北方謙三『黒龍の柩』
長編小説。タイトル読みは「こくりゅうのひつぎ」。
土方歳三が、来るべき新時代に新選組の活路を見出そうと苦闘を続ける姿を、池田屋事件から箱館戦争の終末にかけて描く。同時に、史実の裏の壮大な夢をめぐる群像を描き出す、歴史ミステリー。
池田屋事件の戦功によって、新選組は尊攘激派に対抗する治安警察部隊としての地位を確実なものとした。
しかし、政局は混沌を極めており、世の中がこの先どう変わっていくのか見極めは困難だった。
新選組を維持し、隊士たちの居場所を守るため、土方歳三はその困難に立ち向かう。
勝海舟、小栗上野介、榎本釜次郎と出会い語らう一方で、幕府の弱体化を実感する日々。
そして、勝の計らいによって坂本龍馬と密かに会った時、従来の幕府支配でもなければ薩長が取って代わるのでもない、そして列強国の介入を許さない、新国家樹立の具体的な構想を知らされるのだった。
それが果たして実現可能なのかどうか、歳三にはにわかに信じられない。
しかし、幕府と薩長との戦争が避けられない事態になった時、一か八かこの構想に賭けようと決意する。
計画は、勝と小栗、そして村垣範正が中心となって秘密裏に進め、その指揮の下に榎本や大鳥圭介が動く。
歳三もまた、新選組を率い、その一翼を担うのだった。
戊辰の戦乱の中、抗戦派の幕臣たちは、勝らを薩長に屈した者とみなし命を狙う。
また、薩摩の西郷吉之助は、計画を察知し、あらゆる手段を用いて阻もうとする。
敵の執拗な追撃を受けつつ北を目指す歳三は、縦横無尽、八面六臂の戦いを続ける。
ストーリーは、池田屋事件の場面から始まる。
ここで、会津藩が新選組に危険な役目を押しつけたかのように描かれるのは、ちょっと違うと感じた。
この時は、洛中の怪しい場所をすべて捜索し、過激分子を残らず摘発する必要があって、会津藩も手一杯だったのだ。場合によっては、激派集団と全面戦争になるというおそれを、彼らは感じていた。
新選組にやらせておけばいいよ、なんて余裕をかましていたわけでは、決してなかったろう。
とにかく、新選組はこの時の手柄によって大きく評価される。しかし土方歳三は、ただの武闘派集団に甘んじていては先がない、と危機感を抱く。本作の発表当時には、先駆的な描写だったと思う。
山南敬助は、歳三と対立する人物として描かれることが多いが、本作ではまったく違う。
互いに信頼しあい、新選組の在り方について悩みを分かち合っている。
そして、歳三の頼みを引き受け、勝海舟が幕府の行く末をどのように考えているのか、探ろうとする。
しかし、己の余命が残り少ないと知って、新選組を守るためその身を捧げる。
そうした山南の決意を知るのは、歳三と近藤勇だけだった。男の友情が熱い。
本作の沖田総司は、池田屋で喀血して以来、次第に衰弱していく。
身体を休めるため、商家の離れを休息所として借り、多恵という同病の娘を置く。
沖田は、多恵に恋愛感情を抱いているつもりはなかったが、彼女のほうが先に逝くとわかった時、初めて自分の本当の気持ちに気づくのだった。
病床に伏せる沖田は、病いのために死にたくはない、強い者と剣を交えた末に斃れたい、と強く願う。
その願いを叶えてやりたいと思う歳三の心が、温かくも哀しい。
近藤勇は、人を惹きつける魅力を持ったリーダーであり、時勢の推移も理解している。
しかし、歳三と同じ夢に賭けようとする気持ちにはなれない。
彼にとって、京都で幕府のために戦う新選組こそが真実であって、別の場所で別の形を取ってまで生き延びたとしても、それは自分にとっての新選組ではない、と感じている。
戦意を欠いた幕府の有り様を何度も目の当たりにして、なおさら失望を深くしたようだ。
隊士たちが別天地を求めるなら希望どおりにさせてやりたいが、自ら求める気はついに起きず、訣別する。
歳三は、新国家構想を詳しく語る機会を逸し、近藤の気持ちを変えられなかったことを悔やむ。
オリジナルの人物として、久兵衛が登場する。
もとは武士だったが、身分を捨てて料理人となり、新選組の賄い方として雇われ、厨房を取り仕切る。
病人のために口当たりが良くて精のつく食事を作るなど、細やかな気配りも見せる、有能な人物。
新選組と行動を共にしたいと、鳥羽・伏見戦争後も隊に残った。
本作の主要キャラはほとんどが実在人物なのに、久兵衛のような架空人物が重視されるのは何故か…と思っていたら、最後に重要な役目を負う。
なるほど、このために作者は彼を配したのだと、合点がいった。
もうひとり、オリジナルキャラとして重要なのは加右衛門。
村垣範正が使う御庭番のひとりで、神出鬼没。いつしか歳三に付き従うことが増えていく。
勝の下で働く山岡鉄太郎と新門辰五郎が、脇役ながら良い味を出している。
新選組隊士の中で、浅野薫が忘れがたい。
死んだかのように偽装工作をして身分を変え、長州に潜入し内情を探る。浅野が密偵として働いていることを承知しているのは、近藤・土方だけだった。そのため、後に不幸な結末を見る。気の毒すぎる役回りだと思う。
他に、土方に同行することが多い島田魁や中島登、会津で新選組を率いる斎藤一、上野で死なない原田左之助、会津で行方不明にならない尾形俊太郎なども、印象に残った。
坂本龍馬は、出番は少ないのだが、新国家体制案を提示する重要な役回り。
その構想を西郷吉之助にも語ったため、西郷の謀略によって殺された模様。
この龍馬の遺産に、勝や小栗も、そして徳川慶喜も賭けることになるのだ。
そして、計画がつまずくと、龍馬が存命なら…と誰かがぼやく。
そうしたくだりを読むたび、じゃあ龍馬ならどれほどの次善策を打ち出せたのか、考え得る具体案を教えてくれ、と作者に尋ねたい気持ちに駆られた。ホントは作者も知らないんじゃ…(笑)
龍馬が非凡な人物ということに異論はないが、本作ではやや過大評価されているような気がする。
本作の要となる新国家体制について、ここに詳しく書くのは控えたい。
このような計画は実際にはなかったと思うが、本作を読んでいるとひょっとしたら…と思えてくる。
慶喜が戦わずに寛永寺で謹慎したのも、勝が江戸を戦場にすまいと西郷と交渉したのも、小栗が権田村に隠棲したのも、すべては計画のためだった。
そして、新選組が甲州へ出陣したのも、旧幕陸軍と合流して宇都宮城を攻略したのも、会津へ行って戦ったのも、真の目的を達するための攪乱工作だったのだ。
こういう筋運びは、とても面白い。
彼らが単に降参を潔しとしないからでなく、死に場所を求めるわけでもなく、未来を信じ夢を実現するために戦うさまは痛快で、ワクワクする。
それだけに、この夢が潰える時は、一気に辛く虚しく苦々しくなるのだが。
結末は、読者によって評価が分かれるだろうが、個人的には悪くないと感じた。
寂寞とした余韻とともに、別の新たな夢が走り出すかのような予感も残す。
タイトル『黒龍の柩』とは、歳三らの信じた「黒龍=北方の守護神」が惜しくも封印されてしまった、という結末を意味するように感じた。
なおかつ、歳三の行く先をも暗示しているのかもしれない。
登場人物の話し言葉が現代ふうなので、もう少し時代的演出があってもいいかと思った。
ただ、作者が得意とするハードボイルド小説のようなつもりで読めば、さほど気にならない。
斬り合いの場面に、迫力と同時に乾いた無機的な印象を受けるのも、ハードボイルドに近いと感じた。
かつて、作者・北方謙三はNHKの歴史バラエティに出演し、新選組への並々ならぬ愛を語った。
そして、新選組の小説をいつか書きたいと述べていた。
以来、いつ書いてくれるかと期待し続けたので、ようやく『草莽枯れゆく』の連載(1995-96)が始まった時は嬉しかった。この作品では、新選組は脇役ながらも、なかなか印象的に描かれていたと思う。
そして、新選組を主役とする本作の連載(2001-02)を知り、小躍りしたものだ。
今になって読み返すと、幕末史観はいくらか古びた感じがするけれども、オリジナル展開に「実際にこういうことがあったら面白いのに」と感じるところは変わらない。
まったくの余談だが、作者が土方歳三を好きらしいのは、やはり名前が似ているからだろうか。
本作の初出は、毎日新聞(朝刊)2001年1月1日~翌年4月30日連載。
毎日新聞社より単行本(2001)上・下巻、幻冬舎より文庫本(2005)上・下巻が刊行された。


土方歳三が、来るべき新時代に新選組の活路を見出そうと苦闘を続ける姿を、池田屋事件から箱館戦争の終末にかけて描く。同時に、史実の裏の壮大な夢をめぐる群像を描き出す、歴史ミステリー。
池田屋事件の戦功によって、新選組は尊攘激派に対抗する治安警察部隊としての地位を確実なものとした。
しかし、政局は混沌を極めており、世の中がこの先どう変わっていくのか見極めは困難だった。
新選組を維持し、隊士たちの居場所を守るため、土方歳三はその困難に立ち向かう。
勝海舟、小栗上野介、榎本釜次郎と出会い語らう一方で、幕府の弱体化を実感する日々。
そして、勝の計らいによって坂本龍馬と密かに会った時、従来の幕府支配でもなければ薩長が取って代わるのでもない、そして列強国の介入を許さない、新国家樹立の具体的な構想を知らされるのだった。
それが果たして実現可能なのかどうか、歳三にはにわかに信じられない。
しかし、幕府と薩長との戦争が避けられない事態になった時、一か八かこの構想に賭けようと決意する。
計画は、勝と小栗、そして村垣範正が中心となって秘密裏に進め、その指揮の下に榎本や大鳥圭介が動く。
歳三もまた、新選組を率い、その一翼を担うのだった。
戊辰の戦乱の中、抗戦派の幕臣たちは、勝らを薩長に屈した者とみなし命を狙う。
また、薩摩の西郷吉之助は、計画を察知し、あらゆる手段を用いて阻もうとする。
敵の執拗な追撃を受けつつ北を目指す歳三は、縦横無尽、八面六臂の戦いを続ける。
ストーリーは、池田屋事件の場面から始まる。
ここで、会津藩が新選組に危険な役目を押しつけたかのように描かれるのは、ちょっと違うと感じた。
この時は、洛中の怪しい場所をすべて捜索し、過激分子を残らず摘発する必要があって、会津藩も手一杯だったのだ。場合によっては、激派集団と全面戦争になるというおそれを、彼らは感じていた。
新選組にやらせておけばいいよ、なんて余裕をかましていたわけでは、決してなかったろう。
とにかく、新選組はこの時の手柄によって大きく評価される。しかし土方歳三は、ただの武闘派集団に甘んじていては先がない、と危機感を抱く。本作の発表当時には、先駆的な描写だったと思う。
山南敬助は、歳三と対立する人物として描かれることが多いが、本作ではまったく違う。
互いに信頼しあい、新選組の在り方について悩みを分かち合っている。
そして、歳三の頼みを引き受け、勝海舟が幕府の行く末をどのように考えているのか、探ろうとする。
しかし、己の余命が残り少ないと知って、新選組を守るためその身を捧げる。
そうした山南の決意を知るのは、歳三と近藤勇だけだった。男の友情が熱い。
本作の沖田総司は、池田屋で喀血して以来、次第に衰弱していく。
身体を休めるため、商家の離れを休息所として借り、多恵という同病の娘を置く。
沖田は、多恵に恋愛感情を抱いているつもりはなかったが、彼女のほうが先に逝くとわかった時、初めて自分の本当の気持ちに気づくのだった。
病床に伏せる沖田は、病いのために死にたくはない、強い者と剣を交えた末に斃れたい、と強く願う。
その願いを叶えてやりたいと思う歳三の心が、温かくも哀しい。
近藤勇は、人を惹きつける魅力を持ったリーダーであり、時勢の推移も理解している。
しかし、歳三と同じ夢に賭けようとする気持ちにはなれない。
彼にとって、京都で幕府のために戦う新選組こそが真実であって、別の場所で別の形を取ってまで生き延びたとしても、それは自分にとっての新選組ではない、と感じている。
戦意を欠いた幕府の有り様を何度も目の当たりにして、なおさら失望を深くしたようだ。
隊士たちが別天地を求めるなら希望どおりにさせてやりたいが、自ら求める気はついに起きず、訣別する。
歳三は、新国家構想を詳しく語る機会を逸し、近藤の気持ちを変えられなかったことを悔やむ。
オリジナルの人物として、久兵衛が登場する。
もとは武士だったが、身分を捨てて料理人となり、新選組の賄い方として雇われ、厨房を取り仕切る。
病人のために口当たりが良くて精のつく食事を作るなど、細やかな気配りも見せる、有能な人物。
新選組と行動を共にしたいと、鳥羽・伏見戦争後も隊に残った。
本作の主要キャラはほとんどが実在人物なのに、久兵衛のような架空人物が重視されるのは何故か…と思っていたら、最後に重要な役目を負う。
なるほど、このために作者は彼を配したのだと、合点がいった。
もうひとり、オリジナルキャラとして重要なのは加右衛門。
村垣範正が使う御庭番のひとりで、神出鬼没。いつしか歳三に付き従うことが増えていく。
勝の下で働く山岡鉄太郎と新門辰五郎が、脇役ながら良い味を出している。
新選組隊士の中で、浅野薫が忘れがたい。
死んだかのように偽装工作をして身分を変え、長州に潜入し内情を探る。浅野が密偵として働いていることを承知しているのは、近藤・土方だけだった。そのため、後に不幸な結末を見る。気の毒すぎる役回りだと思う。
他に、土方に同行することが多い島田魁や中島登、会津で新選組を率いる斎藤一、上野で死なない原田左之助、会津で行方不明にならない尾形俊太郎なども、印象に残った。
坂本龍馬は、出番は少ないのだが、新国家体制案を提示する重要な役回り。
その構想を西郷吉之助にも語ったため、西郷の謀略によって殺された模様。
この龍馬の遺産に、勝や小栗も、そして徳川慶喜も賭けることになるのだ。
そして、計画がつまずくと、龍馬が存命なら…と誰かがぼやく。
そうしたくだりを読むたび、じゃあ龍馬ならどれほどの次善策を打ち出せたのか、考え得る具体案を教えてくれ、と作者に尋ねたい気持ちに駆られた。ホントは作者も知らないんじゃ…(笑)
龍馬が非凡な人物ということに異論はないが、本作ではやや過大評価されているような気がする。
本作の要となる新国家体制について、ここに詳しく書くのは控えたい。
このような計画は実際にはなかったと思うが、本作を読んでいるとひょっとしたら…と思えてくる。
慶喜が戦わずに寛永寺で謹慎したのも、勝が江戸を戦場にすまいと西郷と交渉したのも、小栗が権田村に隠棲したのも、すべては計画のためだった。
そして、新選組が甲州へ出陣したのも、旧幕陸軍と合流して宇都宮城を攻略したのも、会津へ行って戦ったのも、真の目的を達するための攪乱工作だったのだ。
こういう筋運びは、とても面白い。
彼らが単に降参を潔しとしないからでなく、死に場所を求めるわけでもなく、未来を信じ夢を実現するために戦うさまは痛快で、ワクワクする。
それだけに、この夢が潰える時は、一気に辛く虚しく苦々しくなるのだが。
結末は、読者によって評価が分かれるだろうが、個人的には悪くないと感じた。
寂寞とした余韻とともに、別の新たな夢が走り出すかのような予感も残す。
タイトル『黒龍の柩』とは、歳三らの信じた「黒龍=北方の守護神」が惜しくも封印されてしまった、という結末を意味するように感じた。
なおかつ、歳三の行く先をも暗示しているのかもしれない。
登場人物の話し言葉が現代ふうなので、もう少し時代的演出があってもいいかと思った。
ただ、作者が得意とするハードボイルド小説のようなつもりで読めば、さほど気にならない。
斬り合いの場面に、迫力と同時に乾いた無機的な印象を受けるのも、ハードボイルドに近いと感じた。
かつて、作者・北方謙三はNHKの歴史バラエティに出演し、新選組への並々ならぬ愛を語った。
そして、新選組の小説をいつか書きたいと述べていた。
以来、いつ書いてくれるかと期待し続けたので、ようやく『草莽枯れゆく』の連載(1995-96)が始まった時は嬉しかった。この作品では、新選組は脇役ながらも、なかなか印象的に描かれていたと思う。
そして、新選組を主役とする本作の連載(2001-02)を知り、小躍りしたものだ。
今になって読み返すと、幕末史観はいくらか古びた感じがするけれども、オリジナル展開に「実際にこういうことがあったら面白いのに」と感じるところは変わらない。
まったくの余談だが、作者が土方歳三を好きらしいのは、やはり名前が似ているからだろうか。
本作の初出は、毎日新聞(朝刊)2001年1月1日~翌年4月30日連載。
毎日新聞社より単行本(2001)上・下巻、幻冬舎より文庫本(2005)上・下巻が刊行された。
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