太田俊穂『血の維新史の影に』
史話集。副題『明治百年のため』。
南部盛岡藩士の子孫てある著者が見聞した、維新史にまつわる話の数々。
先日、書店でムック本『文藝春秋でしか読めない幕末維新』を見かけた。
明治150年を控えた企画ものの臨時増刊。本誌『文藝春秋』に創刊以来(1923~)掲載された幕末維新関連の記事の中から選りすぐったものを再録している。(※一部、別冊誌からの再録や書き下ろしもある。)
>> 文藝春秋 公式サイト『文藝春秋でしか読めない幕末維新』
面白そうな記事が多い中で、特に巻末のコラム「生きていた新選組」に目を引かれた。
初出は『文藝春秋』1964年11号。
執筆者の太田俊穂が、奥田松五郎という老人との交流について、思い出を書き記した内容。
この奥田老は、新選組について詳しく知っており、周囲から「新選組の生き残り」と噂されていた。
執筆者・太田俊穂は、1910年(明治42)、岩手県盛岡市生まれ。毎日新聞記者、岩手日報編集局長、岩手放送社長・会長などを歴任する一方、郷土史家として多くの著作を遺す。1988年(昭和63)に世を去った。
太田が奥田老を見かけたのは、自身が小学生の時、大正6~7年頃であったとか。
その後、新聞記者となってから親しい交際か始まり、自宅を訪問しては話を聞いた。
奥田老が狭心症のため亡くなったのは、1931年(昭和6)11月。墓碑には行年82とあるが、本当の年齢はわからずじまい。生前に太田が質問しても、口を濁して答えなかったという。
現今、奥田松五郎の経歴はそこそこ明らかになっている。
1854年(嘉永7)、幕臣・奥田萬吉の長男として江戸に生まれた。
父の萬吉が福野流柔術の達人であったため、松五郎も幼少期から柔術をはじめ武道を学ぶ。
やがて柔術家として活躍、1884年(明治17)に「奥田流柔術」を興した。
1893年(明治26)、岩手県知事・服部一三の招きで同県に移住。警察署や中学校などで指導にあたる。
1931年(昭和6)11月29日、78歳で死去。
嘉永7年=安政元年生まれということは、新選組隊士・市村鉄之助と同年齢である。
「生きていた新選組」によると、奥田老は沖田総司や藤堂平助を友達扱いしていたそうだが、実際は10歳ほど差があるわけで、同輩ではありえない。
奥田老の話は他にも、坂本龍馬暗殺を新選組の犯行とするなど、不可解な点があったという。
おそらく彼自身は新選組隊士ではなかった。ただ、誰か旧隊士と知り合って話を聞き、ある程度の内情を知る機会があったのではなかろうか。
奥田松五郎が新選組隊士ではなかったとしても、その証言は面白い。
彼について太田俊穂がさらに詳しく書いたものがあったはず、と押し入れを探したら本書が出てきた。
以前どこかの古書店で入手したもので、函はすでに失われ本体のみだった。
内容は、以下の15章から成っている。
序章・万亀女覚え書
万亀(まき)は、太田俊穂の母方祖母。1853年(嘉永6)、盛岡藩士・毛馬内家に生まれ、1926年(大正15)に他界した。「平民宰相」原敬とは幼なじみ。万亀の祖父が天狗党鎮圧に出征したこともあった。
太田はこの祖母に可愛がられ、彼女から幕末維新期や明治期のことを多く聞いたという。
黒髪と血と懐剣
万亀の叔母・由亀(ゆき)は、かなりの美人だったが、戊辰戦争で婚約者を亡くし、1年後に自害した。
遠縁の家には、歌子という美女がいた。戊辰戦争直後、新政府軍の肥前出身の隊長に力ずくで迫られた結果、心を病んでしまい、やはり自害したという。
夕映えの武士たち
戊辰の年、藩論がまとまらず揉める盛岡藩の様子と、万亀が目撃した藩士らの斬り合い。
万亀の祖父、大叔父、父といった親族の人となりと、戊辰戦争時の動向。
桜田門外の変に
若き盛岡藩士・福田金八が、井伊直弼暗殺計画に関わり、謎の自刃を遂げた一件。
その後輩・竹林由太郎(万亀の義兄)は、福田の関与を知っていたものの、問われても明かさなかった。
また、桜田門外の変後、庶民の間で流行った戯れ歌、戯れ句のこと。
最後の戊辰戦争
盛岡藩の戊辰戦争。秋田藩との戦いの様子を、生き残り藩士が生々しく証言している。
白兵戦において戸田一心流の剣を振るい、勇名を馳せた竹林由太郎の奮戦ぶり。
白萩の庭
竹林由太郎の屋敷の庭には、秋になると白い萩の花が見事に咲き誇った。
その屋敷に妻を残して出陣した由太郎は、激戦の中で行方知れずとなる。
ところが、3ヶ月後に舞い戻り、無法を働いた官兵3人を斬って、妻に「箱館へ渡って戦う」と別れを告げ去ったという。
老残の鐘楼守り
盛岡城址の鐘楼に独り住まう、鐘守りの老人・釜沢功一郎。著者の太田が、釜沢から聞いた思い出話。
若き日、盛岡藩士として江戸に詰めていた時、薩摩の無法な「不逞浪士」たちに無我夢中で立ち向かう。
国元へ戻り、秋田藩との戦い、敗戦を経て、明治期には県会議員を務めもした。
家老絶命記
盛岡藩の主席家老であった楢山佐渡の生涯。
京都で天下の情勢を目の当たりにしていた彼が、徹底抗戦と秋田藩攻撃を決断した理由は何だったか。
敗戦後、「反逆の首謀者」とされ、刎首(形式的には切腹)に処される。
介錯人無惨
楢山佐渡の介錯をした江釣子源吉は、弱冠23歳でありながら、戸田一心流の遣い手であった。
上司への敬意と労りから介錯役を願い出たものの、その体験に深く心を痛める。
原敬「賊名」を雪ぐ
大正6年9月8日、盛岡で戊辰戦争殉難者50年祭が開催された。場所は、楢山佐渡が亡くなった報恩寺。
当時の政友会総裁・原敬が事実上の祭主となり、南部家当主・利淳(旧盛岡藩主の次男)に続き、祭文を奉読。
祭文は簡潔ながら、戊辰戦争は政見の相違から起きた争いであり、我々はただ戦いに敗れたに過ぎず、「賊名」をこうむる理由はない、とした。「悲劇と恥辱の歴史に対する決別の宣言」であった。
三人の天狗党
元治元年3月、筑波山に挙兵した天狗党の中に、3人の盛岡脱藩士がいた。
蛇口安太郎は討死し、山田一郎と佐藤継助は捕えられ処刑されたという。
蛇口や山田の人柄を知る万亀は、当時12歳。彼らがそのような挙に加わったとは信じられなかった、と語る。
筑波山の青春像
山田一郎が、盛岡を脱藩し天狗党の参画者となるまでの経緯。
仙台藩の重臣・遠藤文七郎や、出羽の志士・清河八郎とも交流があった。清河の横浜襲撃計画に協力するも頓挫し、筑波挙兵に加わる。豪商を襲い軍資金を要求した所業が、悪名となって後々までつきまとう。
挫折と刑場への道
前章に続いて、山田一郎の天狗党への加盟と分裂。
軍資金横領の嫌疑をかけられ、佐藤継助とともに江戸町奉行所へ自訴。盛岡藩へ引き渡され、斬首に処された。
また、蛇口安太郎は那珂湊の激戦で戦死する。
3人とも20代であった。
新選組の残映
新選組の生き残りと噂された奥田松五郎のこと。
「生きていた新選組」と共通の部分もあるが、より詳述されている。
盛岡出身の新選組隊士・吉村貫一郎にも触れている。
雨に消えた彰義隊
前章に続いて、奥田松五郎のこと。やはり「生きていた新選組」と共通の部分がある。
奥田は、慶応4年の江戸帰還後、新選組を出て彰義隊に合流したと語る。上野の激戦に臨んだ体験談は、そこそこリアリティを感じさせる。
また、盛岡で過ごした晩年について、地元の祭礼でテキ屋と喧嘩になったことなど。
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半世紀前に出版された本であり、歴史研究として読めば、当然ながら古いところもある。
しかし、幕末から明治を生きた人々の体験・見聞が生々しく伝わってきて、感興を誘われる。
著者の盛岡への郷土愛は深い。
奥羽を覆った戊辰の戦火、奥羽諸藩の受けた「賊名」について、改めて考えさせられた。
本書は1965年、大和書房から刊行された。四六判、ハードカバー、函入り。
それから3年後の1968年が、ちょうど「明治100年」であった。


南部盛岡藩士の子孫てある著者が見聞した、維新史にまつわる話の数々。
先日、書店でムック本『文藝春秋でしか読めない幕末維新』を見かけた。
明治150年を控えた企画ものの臨時増刊。本誌『文藝春秋』に創刊以来(1923~)掲載された幕末維新関連の記事の中から選りすぐったものを再録している。(※一部、別冊誌からの再録や書き下ろしもある。)
>> 文藝春秋 公式サイト『文藝春秋でしか読めない幕末維新』
面白そうな記事が多い中で、特に巻末のコラム「生きていた新選組」に目を引かれた。
初出は『文藝春秋』1964年11号。
執筆者の太田俊穂が、奥田松五郎という老人との交流について、思い出を書き記した内容。
この奥田老は、新選組について詳しく知っており、周囲から「新選組の生き残り」と噂されていた。
執筆者・太田俊穂は、1910年(明治42)、岩手県盛岡市生まれ。毎日新聞記者、岩手日報編集局長、岩手放送社長・会長などを歴任する一方、郷土史家として多くの著作を遺す。1988年(昭和63)に世を去った。
太田が奥田老を見かけたのは、自身が小学生の時、大正6~7年頃であったとか。
その後、新聞記者となってから親しい交際か始まり、自宅を訪問しては話を聞いた。
奥田老が狭心症のため亡くなったのは、1931年(昭和6)11月。墓碑には行年82とあるが、本当の年齢はわからずじまい。生前に太田が質問しても、口を濁して答えなかったという。
現今、奥田松五郎の経歴はそこそこ明らかになっている。
1854年(嘉永7)、幕臣・奥田萬吉の長男として江戸に生まれた。
父の萬吉が福野流柔術の達人であったため、松五郎も幼少期から柔術をはじめ武道を学ぶ。
やがて柔術家として活躍、1884年(明治17)に「奥田流柔術」を興した。
1893年(明治26)、岩手県知事・服部一三の招きで同県に移住。警察署や中学校などで指導にあたる。
1931年(昭和6)11月29日、78歳で死去。
嘉永7年=安政元年生まれということは、新選組隊士・市村鉄之助と同年齢である。
「生きていた新選組」によると、奥田老は沖田総司や藤堂平助を友達扱いしていたそうだが、実際は10歳ほど差があるわけで、同輩ではありえない。
奥田老の話は他にも、坂本龍馬暗殺を新選組の犯行とするなど、不可解な点があったという。
おそらく彼自身は新選組隊士ではなかった。ただ、誰か旧隊士と知り合って話を聞き、ある程度の内情を知る機会があったのではなかろうか。
奥田松五郎が新選組隊士ではなかったとしても、その証言は面白い。
彼について太田俊穂がさらに詳しく書いたものがあったはず、と押し入れを探したら本書が出てきた。
以前どこかの古書店で入手したもので、函はすでに失われ本体のみだった。
内容は、以下の15章から成っている。
序章・万亀女覚え書
万亀(まき)は、太田俊穂の母方祖母。1853年(嘉永6)、盛岡藩士・毛馬内家に生まれ、1926年(大正15)に他界した。「平民宰相」原敬とは幼なじみ。万亀の祖父が天狗党鎮圧に出征したこともあった。
太田はこの祖母に可愛がられ、彼女から幕末維新期や明治期のことを多く聞いたという。
黒髪と血と懐剣
万亀の叔母・由亀(ゆき)は、かなりの美人だったが、戊辰戦争で婚約者を亡くし、1年後に自害した。
遠縁の家には、歌子という美女がいた。戊辰戦争直後、新政府軍の肥前出身の隊長に力ずくで迫られた結果、心を病んでしまい、やはり自害したという。
夕映えの武士たち
戊辰の年、藩論がまとまらず揉める盛岡藩の様子と、万亀が目撃した藩士らの斬り合い。
万亀の祖父、大叔父、父といった親族の人となりと、戊辰戦争時の動向。
桜田門外の変に
若き盛岡藩士・福田金八が、井伊直弼暗殺計画に関わり、謎の自刃を遂げた一件。
その後輩・竹林由太郎(万亀の義兄)は、福田の関与を知っていたものの、問われても明かさなかった。
また、桜田門外の変後、庶民の間で流行った戯れ歌、戯れ句のこと。
最後の戊辰戦争
盛岡藩の戊辰戦争。秋田藩との戦いの様子を、生き残り藩士が生々しく証言している。
白兵戦において戸田一心流の剣を振るい、勇名を馳せた竹林由太郎の奮戦ぶり。
白萩の庭
竹林由太郎の屋敷の庭には、秋になると白い萩の花が見事に咲き誇った。
その屋敷に妻を残して出陣した由太郎は、激戦の中で行方知れずとなる。
ところが、3ヶ月後に舞い戻り、無法を働いた官兵3人を斬って、妻に「箱館へ渡って戦う」と別れを告げ去ったという。
老残の鐘楼守り
盛岡城址の鐘楼に独り住まう、鐘守りの老人・釜沢功一郎。著者の太田が、釜沢から聞いた思い出話。
若き日、盛岡藩士として江戸に詰めていた時、薩摩の無法な「不逞浪士」たちに無我夢中で立ち向かう。
国元へ戻り、秋田藩との戦い、敗戦を経て、明治期には県会議員を務めもした。
家老絶命記
盛岡藩の主席家老であった楢山佐渡の生涯。
京都で天下の情勢を目の当たりにしていた彼が、徹底抗戦と秋田藩攻撃を決断した理由は何だったか。
敗戦後、「反逆の首謀者」とされ、刎首(形式的には切腹)に処される。
介錯人無惨
楢山佐渡の介錯をした江釣子源吉は、弱冠23歳でありながら、戸田一心流の遣い手であった。
上司への敬意と労りから介錯役を願い出たものの、その体験に深く心を痛める。
原敬「賊名」を雪ぐ
大正6年9月8日、盛岡で戊辰戦争殉難者50年祭が開催された。場所は、楢山佐渡が亡くなった報恩寺。
当時の政友会総裁・原敬が事実上の祭主となり、南部家当主・利淳(旧盛岡藩主の次男)に続き、祭文を奉読。
祭文は簡潔ながら、戊辰戦争は政見の相違から起きた争いであり、我々はただ戦いに敗れたに過ぎず、「賊名」をこうむる理由はない、とした。「悲劇と恥辱の歴史に対する決別の宣言」であった。
三人の天狗党
元治元年3月、筑波山に挙兵した天狗党の中に、3人の盛岡脱藩士がいた。
蛇口安太郎は討死し、山田一郎と佐藤継助は捕えられ処刑されたという。
蛇口や山田の人柄を知る万亀は、当時12歳。彼らがそのような挙に加わったとは信じられなかった、と語る。
筑波山の青春像
山田一郎が、盛岡を脱藩し天狗党の参画者となるまでの経緯。
仙台藩の重臣・遠藤文七郎や、出羽の志士・清河八郎とも交流があった。清河の横浜襲撃計画に協力するも頓挫し、筑波挙兵に加わる。豪商を襲い軍資金を要求した所業が、悪名となって後々までつきまとう。
挫折と刑場への道
前章に続いて、山田一郎の天狗党への加盟と分裂。
軍資金横領の嫌疑をかけられ、佐藤継助とともに江戸町奉行所へ自訴。盛岡藩へ引き渡され、斬首に処された。
また、蛇口安太郎は那珂湊の激戦で戦死する。
3人とも20代であった。
新選組の残映
新選組の生き残りと噂された奥田松五郎のこと。
「生きていた新選組」と共通の部分もあるが、より詳述されている。
盛岡出身の新選組隊士・吉村貫一郎にも触れている。
雨に消えた彰義隊
前章に続いて、奥田松五郎のこと。やはり「生きていた新選組」と共通の部分がある。
奥田は、慶応4年の江戸帰還後、新選組を出て彰義隊に合流したと語る。上野の激戦に臨んだ体験談は、そこそこリアリティを感じさせる。
また、盛岡で過ごした晩年について、地元の祭礼でテキ屋と喧嘩になったことなど。
---
半世紀前に出版された本であり、歴史研究として読めば、当然ながら古いところもある。
しかし、幕末から明治を生きた人々の体験・見聞が生々しく伝わってきて、感興を誘われる。
著者の盛岡への郷土愛は深い。
奥羽を覆った戊辰の戦火、奥羽諸藩の受けた「賊名」について、改めて考えさせられた。
本書は1965年、大和書房から刊行された。四六判、ハードカバー、函入り。
それから3年後の1968年が、ちょうど「明治100年」であった。

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