名和弓雄『間違いだらけの時代劇』
時代考証家の著者が、制作現場での体験をまじえ、フィクションと史実との差違を語るエッセイ集。
正編と続編の2冊が刊行されている。
テレビや映画の時代劇について、時代考証の問題点を指摘する書籍は、あまた出版されている。そのツッコミぶりが面白く、歴史の勉強にもなるので、手に取ってみることが多い。
本書の著者・名和弓雄は、正木流古武術宗家として剣術や十手術を極め、時代劇の考証ならびに砲術・古武術の指導に長年携わった。NHK大河ドラマは「樅の木は残った」から「琉球の風」まで、民放ドラマ・映画・舞台も多数手がけている。
その過程にて、強風の中で火縄銃を放つ、本物の鎧を刀や鉄砲で攻撃する、などの実験も行なった。
豊富な実体験に基づき書かれた本書は、リアリティがあって大変興味深い。
文章はわかりやすく、写真や絵図も適宜添えられ、肩の凝らない読みものとして楽しめる。
それぞれの章立ては、以下のとおり。各章は、さらに細かく10~30項に分かれている。
正編……時代劇の考証にまつわる話が中心。
1.様にならない作法のお笑い
2.講釈師、見てきたような嘘を言い
3.テレビの花形、捕物帖の取り違い
4.知らぬが仏、小道具、大道具の間違い
5.いざ戦場に!便利にできている衣裳・武具
6.これはビックリ!常識破る珍兵器
続編……武具・甲冑など武将の装備、著者の武具・骨董コレクションに関する話題が中心。
1.甲冑を着用して戦えば
2.捕者にはこんな捕具が必要
3.考証・なるほど時代劇
4.珍談奇談骨董談義
新選組に関連した記述が、両編に散見される。
例えば、忠臣蔵の芝居と新選組の隊服の関連(正編)、時代小説『女新選組』の考証的な問題点(正編)、近藤勇が処刑された板橋刑場のこと(続編)などである。
中でも注目すべきは、「沖田総司君の需(もと)めに応じ」(続編)と題する一項。
沖田総司の関連著作を多く手がけた作家・森満喜子は、沖田の注文で作られたという短刀を所有していた。
その詳細が「沖田総司君の需めに応じ」によってわかる。ごく大まかにまとめると下記のような内容。
著者・名和弓雄はある時、大牟田市内の催しにて、地元在住の森満喜子と知りあった。
いろいろと話すうち、森が所有する短刀の鑑定を依頼された。
刀身も拵えも良いものであり、中心(茎)には「沖田総司君の需めに応じ、文久三年八月、京に於て、信濃国住人浮州之を鍛う」との銘が切ってあった(※原文のままでなく、著者が読み下し文に改めた模様)。
名和は調査に入るが、「信濃国住人浮州」という刀工の実在は確認できない。
実物を見た時に「武州下原刀では」と直感したことから、下原刀に詳しい研究家・村上孝介に問い合わせた。
わかったことは次のとおり。
◯「浮州」は、下原刀工の酒井濤江之介正近が用いた偽銘である。
◯濤江之介は、自作に「近藤勇君のために」「土方歳三君のために」などの銘を、明治になっても切った。
◯最期は多摩川の河原で斬首に処された。理由は偽物作りと伝わる。
(※正編「幽霊刀工横行」には、八王子千人同心により打ち首にされたとの旨がある。)
他の研究家にも問い合わせてみたが、これ以上の詳細は掴めなかった。
濤江之介が本当に沖田からの依頼で作刀したとすれば、偽銘を切ったのはなぜか。また、明治期に入れば新選組に関連するものなど世間を憚るばかりで、作っても利益になるとは思えない――
と名和は疑問を呈しつつ、「沖田をおもしろく書ける作家なら、この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」と結ぶ。
森満喜子は、これを受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう。
収録書『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞があることからも間違いない。
こうした経緯を知って、下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた。
【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】
本国は奥州白河。(※関係の有無は不明だが、沖田総司の父は白河藩に仕えていた。)
細川正義の門下として学んだとされる。
天保末年(1843頃)より八王子の小比企村に在住した。
(※埼玉県入間郡越生町にも、正近の工房跡と伝わる場所があるとか。)
弘化3年(1846)、同4年、嘉永6年(1853)などの年紀が入った八王子千人同心の佩刀を鍛造している。
安政2年(1855)、武蔵太郎安貞と合作した太刀(八王子市指定文化財)を高尾山薬王院に献納。
鑑定の鞘書きを残しており、博識で鑑識眼もあった節がうかがえる。
明治初年、偽物を作った廉により、多摩の浅川河原で斬首に処された。
一方、小栗騒動との関連により新政府軍の横暴の犠牲になった、とする説もあるものの詳細不明。
(参考:『刀剣と歴史』2010年5月号 大沢都志夫「酒井濤江介正近について」)
【細川正義】
初代・細川良助正義(1758~1814)と、二代・細川主税佐正義(1786~1858)がいる。
濤江之介の師匠と考えられるのは二代のほうか。
二代正義は、天明6年(1786)初代の長男として下野国鹿沼に生まれる。
水心子に入門し相州伝・備前伝を会得、江戸にて津山藩お抱えとなる。安政5年(1858)73歳で死去。
新々刀期(天明年間~明治初年)の下野刀工の最高峰ともされている。
【武蔵太郎安貞】
下原刀工の弟子筋。同名の刀工が何代かにわたり存在した様子で、濤江之介と合作したのは四代目か。
鍛冶場を上長房村(八王子市裏高尾町・西浅川町)に置いた。文化4年(1087)、安政5年(1858)の年紀が見られる。墓は小名路(八王子西浅川町)の金南寺にある。
【小栗騒動】
幕府の要職を歴任した小栗上野介忠順は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、徹底抗戦を唱えて罷免された。そこで江戸を去り、知行地の上州権田村に隠棲する。
上州では、前年11~12月の出流山事件により治安が悪化(※薩摩系浪士が率いる約160人が武装蜂起し、幕府と諸藩に追討された)。その後「世直し」を掲げる打ち壊しが頻発していた。また、1月に小栗の新政府迎撃構想を受け、岩鼻代官所の渋谷鷲郎(関東取締出役)が発した農兵取立命令は、農民たちの反発を買った。さらに「小栗は大金を蓄えている」との噂が流れ、これを奪おうと企てる博徒一味も現れた模様。
そして3月4日、博徒に煽動された近隣村々の暴徒が、権田村に押し寄せた。その数は約2千人ともいう。
しかし、小栗の下にはフランス式調練を受けた家臣たちがおり、最新の火器を備えていた。権田村の人々も協力して防衛に努める。彼らの働きにより、暴徒は追い払われた。
約2ヶ月後、小栗は新政府軍によって捕縛、処刑された。小栗の暴徒鎮圧に用いた武備が「新政府に対する叛意の証拠」とみなされた節もある。
以上が大略であるが、濤江之介が騒動にどう関わっていたというのか、まったくわからない。
(参考:高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』、長谷川伸『相楽総三とその同志』)
【武州下原刀】
下原鍛冶が製作した刀剣類の通称。
下原鍛冶とは、武蔵国多摩郡の下恩方村、横川村、慈根寺村(八王子市)などに散在した刀工群。(※濤江之介が住んだ小比企村は、この村々の南東に位置する近村。)
山本姓を名乗る一族が、室町時代末期より山内上杉氏~小田原北条氏~徳川幕府と歴代支配者の庇護を受け、御用を務めてきた。江戸中期以降は衰退するが、幕末まで続く武州唯一の刀工群である。
新々刀の祖・水心子正秀も修業時代、下原鍛冶の弟子筋・武蔵丸吉英に師事した。
「下原(したはら)」は「下腹」に通じ切腹を連想させる、と厭われもした一方、切れ味の良さには定評があった。なお、文政期や明治・大正期に「しもはら」と読みがながふられた例もあり、いつから「したはら」の読みが定着したのか不明。
下原鍛冶の弟子筋に、乞田鍛冶の吉之・正行兄弟がいる。
吉之は天保5年(1834)生まれ、正行は天保14年(1843)生まれ。父は貝取村瓜生(多摩市)の濱田助左衛門。
正行の師匠は、濤江之介正近であった。
また、兄弟は新選組隊士の刀や三多摩壮士の杖刀を作ったともいう。
(参考:八王子市郷土資料館『下原刀』、福生市郷土資料館『武州下原刀展』『武州下原刀展II』)
天然理心流(増田蔵六系)の師範・山本満次郎は、下原刀工の本流・山本一族の出身である。
満次郎の門人には、後に新選組隊士となる中島登もいた。
山本一族は、歴代領主から広大な除地(免税地)を与えられていたが、明治新政府に特権を剥奪、課税されることとなる。満次郎は、一族の代表として復権を嘆願したものの叶わず、明治4年に切腹して果てた。
(参考:小島政孝『武術 天然理心流』)
以上のとおり下原刀は、天然理心流、八王子千人同心、新選組ともそれぞれ関わりがあった。
濤江之介が「浮州」の銘を用いた理由は不明ながら、沖田総司ら新選組隊士から作刀を依頼されたことは実際にあったのでは、と思えてくる。
また、現代の美術品的鑑定では高評価をされていない下原刀だが、上々の作もあり、中には別の鍛冶の作と誤って判断されているものもあるらしい。
新選組のふるさと多摩の郷土に根ざす下原刀と下原鍛冶が、今後も末永く研究され、正当な評価を受けることを願ってやまない。
話を本書に戻そう。
新選組に直接関係しない項にも、興味深い要素は多い。特に、次の項目が強く印象に残った。
「徳川に過ぎたるもの、唐の兜」(続編)…戊辰戦争で新政府軍の隊長などが着けていた熊毛の被り物は、江戸城から没収したヤクの毛だった。このヤクの毛を徳川家が入手した意外な経緯。
「火吹きだるま」(続編)…大村益次郎の渾名として名が知れているわりに、実体は意外に知られていないこの道具についての詳しい解説。
正編『間違いだらけの時代劇』は1989年、続編『続 間違いだらけの時代劇』は1994年に初版発行された。
いずれも河出文庫。


正編と続編の2冊が刊行されている。
テレビや映画の時代劇について、時代考証の問題点を指摘する書籍は、あまた出版されている。そのツッコミぶりが面白く、歴史の勉強にもなるので、手に取ってみることが多い。
本書の著者・名和弓雄は、正木流古武術宗家として剣術や十手術を極め、時代劇の考証ならびに砲術・古武術の指導に長年携わった。NHK大河ドラマは「樅の木は残った」から「琉球の風」まで、民放ドラマ・映画・舞台も多数手がけている。
その過程にて、強風の中で火縄銃を放つ、本物の鎧を刀や鉄砲で攻撃する、などの実験も行なった。
豊富な実体験に基づき書かれた本書は、リアリティがあって大変興味深い。
文章はわかりやすく、写真や絵図も適宜添えられ、肩の凝らない読みものとして楽しめる。
それぞれの章立ては、以下のとおり。各章は、さらに細かく10~30項に分かれている。
正編……時代劇の考証にまつわる話が中心。
1.様にならない作法のお笑い
2.講釈師、見てきたような嘘を言い
3.テレビの花形、捕物帖の取り違い
4.知らぬが仏、小道具、大道具の間違い
5.いざ戦場に!便利にできている衣裳・武具
6.これはビックリ!常識破る珍兵器
続編……武具・甲冑など武将の装備、著者の武具・骨董コレクションに関する話題が中心。
1.甲冑を着用して戦えば
2.捕者にはこんな捕具が必要
3.考証・なるほど時代劇
4.珍談奇談骨董談義
新選組に関連した記述が、両編に散見される。
例えば、忠臣蔵の芝居と新選組の隊服の関連(正編)、時代小説『女新選組』の考証的な問題点(正編)、近藤勇が処刑された板橋刑場のこと(続編)などである。
中でも注目すべきは、「沖田総司君の需(もと)めに応じ」(続編)と題する一項。
沖田総司の関連著作を多く手がけた作家・森満喜子は、沖田の注文で作られたという短刀を所有していた。
その詳細が「沖田総司君の需めに応じ」によってわかる。ごく大まかにまとめると下記のような内容。
著者・名和弓雄はある時、大牟田市内の催しにて、地元在住の森満喜子と知りあった。
いろいろと話すうち、森が所有する短刀の鑑定を依頼された。
刀身も拵えも良いものであり、中心(茎)には「沖田総司君の需めに応じ、文久三年八月、京に於て、信濃国住人浮州之を鍛う」との銘が切ってあった(※原文のままでなく、著者が読み下し文に改めた模様)。
名和は調査に入るが、「信濃国住人浮州」という刀工の実在は確認できない。
実物を見た時に「武州下原刀では」と直感したことから、下原刀に詳しい研究家・村上孝介に問い合わせた。
わかったことは次のとおり。
◯「浮州」は、下原刀工の酒井濤江之介正近が用いた偽銘である。
◯濤江之介は、自作に「近藤勇君のために」「土方歳三君のために」などの銘を、明治になっても切った。
◯最期は多摩川の河原で斬首に処された。理由は偽物作りと伝わる。
(※正編「幽霊刀工横行」には、八王子千人同心により打ち首にされたとの旨がある。)
他の研究家にも問い合わせてみたが、これ以上の詳細は掴めなかった。
濤江之介が本当に沖田からの依頼で作刀したとすれば、偽銘を切ったのはなぜか。また、明治期に入れば新選組に関連するものなど世間を憚るばかりで、作っても利益になるとは思えない――
と名和は疑問を呈しつつ、「沖田をおもしろく書ける作家なら、この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」と結ぶ。
森満喜子は、これを受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう。
収録書『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞があることからも間違いない。
こうした経緯を知って、下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた。
【酒井濤江之介正近 さかいなみえのすけまさちか】
本国は奥州白河。(※関係の有無は不明だが、沖田総司の父は白河藩に仕えていた。)
細川正義の門下として学んだとされる。
天保末年(1843頃)より八王子の小比企村に在住した。
(※埼玉県入間郡越生町にも、正近の工房跡と伝わる場所があるとか。)
弘化3年(1846)、同4年、嘉永6年(1853)などの年紀が入った八王子千人同心の佩刀を鍛造している。
安政2年(1855)、武蔵太郎安貞と合作した太刀(八王子市指定文化財)を高尾山薬王院に献納。
鑑定の鞘書きを残しており、博識で鑑識眼もあった節がうかがえる。
明治初年、偽物を作った廉により、多摩の浅川河原で斬首に処された。
一方、小栗騒動との関連により新政府軍の横暴の犠牲になった、とする説もあるものの詳細不明。
(参考:『刀剣と歴史』2010年5月号 大沢都志夫「酒井濤江介正近について」)
【細川正義】
初代・細川良助正義(1758~1814)と、二代・細川主税佐正義(1786~1858)がいる。
濤江之介の師匠と考えられるのは二代のほうか。
二代正義は、天明6年(1786)初代の長男として下野国鹿沼に生まれる。
水心子に入門し相州伝・備前伝を会得、江戸にて津山藩お抱えとなる。安政5年(1858)73歳で死去。
新々刀期(天明年間~明治初年)の下野刀工の最高峰ともされている。
【武蔵太郎安貞】
下原刀工の弟子筋。同名の刀工が何代かにわたり存在した様子で、濤江之介と合作したのは四代目か。
鍛冶場を上長房村(八王子市裏高尾町・西浅川町)に置いた。文化4年(1087)、安政5年(1858)の年紀が見られる。墓は小名路(八王子西浅川町)の金南寺にある。
【小栗騒動】
幕府の要職を歴任した小栗上野介忠順は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、徹底抗戦を唱えて罷免された。そこで江戸を去り、知行地の上州権田村に隠棲する。
上州では、前年11~12月の出流山事件により治安が悪化(※薩摩系浪士が率いる約160人が武装蜂起し、幕府と諸藩に追討された)。その後「世直し」を掲げる打ち壊しが頻発していた。また、1月に小栗の新政府迎撃構想を受け、岩鼻代官所の渋谷鷲郎(関東取締出役)が発した農兵取立命令は、農民たちの反発を買った。さらに「小栗は大金を蓄えている」との噂が流れ、これを奪おうと企てる博徒一味も現れた模様。
そして3月4日、博徒に煽動された近隣村々の暴徒が、権田村に押し寄せた。その数は約2千人ともいう。
しかし、小栗の下にはフランス式調練を受けた家臣たちがおり、最新の火器を備えていた。権田村の人々も協力して防衛に努める。彼らの働きにより、暴徒は追い払われた。
約2ヶ月後、小栗は新政府軍によって捕縛、処刑された。小栗の暴徒鎮圧に用いた武備が「新政府に対する叛意の証拠」とみなされた節もある。
以上が大略であるが、濤江之介が騒動にどう関わっていたというのか、まったくわからない。
(参考:高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』、長谷川伸『相楽総三とその同志』)
【武州下原刀】
下原鍛冶が製作した刀剣類の通称。
下原鍛冶とは、武蔵国多摩郡の下恩方村、横川村、慈根寺村(八王子市)などに散在した刀工群。(※濤江之介が住んだ小比企村は、この村々の南東に位置する近村。)
山本姓を名乗る一族が、室町時代末期より山内上杉氏~小田原北条氏~徳川幕府と歴代支配者の庇護を受け、御用を務めてきた。江戸中期以降は衰退するが、幕末まで続く武州唯一の刀工群である。
新々刀の祖・水心子正秀も修業時代、下原鍛冶の弟子筋・武蔵丸吉英に師事した。
「下原(したはら)」は「下腹」に通じ切腹を連想させる、と厭われもした一方、切れ味の良さには定評があった。なお、文政期や明治・大正期に「しもはら」と読みがながふられた例もあり、いつから「したはら」の読みが定着したのか不明。
下原鍛冶の弟子筋に、乞田鍛冶の吉之・正行兄弟がいる。
吉之は天保5年(1834)生まれ、正行は天保14年(1843)生まれ。父は貝取村瓜生(多摩市)の濱田助左衛門。
正行の師匠は、濤江之介正近であった。
また、兄弟は新選組隊士の刀や三多摩壮士の杖刀を作ったともいう。
(参考:八王子市郷土資料館『下原刀』、福生市郷土資料館『武州下原刀展』『武州下原刀展II』)
天然理心流(増田蔵六系)の師範・山本満次郎は、下原刀工の本流・山本一族の出身である。
満次郎の門人には、後に新選組隊士となる中島登もいた。
山本一族は、歴代領主から広大な除地(免税地)を与えられていたが、明治新政府に特権を剥奪、課税されることとなる。満次郎は、一族の代表として復権を嘆願したものの叶わず、明治4年に切腹して果てた。
(参考:小島政孝『武術 天然理心流』)
以上のとおり下原刀は、天然理心流、八王子千人同心、新選組ともそれぞれ関わりがあった。
濤江之介が「浮州」の銘を用いた理由は不明ながら、沖田総司ら新選組隊士から作刀を依頼されたことは実際にあったのでは、と思えてくる。
また、現代の美術品的鑑定では高評価をされていない下原刀だが、上々の作もあり、中には別の鍛冶の作と誤って判断されているものもあるらしい。
新選組のふるさと多摩の郷土に根ざす下原刀と下原鍛冶が、今後も末永く研究され、正当な評価を受けることを願ってやまない。
話を本書に戻そう。
新選組に直接関係しない項にも、興味深い要素は多い。特に、次の項目が強く印象に残った。
「徳川に過ぎたるもの、唐の兜」(続編)…戊辰戦争で新政府軍の隊長などが着けていた熊毛の被り物は、江戸城から没収したヤクの毛だった。このヤクの毛を徳川家が入手した意外な経緯。
「火吹きだるま」(続編)…大村益次郎の渾名として名が知れているわりに、実体は意外に知られていないこの道具についての詳しい解説。
正編『間違いだらけの時代劇』は1989年、続編『続 間違いだらけの時代劇』は1994年に初版発行された。
いずれも河出文庫。
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