新選組の本を読む ~誠の栞~

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 子母澤寛『狼と鷹』 

長編小説。幕末から明治に活躍した豪医・松本良順の前半生を描く。

松本良順について、新選組に関心のある向きはよくご存じと思う。念のため大まかに紹介すると――
天保3年6月16日、蘭方医・佐藤泰然の次男として、江戸麻布に生まれる。
蘭学を学び、蘭方医・松本良甫の養子となる。長崎に遊学し、ポンペに師事。
幕府の奥詰医師となり、また西洋医学所の副頭取を兼任する。のち頭取。
法眼に叙せられ、将軍侍医として家茂を治療。幕府陸軍の軍医にも就任。

元治元年10月、江戸麹町の自宅にて近藤勇の訪問を受け、以後知友となった。
慶応元年閏5月、将軍家茂の上洛に随行した際、新選組の西本願寺屯所を訪れる。
この時は隊士らの健康診断を行い、衛生や食生活改善の指導をした。
また、会津藩の医師・南部精一(泰然・良順の門人)を紹介し、新選組に回診させることとした。

鳥羽伏見戦後、江戸へ引き上げてきた新選組の負傷者を、手当する。
新政府軍が奥羽へ向かうと、良順は門人たちを連れて会津に入り、負傷者の治療に当たる。
のち仙台へ赴くが、榎本武揚(良順にとっては義理の甥)とは方針が合わなかった様子。
また、土方歳三から帰るよう勧められたこともあってか、蝦夷地へは渡らず横浜へ戻る。
降伏後は一時収監されるが、明治2年に赦免。

明治6年、大日本帝国陸軍の初代軍医総監となり、名を「順」と改める。
永倉新八の依頼により新選組慰霊碑(東京都北区)の建立に協力。殉節両雄之碑の建立にも尽力した。
明治40年3月12日、76歳で世を去る。
「蘭疇」「蘭疇自伝」などの回想録を遺している。


本作は、この松本良順の生涯を、明治2年12月の釈放まで描いている。
全体の流れは史実のとおりで、そこに作者なりの創作や余談を織り交ぜたストーリーが展開される。

導入部は、作者自身の体験談。
昭和初期のこと、知り合いの研究家・鈴木要吾から、子母澤のもとへ風呂敷包みの資料が送られてきた。
しばらくして鈴木の訃報が届き、その資料を改めてみると松本良順に関するものだった、という。

鈴木要吾は、良順の伝記『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』、関寛斎や三輪徳寛といった同時代の医学・医師に関する著作を遺している。子母澤と知り合いだったのも、おそらく事実だろう。
本作は、鈴木から「何かの役に立ててもらいたい」と託されたその資料を参考に執筆されていく。

ストーリーは、良順の祖父・佐藤藤助(佐藤藤佐とも)の若き日に始まる。
藤助は、貧しさゆえ文字もろくに読めなかったが、知恵がまわり弁舌が達者だった。
故郷の出羽庄内遊佐郡升川村から、16歳で単身江戸に出、旗本伊奈家の用人となって財政を立て直す。
やがて学問を身につけ、交渉の巧みさ、「気押し」の強さから、有能な公事師として知られるようになる。

次いで、藤助の長男・庄右衛門こと佐藤泰然が登場する。
父の勧めによって蘭学を学び、シーボルト直弟子の高野長英などに師事し、医師となる。
江戸から下総佐倉藩へ移り、順天堂を開設。さらに三十代にして長崎へ遊学し、4年間学ぶ。
のち、松本良甫らとともに種痘の普及にも努める。

そして、祖父の気迫と豪胆、父の医学への情熱を受け継いだ、良順の活躍ぶりへと続く。
当時の医学界では、依然として「漢方こそが正当」という旧弊な価値観がまかりとおり、蘭方を志す者に対しては何かと風当たりが強かった。
良順も、「松本家の跡取りとしての適性が疑問」と漢方の奥医師たちから横やりを入れられたり、長崎遊学中に病院を設立しようとして妨害されたりと障害に直面するが、それらを乗り越えて目標を達成していくさまは壮快。

良順と新選組との関わりも、もちろん描写されている。
近藤勇の初めての訪問では、内外の政情について意見を交わし、意気投合した。
ちなみに、この時の近藤の江戸出張の目的は、権大納言・坊城俊克の護衛と本作では設定されている。
「蘭疇自伝」にも、近藤の言葉として「明日は坊城氏を護衛して京師に帰ることとなれり」とある。
実際のところ、目的の第一は幕閣に将軍上洛を要請すること、第二は藤堂平助が集めた入隊志願者の面接であったろう。それはそれとして、良順がそのように書き残した理由を探ってみると面白いかもしれない。

良順が西本願寺屯所を訪問する場面では、近藤のほか、土方歳三山崎丞も登場する。
土方は、良順の指導にしたがい、隊内の病人たちを収容する病室を数時間のうちに設置した。
山崎は、良順と南部精一から、救急法や創傷の縫合術を学ぶ。
良順と南部の診療・投薬によって、約70人の患者が1ヶ月ほどで快復したという。

鳥羽伏見戦から江戸へ撤退後、新選組の負傷者たちは、西洋医学所で手当てされた。
肺結核が重くなっていた沖田総司も、良順が診療した。
近藤もまた、墨染で負った銃創の治療を受ける。
この場面に、良順の子息・棟一郎の証言が引用されており、近藤に関する諸々が興味深い。
銃創から取り除かれた骨片は、近藤の印籠とともに、しばらく当家に保存されていたという。

近藤に弾左衛門を引き合わせ、甲陽鎮撫隊に協力させたのも良順。
それより少し前、弟子の富士三哲を介して、弾左衛門と知り合う経緯があった。
これは、薩摩藩が弾家を倒幕側に引き込もうとしていたので、阻止するためであったとか。
維新後、近藤勇五郎(勇の甥、娘婿)が弾左衛門から聞いた、という逸話も出てくる。
作者は勇五郎から何度か昔語りを聞いたそうだから、本人の証言だろう。

新選組が大久保忠恕の屋敷を待ち合わせ場所と取り決めていたのも、本作では良順の計らいとされる。
大久保が長崎奉行であった時に、良順と親しくなったのが縁だとか。
京都町奉行の在任中に新選組とも知りあっていたのではと思うが、良順の線もありそうな気はする。

会津で再会した土方歳三は、近藤の墓を建立したと良順に語る。
遺骸の代わりに、ある形見の品を埋葬したという。
土方が語る心情には、作者の鎮魂が込められていると感じた。

会津から庄内を目指す旅は、良順と土方が連れ立ってゆく。
途中、米沢藩の領内では「当藩に留まり援助していただきたい」と申し入れを受ける。
しかし、良順は門人2名を残すことを交換条件に辞退して、なんとか庄内の城下鶴岡へ至る。
土方は、良順の下僕を装っていたので、見咎められずにすんだ。
実際のところ、このふたりが同行したわけではないと思われ、土方は米沢で通行止めに遭い、やむなく仙台へ行き先を変えた、というのが通説のようだ。
良順のほうは、庄内に逗留後、榎本武揚らの要請で仙台へ行ったと「蘭疇自伝」などにもあるのだが、どこまで事実なのか正直よくわからない。

仙台に来てみたものの、榎本武揚の提案には納得いかなかった。
良順は旧幕軍巻き返しの奇策を打ち出すが、果たして実現できるかどうか怪しい。
土方は、様々の疑問を抱えながらも、戦い続けるため蝦夷地へ渡ろうと決める。
そして、今後の世にも必要な人物である良順にはぜひ生きのびて欲しいと、帰るよう勧める。
別れ際、ふたりが今生の最後に交わした言葉は、さらりと書かれていながら深い。
旅立つ者と残される者の哀しみを象徴する、北辺の情景が目に浮かんだ。

新選組が出てこない場面も、なかなか興味深く読めた。
泰然や良順の行動と並行して描かれる、日本医学の近代化の過程が面白い。
医学界では、林洞海、緒方洪庵、伊東玄朴、半井仲庵、司馬凌海、ボードウィンなど、多くの人物が登場。
そのほかにも、幕末維新ものではおなじみの著名人が出てくる。
永井尚志、松平春嶽、徳川家茂、徳川慶喜、小笠原長行、板倉勝静、松平容保、プロシャの武器商人スネルほか。
特に、越後長岡藩の家老・河井継之助については、小地谷談判から戦傷死までかなり詳しい。

最後は、良順が赦免されて家族と喜びあい、今後さらなる活躍が予想されて幕切れとなる。
物足りなくて、もっと続きが読みたいと思った。
作者としては、戊辰戦争で敗れた側にも優れた人物がいたことを描きたかったので、明治期の後半生はあまり重視していなかったのだろうか。
ちなみに、榎本武揚を主人公とする『行きゆきて峠あり』も、降伏後の獄中生活で終わらせており、そういう面で本作との共通性を色濃く感じさせる。

本作の『狼と鷹』というタイトルは、奈辺に由来するのだろうか。
ストーリー中盤、幕末の政情が緊迫してくるあたりから、次のような表現が散見される。

――世に志士と称する手合は自分の欲をみたすためにのみいたずらに騒擾をかもし、その主人たちがまたどこ迄もどこ迄も徳川を追い詰めて結局は朝廷に名をかりて天下を自分のものにしようという、のような飽く事を知らない貪欲さ
――勤王を云々して貪欲なのようにさわぐ者達
――西国から来たたち


つまり、「狼」は反幕府の過激活動家や、彼らを操る黒幕を指した言葉らしい。
一方の「鷹」について明記はないが、「狼」に屈しない人々=良順や旧幕側の人々の比喩かと思われる。

またあるいは、良順という人物の中にある、行動せずにはいられない情熱が「狼」、高所から物事を見ようとする理性が「鷹」、と捉えることもできそうだ。

1967年、文芸春秋より単行本『狼と鷹』が出版された。
1973年、講談社刊『子母澤寛全集第12巻 行きゆきて峠あり 狼と鷹』に収録された。

【余談1】松本良順の関連書
良順が主人公(もしくは重要人物)の小説に、司馬遼太郎『胡蝶の夢』、吉村昭『暁の旅人』、篠田達明『空の石碑 幕府医官松本良順』、広瀬仁紀「最後の御典医 松本良順」(『幕末鬼骨伝』収録)などがある。
良順の回顧手記を載せた書籍に、平凡社東洋文庫『松本順自伝・長与専斎自伝』がある。幕末期は「蘭疇自伝」、明治期は「蘭疇」の再録。
また、KADOKAWA『新選組史料大全』にも、「噬臍録」「蘭疇」「蘭疇自伝」が収録されている。

【余談2】佐藤藤助と土方歳三生家
良順の祖父・佐藤藤助(安永4~嘉永元)が一時「武州川崎在稲毛村」の豪農・田辺庄右衛門の養子になったことは、本作にもあるとおり。
養子入りの理由は、田辺家が当時抱えていた訴訟を処理するためだったが、当家の娘ふじと結婚した。
(※ふじも田辺家の実子でなく、和田家からの養女。)
藤助の長男・泰然(文化元~明治5)は、田辺家で生まれ、初名は田辺昇太郎と称した。
泰然の幼少期に、親子で田辺家を出て独立した様子。

ところで、土方歳三の生家に「村順帳」という史料が伝わる。
土方家が代々製造販売していた「石田散薬」の卸売り先リストであり、多摩地域をはじめ現在の東京都区部、神奈川県、埼玉県、山梨県のそれぞれ一部におよぶ400軒以上が列記される。
その「村順帳」に、田辺庄右衛門家も記載されていたことが、日野宿本陣文書検討会の調査によって最近判明した。

石田散薬に関しては、若き日の歳三が剣術修業のかたわら卸売り先へ行商した、という伝承がある。
ただ、現存の「村順帳」は明治16年製なので、歳三の頃に田辺家と取引があったか、詳らかでない。
しかしながら、奇縁を感じさせる話ではある。






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