎の陰謀 芹沢らの反対説 → 板倉周防ににらまれ、清川刺客につけらる
- 長州の志士古高捕われ陰謀ことごとく発覚 → 青葉若葉の夏のはじめ、御所焼き打ちの大陰謀
中にはほとんど同じものもあるが、ここには大きな違いがある例を一部のみ挙げてみた。
どちらのタイトルからも中身を推測できるものの、ニュアンスがだいぶ異なる。
特に、過激な攘夷スローガン「毛唐を殺せ」を本文からわざわざ選び小見出しに据えたセンスには、目を疑ってしまった。
ちなみに、全70回が『新撰組顛末記』の単行本では、ただ順番に区切りなく並んでいる。
本書では、「第一章 京都へ」から「第十章 北関東転戦と明治以後」までの全10章に区切ってある。このほうが、特定の時期の出来事を探すには便利。
各章の扉ページに新聞連載時の挿絵が載っており、面白い趣向と感じた。
本文中の人名・地名・出来事に関する捕捉説明や、原文の過誤に関する解説は、注記方式により各章の末尾にまとめて記載されている。
『新撰組顛末記』との異同箇所も同様にまとめられているが、これは重大なものだけを取り上げており、細かい違いにまでは触れていない。
したがって、両書の違いを詳しく知るには2冊並べて交互に見比べながら読む必要があり、チト面倒ではある。
本文の違いについて、具体例をいくつか挙げると――
◆「新選組」の表記が「新選組」で統一されており、「新撰組」ではない。
どちらも間違いではないとはいえ、なんとなく意外に感じられた。
◆近藤勇との出会いを述べた章の一文は、以下のとおり異なる。
永倉は相変わらず本所の百合本道場にいるはずであったが、ふと牛込御留守居町に道場を開いておる、御書院組の坪内主馬という北心(辰)一刀流の先生に見込まれて、師範代わりに招かれた。
永倉はあいかわらず本所の百合本塾に道場を開いている御書院組の坪内主馬という北辰一刀流の先生に見込まれて師範代りに招かれた。
永倉はあいかわらず本所の百合本塾に道場を開いている御書院組の坪内主馬という北辰一刀流の先生に見込まれて師範代りに招かれた。
見てのとおり、太字部分が『新撰組顛末記』では脱漏している。
道理で、以前このくだりを読んだ時に違和感を覚えたが、やっと納得がいった。
◆池田屋事件の後日談を述べた章では、過激浪士らの計画が仮に成功した場合「少なくとも維新の大局は二年早く定まり」とある記述が、『新撰組顛末記』では「一年」に変えられている。
これは何を意図した変更だろう。浪士らの力を低めに見積もることにしたのか、あるいは新選組の功績を謙遜すべきと考えたのか、どうもよくわからない。
◆州崎の血闘を述べた章では、以下の部分に違いがある。
永倉は「何をッ」と股立を取って、腰の一刀に手を懸けると三人の侍はそのまま行き過ぎたので、六間ばかり歩むと、跡から一刀を大上段に振りかぶって追って来た。
永倉は、「なにをッ」と股立をとって腰の一刀に手をかけると三人の侍はそのままスタスタいきすぎたので、永倉もなにごころなくぶらぶらやっていくと、ゆだんを見すました侍はそのうしろから一刀を大上段にふりかぶって追っかけてきた。
永倉は、「なにをッ」と股立をとって腰の一刀に手をかけると三人の侍はそのままスタスタいきすぎたので、永倉もなにごころなくぶらぶらやっていくと、ゆだんを見すました侍はそのうしろから一刀を大上段にふりかぶって追っかけてきた。
前者は警戒を保ち距離を意識していたように読めるが、後者ではまったく注意を払っていなかったことになっている。
このような具合で、比較しながら読むのは面倒でもなかなか面白い。
もちろん、比較などせず普通に通読しても興味深い1冊であることは言うまでもない。
なお、本文は旧漢字と旧仮名を現代のものに改め、改行と句読点が加えられ、漢字にルビが振られているので読みやすい。文体は、『浪士文久報国記事』とは異なり、ややクラシカルな言い回しがされているものの現代文と変わりない。
これらは『新撰組顛末記』とほぼ同様であるが、念のため付け加えておく。
「意味内容が同じだったら字句の違いなどにはこだわらない」という向きは、すでに『新撰組顛末記』を読んでいるなら、敢えて本書を読まずとも事足りると思う。
ただ、より永倉の肉声に近いものを求める向き、字句の違いが意味内容にも影響すると考える向きは、手に取ってみてはいかがだろうか。
また、『新撰組顛末記』単行本に収録されている「新撰組資料」8編や杉村義太郎「自序」は、本書には載っていない。(※過去記事『新撰組顛末記』を参照)
購読の際は、この点もご留意いただきたい。
本書は、2013年、PHPエディターズ・グループより発行された。B6判ソフトカバー。
注釈は、菊地明が担当している。
※永倉新八の関連書籍について、過去記事「永倉新八の本」にまとめているので参照されたい。
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