童門冬二『新撰組 山南敬助』
長編小説。理想と現実の間で自己の良心に忠実でありたいと願う、新撰組幹部・山南敬助の苦悩多き生涯。
山南敬助は、試衛館の門人であり、近藤や土方らと共に新撰組結成に携わった幹部なので、名前もそれなりに知られている。
ただ、前歴はよくわかっておらず、死去に至った理由も解明されていない。試衛館派の中では、藤堂平助と並ぶほど謎の多い人物と言える。
今日までに判明している事柄は、おおよそ以下のとおり。
◆天保4年(1833)陸奥仙台の剣術師範・山南某の子として出生した、とされる。ただし、伊達家中に山南姓の人物は未発見。
◆姓の読みは「やまなみ」が広く知られるが、関係者の記録に「三男」「三南」と当て字した例があり、実は「さんなん」だったと考えられる。(※本作では、「さんなん」は親しみを込めた渾名とされる)
◆江戸へ出て、大久保九郎兵衛の門人となり小野派一刀流を学ぶ。
(※永倉新八は「北辰一刀流」と証言しており、本作でもこれが採用されている)
◆ある時、近藤勇と立ちあって負け、試衛館に入門した。その後、天然理心流にも熟達し、万延2年(1861)以降は多摩地域への指導にも出向いている。
◆文武両道、色白で愛嬌のある顔立ち、温厚で子供好きな優しい人柄と伝わる。一方、浪士組として上京の途次、道中目付の村上俊五郎から言いがかりをつけられ烈火の如く怒った、という逸話もある。
◆新撰組では副長や総長を歴任するものの、文久3年後半からの活動は不明。病気で療養していた可能性が高い。一説に、大坂・岩城升屋(鴻池とも)における不逞浪士との戦いで負傷したのが原因という。
◆元治2年(1865)2月23日、切腹し果てる。新撰組の運営方針に失望して脱走、沖田に連れ戻された末の死と、永倉の回顧談(『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』)にある。ただし、永倉の手記『浪士文久報国記事』には言及がないなど、多くの疑問が残されている。
◆明里という島原の天神(太夫に次ぐ妓女の位)と馴染みを重ねていた、と伝わる。子母澤寛『新選組遺聞』中の八木為三郎の回顧談によると、21~22歳の上品な女。2~3ヶ月前に奉公を引退し実家に帰っていたが、報せを受けて急ぎ壬生を訪れ、山南と最後の別れを惜しんだ。ただ、明里の実在を証明する史料はなく、山南との別れも含めて子母澤の創作とする説がある。しかし、虚構と断定できるほどの根拠もない。
(※本作中の明里は、元治元年の春頃に落籍され、中堂寺村の休息所に住んでいる)
上記のような事柄が伝わっているものの、山南が小説・映画などで主役として扱われることは少ない。
彼を主人公とする長編小説は、少なくとも商業出版物では本作だけと記憶している。
本作の章立てと概要は、以下のようになっている。
氷の大津 …脱走し大津宿の旅宿に留まる山南と、単身追ってきた沖田との語らい。
霜の屯所 …沖田と壬生屯所に戻った山南、切腹の裁定を待ちながら過去を思い返す。以下、回想。
夏の池田屋 …明里との出会い。池田屋への出動を拒否して休息所に籠もり、新撰組の未来を憂う。
月見草の九条河原 …長州軍が京都に迫る。長州の嘆願が朝廷に拒否され、山南は失望する。
どんどん焼けの京都 …禁門の変。新撰組への悪評と、罪無き民衆の苦しみ。赤根武人との出会い。
間者さわぎの屯所 …隊内に潜入した間者の掃討。土方との対立が深まる。武田観柳斎とも確執を生じる。
公金が消えた屯所 …会計担当の河村伊三郎が公金を紛失。山南が擁護するも、土方が斬首に処す。
紅葉の高山寺 …河村遺族による抗議行動が続く。山南は明里と高山寺に出かけ、赤根と再会する。
雪の中堂寺村 …藤堂平助から新撰組改革計画を打ち明けられ、動揺する山南。
新春の大津 …伊東甲子太郎の入隊。伊東や藤堂の動向に疑いを持つ土方。伊東から協力要請される山南。
凍る四条橋 …屯所移転をめぐり土方と対立する一方、伊東の主張にもついていけないと感じる山南。
暗い川の伏見 …奇兵隊を追われた赤根が京都にて捕縛される。屯所移転の決定。山南の脱走。
雪が降る血染めの壬生 …以上、回想。明里との別れ。山南の切腹。
ストーリーは山南の心理、すなわち理想と現実とのギャップに由来する苦悩に焦点を置いて展開する。
山南の思想とは尊皇攘夷であり、これは新撰組結成の趣意と一致する。
未だに誤解されている節があるので強調しておくが、新撰組は佐幕一辺倒の集団ではなく、尊皇攘夷を是とした。
尊皇も攘夷も、当時は特別でも何でもなく、世の広くから支持された思想である。
ただ、これを実行に移す方法をめぐっては、各方面で議論紛糾した。
大まかに言うと、「天皇の信任を受けた幕府が主導して攘夷を行う」か、「天皇の下に有力大藩が連合して攘夷を行う(幕府もその一員として参加する)」か、という二派の対立が生じた。
新撰組は、会津藩(京都守護職)の下で、前者の公武合体路線に沿って活動している。
治安維持のため、この路線に反対する過激活動家を取り締まらなければならない。
しかし、山南としては、新撰組が治安取締集団に甘んじていることが、目標を忘れた堕落に思える。
そして、同じく攘夷を目的としている者と対立したり、まして危害を加えたりすることに納得がいかない。来たるべき攘夷実行の日には、長州とも共に戦う同志となるはずで、争う相手ではない。
池田屋事件の時には、浪士らを攻撃すべきでない、話し合って暴挙を思い留まらせたい、と主張する。
山南の主張に対して、土方歳三は、そのようなことはできないと否定する。
土方にしてみれば、攘夷のスローガンを幕府に反抗する方便に利用する過激派は許せない。
攘夷達成のためには公武合体が必要。新撰組の発言力を高めるには、実力を見せつけるしかない。
会津藩から俸給を受けている以上、会津藩の意向に従うのが当然であり、見捨てられたら食っていけない。
このように、運営・活動方針をめぐり、全編を通して山南と対立する。
両者の対立関係は、西村兼文『新撰組始末記』や子母澤寛『新選組物語』が根拠と思われる。
なおかつ、山南を大好きな作者としては、土方にこういう役回りを負わせざるをえないのだろう。
どちらの言い分にも、それなりの理はある。
個人的には、「攘夷実行とは具体的にいつどこで何をするのか」「活動資金はどこからどうやって調達するのか」という点で、土方のほうに分があるような気がする。
実際の山南は、江戸へ修業に出てから新撰組の活動が軌道に乗るまでの生活で、経済的な苦労を味わったろう。そういう人が、費用の問題を顧みず理想論を述べるものかどうか、引っかかりはした。
ほかに重要な登場人物として、沖田総司は、山南と兄弟にも似た信頼関係にある。
脱走した山南を連れ戻しに来たものの、本人には「逃げてもいい」と告げる。
それに続けて「逃げたって、どうせ追ってくるだろう」「それは追います。地の果てまで」というやりとりがある。お互い承知で追いかけっこをするなら、恋人同士の駆け落ちみたいなものでは…。
長州奇兵隊の赤根武人(※姓は正確には「赤禰」)は、尊皇攘夷実現のために身分差別を無くすべきと考え、天皇の下に誰もが平等な世の中を作りたいと考えている。
しかし、その考えは同じ長州志士らにも受け入れられず、孤独な奮闘を続けざるをえない。
山南の人柄を知って、この人なら理解してくれる、いずれ力を貸してくれる、と期待している。
山南のほうも、赤根の人柄を好ましく感じ、彼の言葉を真剣に受け止めている様子。
高い理想を掲げて努力しながらも挫折する人物という点で、山南との類似性を強く感じさせる。こうした人物に対する作者のシンパシーが伝わってくる。
伊東甲子太郎は、「浪士は、幕府や藩の思惑に左右されず純粋な行動ができる。浪士の連合によって尊皇攘夷を達成したい」と考えている。新撰組を尊攘組織に改革するため、山南に協力を要請する。
しかし、山南としては受け入れられない。藩の思惑云々と言いながら薩摩藩に後ろ盾を求めたり、サムライの身分に強くこだわったりする伊東の言動には、ついていけないものを感じるからだ。
伊東や藤堂が企図している新撰組改革の方法にも賛成できない。(※この方法については詳述を避けるが、永倉の回顧談に基づいた描写と思われ、『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』に明記されている)
あまり重要な扱いではないものの、武田観柳斎も強い印象を残す。
かなりの自信家で、勝手な思い込みが強く、すべてを自己判断で決めつける。
損得ずくに基づいて行動し、上にはへつらい下には威張る。
山南に対しては、当初は媚び、後にはあからさまな侮蔑を向けてくる。
他人に不快感しか与えないキャラクターとして描かれており、なんだか気の毒になってしまうほど。
山南の苦悩と鬱屈を慰めるのは、明里の存在である。
明里は無私の愛を捧げてひたすら尽くし、山南もその愛に安らぎを感じる。
ふたりが一緒に過ごす時間は、美しくも切なさに満ちている。
本作で残念に感じられたのは、山南の生まれ育った境遇がはっきりしないことである。
作中、少年時代の体験として、荷馬車で山道をたどり峠を越えようとして失敗、その体験がトラウマとなって後の人生にも深く影響した、という描写がある。
当時の住まいは仙台領のどこかの村にあったらしいが、生家の身分や家業、馬と荷車の調達方法は不分明。肉親がいるのか、帰宅後に叱られたりしなかったのか、一切触れられていない。そのため、せっかくの描写もリアリティ不足で、断片的イメージに留まってしまう。
どのみち、大幅に創作を採り入れざるをえない作品なのだから、境遇も大胆に創作し、具体的に設定したほうが良かった。そのほうが、トラウマを抱えて生きる山南の心理に、読者が共感しやすいと思える。
作者の長編小説としては初期の作品なので、やむをえないことであるかもしれないが。
主人公が苦悩の末に死んでゆくストーリーなので、読後感が良いとは言えない。
ただ、新撰組は「思想の欠片もなく徒に幕府の爪牙となった人斬り集団」ではなく、尊皇攘夷を掲げる思想集団であったにもかかわらず、様々な理由から誤解されてきた。このことを考えるきっかけとして、意味のある作品のひとつであろう。
1975年、単行本(四六判ハードカバー)が新人物往来社より刊行された。
2007年、文庫本が学陽書房・人物文庫として出版された。
余談ながら、作者の長編小説『志士の海峡』は、本作のスピンオフ的な作品。
主人公の赤根武人は、尊攘活動の中で身分差別のない平等な世を作ろうと努力するものの、その志は誰にも受け入れられない。農民や町人を入隊させた奇兵隊でさえ、内部では差別が当然のように行われていた。
そんな時、前歴にかかわらず隊士全員を武士として扱う新撰組の存在を知って、赤根は深く感銘を受ける。
ストーリーの終末近くに近藤、沖田、土方、伊東など新撰組の面々も登場する。
1985年、朝日新聞社より単行本。1992年、『奇兵隊燃ゆ』と改題、祥伝社ノン・ポシェットとして刊行。


山南敬助は、試衛館の門人であり、近藤や土方らと共に新撰組結成に携わった幹部なので、名前もそれなりに知られている。
ただ、前歴はよくわかっておらず、死去に至った理由も解明されていない。試衛館派の中では、藤堂平助と並ぶほど謎の多い人物と言える。
今日までに判明している事柄は、おおよそ以下のとおり。
◆天保4年(1833)陸奥仙台の剣術師範・山南某の子として出生した、とされる。ただし、伊達家中に山南姓の人物は未発見。
◆姓の読みは「やまなみ」が広く知られるが、関係者の記録に「三男」「三南」と当て字した例があり、実は「さんなん」だったと考えられる。(※本作では、「さんなん」は親しみを込めた渾名とされる)
◆江戸へ出て、大久保九郎兵衛の門人となり小野派一刀流を学ぶ。
(※永倉新八は「北辰一刀流」と証言しており、本作でもこれが採用されている)
◆ある時、近藤勇と立ちあって負け、試衛館に入門した。その後、天然理心流にも熟達し、万延2年(1861)以降は多摩地域への指導にも出向いている。
◆文武両道、色白で愛嬌のある顔立ち、温厚で子供好きな優しい人柄と伝わる。一方、浪士組として上京の途次、道中目付の村上俊五郎から言いがかりをつけられ烈火の如く怒った、という逸話もある。
◆新撰組では副長や総長を歴任するものの、文久3年後半からの活動は不明。病気で療養していた可能性が高い。一説に、大坂・岩城升屋(鴻池とも)における不逞浪士との戦いで負傷したのが原因という。
◆元治2年(1865)2月23日、切腹し果てる。新撰組の運営方針に失望して脱走、沖田に連れ戻された末の死と、永倉の回顧談(『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』)にある。ただし、永倉の手記『浪士文久報国記事』には言及がないなど、多くの疑問が残されている。
◆明里という島原の天神(太夫に次ぐ妓女の位)と馴染みを重ねていた、と伝わる。子母澤寛『新選組遺聞』中の八木為三郎の回顧談によると、21~22歳の上品な女。2~3ヶ月前に奉公を引退し実家に帰っていたが、報せを受けて急ぎ壬生を訪れ、山南と最後の別れを惜しんだ。ただ、明里の実在を証明する史料はなく、山南との別れも含めて子母澤の創作とする説がある。しかし、虚構と断定できるほどの根拠もない。
(※本作中の明里は、元治元年の春頃に落籍され、中堂寺村の休息所に住んでいる)
上記のような事柄が伝わっているものの、山南が小説・映画などで主役として扱われることは少ない。
彼を主人公とする長編小説は、少なくとも商業出版物では本作だけと記憶している。
本作の章立てと概要は、以下のようになっている。
氷の大津 …脱走し大津宿の旅宿に留まる山南と、単身追ってきた沖田との語らい。
霜の屯所 …沖田と壬生屯所に戻った山南、切腹の裁定を待ちながら過去を思い返す。以下、回想。
夏の池田屋 …明里との出会い。池田屋への出動を拒否して休息所に籠もり、新撰組の未来を憂う。
月見草の九条河原 …長州軍が京都に迫る。長州の嘆願が朝廷に拒否され、山南は失望する。
どんどん焼けの京都 …禁門の変。新撰組への悪評と、罪無き民衆の苦しみ。赤根武人との出会い。
間者さわぎの屯所 …隊内に潜入した間者の掃討。土方との対立が深まる。武田観柳斎とも確執を生じる。
公金が消えた屯所 …会計担当の河村伊三郎が公金を紛失。山南が擁護するも、土方が斬首に処す。
紅葉の高山寺 …河村遺族による抗議行動が続く。山南は明里と高山寺に出かけ、赤根と再会する。
雪の中堂寺村 …藤堂平助から新撰組改革計画を打ち明けられ、動揺する山南。
新春の大津 …伊東甲子太郎の入隊。伊東や藤堂の動向に疑いを持つ土方。伊東から協力要請される山南。
凍る四条橋 …屯所移転をめぐり土方と対立する一方、伊東の主張にもついていけないと感じる山南。
暗い川の伏見 …奇兵隊を追われた赤根が京都にて捕縛される。屯所移転の決定。山南の脱走。
雪が降る血染めの壬生 …以上、回想。明里との別れ。山南の切腹。
ストーリーは山南の心理、すなわち理想と現実とのギャップに由来する苦悩に焦点を置いて展開する。
山南の思想とは尊皇攘夷であり、これは新撰組結成の趣意と一致する。
未だに誤解されている節があるので強調しておくが、新撰組は佐幕一辺倒の集団ではなく、尊皇攘夷を是とした。
尊皇も攘夷も、当時は特別でも何でもなく、世の広くから支持された思想である。
ただ、これを実行に移す方法をめぐっては、各方面で議論紛糾した。
大まかに言うと、「天皇の信任を受けた幕府が主導して攘夷を行う」か、「天皇の下に有力大藩が連合して攘夷を行う(幕府もその一員として参加する)」か、という二派の対立が生じた。
新撰組は、会津藩(京都守護職)の下で、前者の公武合体路線に沿って活動している。
治安維持のため、この路線に反対する過激活動家を取り締まらなければならない。
しかし、山南としては、新撰組が治安取締集団に甘んじていることが、目標を忘れた堕落に思える。
そして、同じく攘夷を目的としている者と対立したり、まして危害を加えたりすることに納得がいかない。来たるべき攘夷実行の日には、長州とも共に戦う同志となるはずで、争う相手ではない。
池田屋事件の時には、浪士らを攻撃すべきでない、話し合って暴挙を思い留まらせたい、と主張する。
山南の主張に対して、土方歳三は、そのようなことはできないと否定する。
土方にしてみれば、攘夷のスローガンを幕府に反抗する方便に利用する過激派は許せない。
攘夷達成のためには公武合体が必要。新撰組の発言力を高めるには、実力を見せつけるしかない。
会津藩から俸給を受けている以上、会津藩の意向に従うのが当然であり、見捨てられたら食っていけない。
このように、運営・活動方針をめぐり、全編を通して山南と対立する。
両者の対立関係は、西村兼文『新撰組始末記』や子母澤寛『新選組物語』が根拠と思われる。
なおかつ、山南を大好きな作者としては、土方にこういう役回りを負わせざるをえないのだろう。
どちらの言い分にも、それなりの理はある。
個人的には、「攘夷実行とは具体的にいつどこで何をするのか」「活動資金はどこからどうやって調達するのか」という点で、土方のほうに分があるような気がする。
実際の山南は、江戸へ修業に出てから新撰組の活動が軌道に乗るまでの生活で、経済的な苦労を味わったろう。そういう人が、費用の問題を顧みず理想論を述べるものかどうか、引っかかりはした。
ほかに重要な登場人物として、沖田総司は、山南と兄弟にも似た信頼関係にある。
脱走した山南を連れ戻しに来たものの、本人には「逃げてもいい」と告げる。
それに続けて「逃げたって、どうせ追ってくるだろう」「それは追います。地の果てまで」というやりとりがある。お互い承知で追いかけっこをするなら、恋人同士の駆け落ちみたいなものでは…。
長州奇兵隊の赤根武人(※姓は正確には「赤禰」)は、尊皇攘夷実現のために身分差別を無くすべきと考え、天皇の下に誰もが平等な世の中を作りたいと考えている。
しかし、その考えは同じ長州志士らにも受け入れられず、孤独な奮闘を続けざるをえない。
山南の人柄を知って、この人なら理解してくれる、いずれ力を貸してくれる、と期待している。
山南のほうも、赤根の人柄を好ましく感じ、彼の言葉を真剣に受け止めている様子。
高い理想を掲げて努力しながらも挫折する人物という点で、山南との類似性を強く感じさせる。こうした人物に対する作者のシンパシーが伝わってくる。
伊東甲子太郎は、「浪士は、幕府や藩の思惑に左右されず純粋な行動ができる。浪士の連合によって尊皇攘夷を達成したい」と考えている。新撰組を尊攘組織に改革するため、山南に協力を要請する。
しかし、山南としては受け入れられない。藩の思惑云々と言いながら薩摩藩に後ろ盾を求めたり、サムライの身分に強くこだわったりする伊東の言動には、ついていけないものを感じるからだ。
伊東や藤堂が企図している新撰組改革の方法にも賛成できない。(※この方法については詳述を避けるが、永倉の回顧談に基づいた描写と思われ、『新撰組顛末記』『新選組奮戦記』に明記されている)
あまり重要な扱いではないものの、武田観柳斎も強い印象を残す。
かなりの自信家で、勝手な思い込みが強く、すべてを自己判断で決めつける。
損得ずくに基づいて行動し、上にはへつらい下には威張る。
山南に対しては、当初は媚び、後にはあからさまな侮蔑を向けてくる。
他人に不快感しか与えないキャラクターとして描かれており、なんだか気の毒になってしまうほど。
山南の苦悩と鬱屈を慰めるのは、明里の存在である。
明里は無私の愛を捧げてひたすら尽くし、山南もその愛に安らぎを感じる。
ふたりが一緒に過ごす時間は、美しくも切なさに満ちている。
本作で残念に感じられたのは、山南の生まれ育った境遇がはっきりしないことである。
作中、少年時代の体験として、荷馬車で山道をたどり峠を越えようとして失敗、その体験がトラウマとなって後の人生にも深く影響した、という描写がある。
当時の住まいは仙台領のどこかの村にあったらしいが、生家の身分や家業、馬と荷車の調達方法は不分明。肉親がいるのか、帰宅後に叱られたりしなかったのか、一切触れられていない。そのため、せっかくの描写もリアリティ不足で、断片的イメージに留まってしまう。
どのみち、大幅に創作を採り入れざるをえない作品なのだから、境遇も大胆に創作し、具体的に設定したほうが良かった。そのほうが、トラウマを抱えて生きる山南の心理に、読者が共感しやすいと思える。
作者の長編小説としては初期の作品なので、やむをえないことであるかもしれないが。
主人公が苦悩の末に死んでゆくストーリーなので、読後感が良いとは言えない。
ただ、新撰組は「思想の欠片もなく徒に幕府の爪牙となった人斬り集団」ではなく、尊皇攘夷を掲げる思想集団であったにもかかわらず、様々な理由から誤解されてきた。このことを考えるきっかけとして、意味のある作品のひとつであろう。
1975年、単行本(四六判ハードカバー)が新人物往来社より刊行された。
2007年、文庫本が学陽書房・人物文庫として出版された。
余談ながら、作者の長編小説『志士の海峡』は、本作のスピンオフ的な作品。
主人公の赤根武人は、尊攘活動の中で身分差別のない平等な世を作ろうと努力するものの、その志は誰にも受け入れられない。農民や町人を入隊させた奇兵隊でさえ、内部では差別が当然のように行われていた。
そんな時、前歴にかかわらず隊士全員を武士として扱う新撰組の存在を知って、赤根は深く感銘を受ける。
ストーリーの終末近くに近藤、沖田、土方、伊東など新撰組の面々も登場する。
1985年、朝日新聞社より単行本。1992年、『奇兵隊燃ゆ』と改題、祥伝社ノン・ポシェットとして刊行。
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