深川十万坪/新門辰五郎と彰義隊/山田吉亮
前回、高橋由太『新選組ござる』を紹介した。
この小説を読み、興味を感じて調べた事柄を、覚え書きとして残しておく。
お時間のある方は、おつきあいいただければ幸い。
深川十万坪(ふかがわじゅうまんつぼ)
『新選組ござる』では、上野戦争の後、新門辰五郎が彰義隊の墓を深川十万坪に建立した、と設定されている。
深川十万坪とは、実在した埋立地。現在の東京都江東区石島・千田・千石のあたりに該当する。
江戸市中から出る膨大な量のゴミと、河川を浚渫した土砂とを有効利用し、造成された。
一部は、享保8~10年(1723-25)に新田開発がなされて、千田新田となる。
寛政8年(1796)頃、一橋家の抱屋敷が設置された。
幕末の切絵図を見ると、北西の縁に一橋家や会津松平家の下屋敷があり、そのほかは新田とされている。
初代歌川広重の名画に「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」がある。
ワシが翼を広げ飛ぶ眼下に、荒涼として人の気配などない原野が描かれている。
これは寛政3年(1791)、台風による高波で深川洲崎の一帯に被害が出たため、幕府が居住禁止区域に指定したことを反映しているらしい。
十万坪が新田としてどのくらい利用されたのか、残念ながらよくわからない。
人気の少ない場所だったというのは、おそらく事実だろう。
ただ、広いとはいえ深川の一部であり、すぐ北側や西側には武家屋敷や寺社、景勝地があった。
周辺では、参詣人や行楽客を目当ての料理屋や船宿も営業していた様子だ。
永代寺の周辺には岡場所があった。しかも、吉原が火災に遭うたび仮宅(臨時営業所)が設置されている。
(永倉新八らが訪れた品川楼も、深川洲崎の仮宅にあった。→ 『維新侠艶録』/『新選組奮戦記』)
ちなみに、明治11年(1878)の地図では、十万坪はまだ大半が新田である。
しかし中期には、養魚場や木材加工所が設置され、積極的な土地活用が始まっていた様子が窺える。
新門辰五郎(しんもんたつごろう)と彰義隊
辰五郎は、浅草の侠客であり、江戸町火消「を組」の頭である。
一橋慶喜の信任を受け、子分200人を率いて京都へ上り、御所や二条城の防火にあたった。
鳥羽伏見戦争の直後、大坂城に置き忘れられた徳川家「金扇の馬印」を辰五郎が取りに行き、東海道を走って江戸へ持ち帰ったことは、よく知られている。
その後も水戸や駿府へと慶喜に随従し、晩年江戸へ戻った。
また、辰五郎の娘お芳は、慶喜に側妾のひとりとして仕えていた。
辰五郎が彰義隊に協力したことは、事実のようだ。
弾除けにする古畳や空俵を上野へ運んだ、子分が彰義隊とともに銃を取り戦った、などの伝承がある。
ただ、「辰五郎が彰義隊の墓を十万坪に建立した」というのは、おそらく創作だろう。
一橋家の屋敷が十万坪の縁にあったこと、慶喜と辰五郎とが懇意だったことから、作者が考えたように思える。
実際のところ、上野で戦死した彰義隊隊士の埋葬は、どのようになされたのか。
このあたりの経緯は、森まゆみ『彰義隊遺聞』が詳しい。
山田吉亮(やまだよしふさ)
この名に聞き覚えがなくとも「首斬り浅右衛門」こと「山田浅右衛門」を知る人は多いだろう。
初代浅右衛門貞武(1657-1716)から、およそ200年続いた試刀家である。
試し斬りに刑死者の遺骸を用いたことから、斬首刑の執行にも携わることとなった。
吉亮もまた、その一族だった。
幕末の七代浅右衛門吉利は、「名人」と称され、頼三樹三郎や橋本左内、吉田松陰の刑も執行している。
人柄は穏やかで、特に明治2年(1869)に隠退してからは慈悲に満ちていたという。
七代吉利の後、家督を継承したのは子息の吉豊だった。
しかし、家業にあまり力を入れなかったようで、明治7年(1874)に隠退。
その跡を吉亮(吉利の三男、吉豊の弟)が継ぐ。
吉亮は、父ゆずりの遣い手であった。
慶応元年(1865)12歳の時から父や兄を助け、明治14年(1881)の斬刑廃止まで務めた。
それを理由に、自ら実質的な「八代目」と称している。
ただ、研究家によっては吉亮を「閏(じゅん)八代目」「九代目」とする場合もある。
(※「閏」は「正統でない位」の意味)
吉亮が斬った被刑者には、雲井龍雄、夜嵐おきぬ、武市熊吉ら9人(岩倉具視暗殺未遂事件)、井口慎次郎ら3人(思案橋事件)、島田一郎ら6人(大久保利通暗殺事件)、高橋お伝などがいる。
山田家に関しては巷間、怪談のような噂が流布していた。
吉亮自身「幽霊を見たことはない。斬った人数はかなり多いので、いちいち取り憑かれていたら、今頃は自分の命がなくなっているはず」と語っている。
ただ、吉亮の神業ともいうべき腕前は、真実だったらしい。
大雨の中で、左手に傘を差したまま、右から逆手で斬るという離れ業を見せたという。
吉亮の執行手順は、以下のようだった。
明治14年(1881)の執行を最後に、斬首刑は廃止され、山田浅右衛門家はその世職を失う。
吉亮は、明治44年(1911)58歳にて、急病のため世を去る。
山田家の正統は、十代愛之助(吉豊の孫)をもって終わった。
吉亮の遺した談話は、篠田鉱造『明治百話』(初版1931)に収録されている。
また、吉亮を主人公とする長編小説に綱淵謙錠『斬』がある。
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調べるうち、これらの事柄がアレンジされ『新選組ござる』に反映されたと推察できて、面白かった。
他の作品を読んだ時にも、こうした発見は少なからずある。
捨てがたい事柄は紹介記事に盛り込む場合もあるが、あまり長くなると読みづらい。
そういう次第で、今回初めて独立記事として書いてみた。



この小説を読み、興味を感じて調べた事柄を、覚え書きとして残しておく。
お時間のある方は、おつきあいいただければ幸い。
深川十万坪(ふかがわじゅうまんつぼ)
『新選組ござる』では、上野戦争の後、新門辰五郎が彰義隊の墓を深川十万坪に建立した、と設定されている。
深川十万坪とは、実在した埋立地。現在の東京都江東区石島・千田・千石のあたりに該当する。
江戸市中から出る膨大な量のゴミと、河川を浚渫した土砂とを有効利用し、造成された。
一部は、享保8~10年(1723-25)に新田開発がなされて、千田新田となる。
寛政8年(1796)頃、一橋家の抱屋敷が設置された。
幕末の切絵図を見ると、北西の縁に一橋家や会津松平家の下屋敷があり、そのほかは新田とされている。
初代歌川広重の名画に「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」がある。
ワシが翼を広げ飛ぶ眼下に、荒涼として人の気配などない原野が描かれている。
これは寛政3年(1791)、台風による高波で深川洲崎の一帯に被害が出たため、幕府が居住禁止区域に指定したことを反映しているらしい。
十万坪が新田としてどのくらい利用されたのか、残念ながらよくわからない。
人気の少ない場所だったというのは、おそらく事実だろう。
ただ、広いとはいえ深川の一部であり、すぐ北側や西側には武家屋敷や寺社、景勝地があった。
周辺では、参詣人や行楽客を目当ての料理屋や船宿も営業していた様子だ。
永代寺の周辺には岡場所があった。しかも、吉原が火災に遭うたび仮宅(臨時営業所)が設置されている。
(永倉新八らが訪れた品川楼も、深川洲崎の仮宅にあった。→ 『維新侠艶録』/『新選組奮戦記』)
ちなみに、明治11年(1878)の地図では、十万坪はまだ大半が新田である。
しかし中期には、養魚場や木材加工所が設置され、積極的な土地活用が始まっていた様子が窺える。
新門辰五郎(しんもんたつごろう)と彰義隊
辰五郎は、浅草の侠客であり、江戸町火消「を組」の頭である。
一橋慶喜の信任を受け、子分200人を率いて京都へ上り、御所や二条城の防火にあたった。
鳥羽伏見戦争の直後、大坂城に置き忘れられた徳川家「金扇の馬印」を辰五郎が取りに行き、東海道を走って江戸へ持ち帰ったことは、よく知られている。
その後も水戸や駿府へと慶喜に随従し、晩年江戸へ戻った。
また、辰五郎の娘お芳は、慶喜に側妾のひとりとして仕えていた。
辰五郎が彰義隊に協力したことは、事実のようだ。
弾除けにする古畳や空俵を上野へ運んだ、子分が彰義隊とともに銃を取り戦った、などの伝承がある。
ただ、「辰五郎が彰義隊の墓を十万坪に建立した」というのは、おそらく創作だろう。
一橋家の屋敷が十万坪の縁にあったこと、慶喜と辰五郎とが懇意だったことから、作者が考えたように思える。
実際のところ、上野で戦死した彰義隊隊士の埋葬は、どのようになされたのか。
- 侠客・三河屋幸三郎が、三ノ輪円通寺の仏磨和尚と相談して266体を集め、山王台で荼毘に付し埋葬。その後、寛永寺寒松院と護国院の両住職が、小さな墓碑を建立した。
- 山王台から遺骨の一部を移して、円通寺に「死節の墓」が建てられた。
- 蔵前の西福寺にある墓は、寛永寺の山守・高木秀吉が、摺鉢山あたりで132体を集め火葬したもの。
このあたりの経緯は、森まゆみ『彰義隊遺聞』が詳しい。
山田吉亮(やまだよしふさ)
この名に聞き覚えがなくとも「首斬り浅右衛門」こと「山田浅右衛門」を知る人は多いだろう。
初代浅右衛門貞武(1657-1716)から、およそ200年続いた試刀家である。
試し斬りに刑死者の遺骸を用いたことから、斬首刑の執行にも携わることとなった。
吉亮もまた、その一族だった。
幕末の七代浅右衛門吉利は、「名人」と称され、頼三樹三郎や橋本左内、吉田松陰の刑も執行している。
人柄は穏やかで、特に明治2年(1869)に隠退してからは慈悲に満ちていたという。
- 寺参りを欠かさなかった。
- 物乞いを度々自宅に連れてきて、食事や衣類を与えて帰した。
- 縁の下のネズミ、軒先のスズメに毎日エサを与えたので、ネズミやスズメが慣れて側へ寄ってきた。
七代吉利の後、家督を継承したのは子息の吉豊だった。
しかし、家業にあまり力を入れなかったようで、明治7年(1874)に隠退。
その跡を吉亮(吉利の三男、吉豊の弟)が継ぐ。
吉亮は、父ゆずりの遣い手であった。
慶応元年(1865)12歳の時から父や兄を助け、明治14年(1881)の斬刑廃止まで務めた。
それを理由に、自ら実質的な「八代目」と称している。
ただ、研究家によっては吉亮を「閏(じゅん)八代目」「九代目」とする場合もある。
(※「閏」は「正統でない位」の意味)
吉亮が斬った被刑者には、雲井龍雄、夜嵐おきぬ、武市熊吉ら9人(岩倉具視暗殺未遂事件)、井口慎次郎ら3人(思案橋事件)、島田一郎ら6人(大久保利通暗殺事件)、高橋お伝などがいる。
山田家に関しては巷間、怪談のような噂が流布していた。
- 麹町平河町の山田邸には、幽霊が出る。うなされたり怯えたりする声が、一晩中聞こえてくる。
- 刑の執行日には、被刑者の数と同じ本数のロウソクを、仏壇に灯す。刑場で被刑者が死ぬごとに、そのロウソクの火が端から1本ずつ消えてゆく。最後の1本が消えると、浅右衛門が帰宅する。
吉亮自身「幽霊を見たことはない。斬った人数はかなり多いので、いちいち取り憑かれていたら、今頃は自分の命がなくなっているはず」と語っている。
ただ、吉亮の神業ともいうべき腕前は、真実だったらしい。
大雨の中で、左手に傘を差したまま、右から逆手で斬るという離れ業を見せたという。
吉亮の執行手順は、以下のようだった。
- 準備が整うまでは、被刑者を見ない。出番まで、空や草木を眺めている。
- 執行の段には、いきなり被刑者の前に出てにらみつけ「汝は国賊なるぞ!」と言い、1歩進む。
- 呼吸を量るため、心の中で涅槃経四句「諸行無常 是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽」を唱え、それに合わせ刀の柄に指をかけていき、抜いて振り下ろす。
明治14年(1881)の執行を最後に、斬首刑は廃止され、山田浅右衛門家はその世職を失う。
吉亮は、明治44年(1911)58歳にて、急病のため世を去る。
山田家の正統は、十代愛之助(吉豊の孫)をもって終わった。
吉亮の遺した談話は、篠田鉱造『明治百話』(初版1931)に収録されている。
また、吉亮を主人公とする長編小説に綱淵謙錠『斬』がある。
---
調べるうち、これらの事柄がアレンジされ『新選組ござる』に反映されたと推察できて、面白かった。
他の作品を読んだ時にも、こうした発見は少なからずある。
捨てがたい事柄は紹介記事に盛り込む場合もあるが、あまり長くなると読みづらい。
そういう次第で、今回初めて独立記事として書いてみた。
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