新選組の本を読む ~誠の栞~

小説 史談 エッセイ マンガ 研究書など

 子母澤寛『鴨川物語』 

長編小説。幕末動乱の京洛を舞台として、いわゆる勤王志士たちと新選組との闘い、そして彼らに関わる女たちの群像劇を描く。

子母澤寛の新選組関連著作といえば、『新選組始末記』(1928)『新選組遺聞』(1929)『新選組物語』(1931)の新選組三部作がよく知られる。この三部作は、子母澤が30代後半の頃に発表した初期作品で、内容は取材をもとにした実録ふうである。
それに対して本作『鴨川物語』(1964)は、70代前半の晩年に書かれた。(※他界したのは1968年、満76歳の時。)内容は、史実を踏まえながらも多くの創作を交えた小説である。

本作のストーリーは、京都に天誅事件が頻発した文久2年から、鳥羽伏見戦争勃発の慶応4年1月までを主軸としている。あらすじは下記のとおり。

幕末、鴨川の三条河原に、3人兄弟の髪結職人が床見世を並べていた。
見世はよしず張りの簡単な構えであり、兄弟はいずれも20代の若さではあったが、人目につきやすい立地と腕の良さで繁盛する。
長男・弥吉は、目明しの文吉親分と親しく、勤王志士の動向を探っては幕府方に情報を渡していた。
これに対し、三男・弥三郎は勤王贔屓で、肥後の宮部鼎蔵や薩摩の田中新兵衛に幕府方の情報を流す。
彼らの行動は、単なる金銭的利益のためではなく、自らの信念に基づいていた。
こうした兄と弟の間で、次男・弥之助は、勤王派と幕府派との争いには関わらず、ひたすら仕事に専念する。

幕府派の配下、目明しの文吉は、その身軽さ素早さから「猿(ましら)」の異名をとる親分である。
文吉の養女・お吉も、勤王志士に近づき情報を得ては、守護職の探索方・跡部主水に渡す。ふたりは相思相愛の仲であった。
ただ、お吉は探索のため色仕掛けを用いなければならず、任務と主水への操立てとの板挟みに苦しんでいた。

勤王派の過激分子は、自らの障害となる人物の暗殺という強硬手段に走る。
文久2年7月20日、九条関白家臣の島田左近が、薩摩の田中新兵衛らに斬殺され、首級を四条の川辺に晒された。
次いで閏8月22日、同じく九条関白家臣の宇卿玄蕃が、土佐の岡田以蔵らによって殺害・梟首される。
同月30日には、目明し文吉も、岡田以蔵らに暴行され、三条河原に晒されながら息絶えた。
そのほか、翌年にかけて要人などが「天誅」の名目で暗殺・梟首されたり、あるいは殺されないまでも裸体を縛られ生き晒しにされたり、といった物騒な事件が相次ぐ。

将軍上洛を控えた幕府は、庄内の志士・清河八郎の献策を容れ、治安回復のため浪士組を組織、投入した。
文久3年2月、入京した浪士組は、清河の策略によってまもなく江戸へ戻ることに。
しかし、それを不服とする芹沢鴨、近藤勇らのグループは脱退、残留。京都守護職・松平容保の預かりとなる。
こうして成立した新選組は、次第に人数を増やしつつ、過激分子の取締りに力を入れる。
そのため、勤王派による暗殺事件は減少し、治安はいくらか回復するも、政情不安による暗闘は続いた。

髪結床の3人兄弟は、新選組の探索方隊士・山崎烝を通じて、新選組幹部とも関わるようになる。
三男・弥三郎は、文吉の無惨な最期を目の当たりにして、勤王派に愛想を尽かし、幕府方に肩入れしていた。
兄と弟がともに幕府派となったことで、次男・弥之助も、密偵として働き出す。

そんな時、跡部主水が殺害された。恋人お吉も、同じ犯人と思われる者たちに暴行され、自害する。
守護職の探索方が殺された上、若い女が大の男によってたかって蹂躙されたことで、弥吉ら兄弟は激しく憤る。
犯人6名を探り出し、新選組に報告した。
山崎を介して報告を受けた近藤勇は、犯人らを「天下騒擾」の罪に問い、斬るよう命を下す。


題名の『鴨川物語』は、鴨川の水面が映し出す人間模様、といった意味であろうか。
ストーリーは全43章によって構成され、それぞれ章題がついている。
ただ、章の変わり目と筋の変わり目とは、必ずしも一致しない。新章に入っても話が前章から続いていることが多いので、読んでいる時、どの辺で中断すればよいか少々迷う(笑)

ところで、子母澤寛『新選組物語』の「隊士絶命記」に、新選組の密偵を務めた床伝とその娘おみのの話がある。
髪結床を営む父娘が、勤王志士の策謀を探っては密かに新選組へ流していた。
しかし、ついに密偵であることが露見してしまう。志士らによって父は殺害され、娘は消息不明となった。

子母澤は、床伝の近所にあった東坊の娘から、この話を聞いたとしている。
東坊の娘とは、より正確に言えば、西本願寺内蓮城院東坊の住職・佐々木信瑞の長女チマ。明治3年(1870)、16歳にして当時43歳の秦林親の後妻となった。このような年の差婚が実現した事情は、わからない。
秦林親は、新選組を脱退し御陵衛士となった篠原泰之進の改名であり、維新後は弾正台や大蔵省の役人を経て、民間の事業家へと転身している。
秦は明治44年(1911)まで存命であったというから、チマもそれなりに長く生きて子母澤と面談する機会があった、と考えても不自然ではないだろう。

本作『鴨川物語』は、この床伝父娘の物語を、猿の文吉と娘お吉に置き換え、その他設定にも種々のアレンジを加えた作品と言える。
猿の文吉は、床伝とは別人の実在した目明しであり、前述あらすじのとおり暗殺されたのも事実である。ただし、お吉のような娘が実際にいたかどうかは不明。
作者がなぜ床伝物語を文吉物語に作り替えたのか、その理由も謎である。
単なる憶測だけれども、床伝が一瞬にして首を打たれたのに対し、文吉は長時間にわたる苦痛の果てに死んだので、暗殺者の残忍さがより際立つと考えたのかもしれない。

なお、子母澤は、床伝の殺害を慶応2年7月の事件としている。
一方、『藤岡屋日記』には慶応3年7月、中筋通魚棚下ル在住の「和泉屋伝吉と申す髪結職の者」が殺害されたと書き留められており、これを床伝事件とする見解もある。

本作中、文久2年から3年にかけての暗殺事件の描写は、平尾道雄『維新暗殺秘録』(1930)との共通項が多く、これを参考にしていることがわかる。
平尾道雄は『新選組史』(1928、後年『新選組史録』に改訂改題)の著者であり、子母澤とは新選組研究を通じて親交があった。
つまりこれも、ふたりが互いの著作に影響を与えあった例のひとつと言えるだろう。

志士たちが京都・大坂・神戸の花街に多くの女性と浮き名を流すくだり、特に「勤王芸者」として名高い君尾の回想談は、井筒月翁『維新俠艶録』(1928)を参考書としている。
『維新俠艶録』には「品川楼の嘉志久」と題する短編が収録されており、これは子母澤寛『新選組物語』所収の「かしく女郎」と題材がまったく同じ。子母澤が「本材料はかつて先輩井筒月翁氏に供したことがあります」と注記している。
ここからも、両者の間に文筆上の交流があったことが窺える。

本作『鴨川物語』近藤勇は、人物像が際立って優れている。
泰然自若として、人当たりは穏やか。武術だけでなく教養面の修養も心がけ、書の練習を欠かさない。
分離脱退した伊東甲子太郎とは話し合おうとし、伊東からも人を騙し討ちするような者ではないと信頼される。

そういう近藤だが、女性関係はかなり盛んである。
島原木津屋の金太夫は、落籍され、愛妾お才として休息所に住まうようになる。お才は、『新選組始末記』などに登場する深雪太夫がモデルであろう。
そのほか、祇園「山の緒」養女お芳、三本木の芸妓駒野、お才の妹であるお孝、等々数え切れない。
これほど馴染みの女が多いのは、好色だからではない。対抗勢力に命を狙われ気が休まらないので、襲撃されにくいよう夜を過ごす場所を日々変えるため、という理由付けがなされている。
また、花街で派手などんちゃん騒ぎをしたり、嫌がる女を無理やり口説いたり、といったこともせず綺麗に遊んだ、とも説明されている。

この近藤勇に比べると、長州の伊藤俊輔(博文)がやたらとあちこちの女に言い寄り、あの手この手を使って強引にものにする様子は、呆れるばかりだ(笑)

新選組の草創直後には、土方歳三山南敬助との確執についての描写がある。
ただ、その果てに山南が脱走・切腹するといった経緯は、なぜか描かれずじまいとなっている。
作中、山南に関して興味深いのは、芹沢鴨粛清の巻き添えとなって死んだお梅の亡骸を、菱屋太兵衛に引き取らせた経緯。井上源三郎や土方歳三の交渉にもかかわらず菱屋が拒絶したものを、山南が穏やかに話し合って解決した。彼の人柄がわかるエピソードと言えよう。
なお、この経緯には八木為三郎(新選組の屯所となった壬生八木家の子息)の証言が引用されている。
ただし、『新選組遺聞』の「壬生屋敷 八木為三郎老人壬生ばなし」には、お梅の実家が引き取ったとあるので、本作の筋はやはり創作なのかもしれない。

新選組隊士・大石鍬次郎について、本作には壬生の下駄屋の娘と恋仲になった、という話が出てくる。
「人斬り鍬次郎」などと粗暴な人物のように言われる彼だが、新選組の京都撤退に際し、彼女との別れに残した言葉には真心がこもっている。

鳥羽伏見戦争後に江戸へ引き上げる時、土方歳三は髪結3人兄弟の向後を案じて、親身に世話をする。
初めて会った時にはずいぶん怖い冷たそうな人と感じた彼らも、土方を見直すのだった。

江戸へ向かう航海中、山崎烝の水葬の描写もある。
水葬は臨終の山崎が自ら望んだことであり、その最期の言葉が切ない。

最終章、明治44年(1911)秋の御殿場(静岡県)にて、年老いた小説家と老女とが偶然に出会う。
老女は金太夫ことお才の晩年の姿であり、小説家は子母澤自身がモデルかと思われる。
小説家は昔話を語ってくれるよう頼み、老女もまた快く思い出の数々を語るのだった。
このくだりは、鹿島淑男『近藤勇』(1911)の中の「勇の情史 愛妾深雪太夫」を参考としている。(『新選組始末記』の「四六 勇の風采」にも、当該部分が引用されている。)
こちらでは、鹿島自身が箱根から関西方面へ向かう途中、同じ列車に乗り合わせた老婆が深雪太夫であり、彼女の身の上話が一人称で詳細に語られる。事実かどうか諸研究家には疑問視されている話ではあるけれども、非常に興味深く心に残る。
ちなみに、『近藤勇』のほうには近藤が血腥い行いを好んだとかいう一節があるのだが、本作にはもちろんそんな話は出てこない。

子母澤が本作を執筆した理由は、この最終章、老小説家の言葉に端的に表れている。以下引用。

「彼らは後ちに天下をとりました。勝てば官軍という言葉がある。
その通りで自分達の野心を遂げようという大ばくちがうまく当って、さてそうなると、自分達の悪い事、不都合な事はみんな抹殺し、日本の歴史というものを、みんな自分達にだけ都合のいいように書き替えて終っているのだ。
わたしはこれが癪にさわって、事ある度に論ずるのだが、今は間違って偉大な人間だと思い込んだ人達の偶像がまだまだそのままに残っていて、あの天下動乱の有様を正しく見て貰おうという事は困難な時代です。
わたしは時々情けなくなって、一人で涙が出てくる事がある」


作中では明治44年の会話と設定されているものの、子母澤にとってはリアルタイムの感慨だったと思われる。
初期に新選組三部作を書いたのも、こうした理由からであろう。
そして、それから30年以上経っても、なお同じ情熱を抱き続けていたらしい。
旧幕臣の祖父に可愛がられて育った彼にとっては、旧幕方の名誉回復が生涯かけた仕事だったのである。

1964年、中央公論社より単行本が刊行された。1974年、この新装版が出ている。
1990年、大陸文庫版が刊行。
2003年、徳間文庫版は『鴨川物語 哀惜 新選組』と副題が付された。
2017年、中公文庫版は『新選組挽歌 鴨川物語』と、これも副題付きで刊行された。

新選組挽歌 鴨川物語
(中公文庫)




長編小説の関連記事


back to TOP