新選組の本を読む ~誠の栞~

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 新人物往来社編『近藤勇のすべて』 

研究本。近藤勇という人物について、生涯の様々な面を取り上げ考察する論考集。
全26編(1ページイラスト記事3点を含む)を、18人の執筆者がそれぞれ担当している。
収録内容は以下のとおり。

「近藤勇が生きた時代」 童門冬二
「異説・勇の少年時代」 林栄太郎
「近藤勇と宮川家」 宮川豊治
「試衛館はどこにあったのか」 菊地明
「山川さんが私の家の地主さんです」 林栄太郎
「天然理心流と近藤勇」 小島政孝
「新選組結成」 伊東成郎
「近藤勇の剣」 吉田光一
「近藤勇と松平容保」 宮崎十三八
「内部粛清された人々」 古賀茂作
「池田屋事変」 山村竜也
「龍馬暗殺の夜の近藤勇」 永岡清治
「新選組屯所を発見するの記」 石田孝喜
「甲州勝沼戦争」 今川徳三
「筆跡からみた近藤勇の性格」 森岡恒舟
「流山の朝――捕縛までの日々」 菊地明
「近藤勇の妻・おつね」 赤間倭子
「近藤勇の首級はどこに」 小島政孝
「近藤勇関係人名事典」 清水隆
「近藤勇史跡事典」 野田雅子
「近藤勇略年譜」 菊地明
「宮川家系図」 宮川豊治
「近藤勇関係文献目録」 清水隆
イラスト記事「同時代人が語る近藤勇」「幕末の女たち」「映像の中野近藤勇」 今川美玖

新人物往来社の『◯◯のすべて』シリーズは、1冊で◯◯を概ね把握できる、重宝な教養書。
テーマ(◯◯)は多彩ながら、やはり戦国と幕末維新の関連が最も多かった、と記憶している。
幕末維新の◯◯は、『徳川慶喜』『松平春嶽』『松平容保』『松平定敬』『山内容堂』『島津斉彬』『阿部正弘』『天璋院篤姫』『小栗忠順』『勝海舟』『河井継之助』『楢山佐渡』『ジョン万次郎』『伊庭八郎』『横井小楠』『吉田松陰』『由利公正』『坂本龍馬』『桐野利秋』『会津戦争』『会津白虎隊』『箱館戦争』など。
新選組の◯◯は、『新選組』『土方歳三』『沖田総司』『新選組・永倉新八』『新選組・斎藤一』があり、本書『近藤勇のすべて』もその1冊。

本書を今回取り上げようと思い立ったのは、最近の報道がきっかけである。
「百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持」と産経ニュースが2017年5月14日付けで報じた。
周知のとおり、近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、板橋にて斬首に処された。その首級は京都で梟された後、行方知れずとなり、埋葬地をめぐって複数の説がある。
記事は、会津埋葬説を補完する史料が発見された、という内容。近藤の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に貼付されていたメモに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」云々の文面と「若松市長・松江豊寿」の署名があるのだとか。
この報道を受け、「他の説も改めて検証すべきでは」という意見がネット上に見られた。

そこで、本書収録「近藤勇の首級はどこに」を思い出した次第。
全7ページとコンパクトな論考ではあるが、要点が簡潔にまとまっている。
近藤勇の墓といわれる7箇所とそれぞれの説明が、以下のように記述される。

1.板橋駅前(東京都北区滝野川)
永倉新八らが明治9年に建立。正面に近藤・土方の名を刻んだ大きな墓碑。
近藤の死亡地であり重要ではあるが、墓自体は供養墓とみるべき。

2.龍源寺(東京都三鷹市大沢)
主に近藤勇五郎の談話によると、遺体を板橋から密かに運んで埋葬した。首級は埋葬されていない。

3.天寧寺(福島県会津若松市東山町)
土方歳三が会津に滞在中、松平容保の許可を得て建立した。
近藤の墓としては、最も早期に造られたもの。首級は埋葬されていない。

4.円通寺(東京都荒川区南千住)
三河屋幸三郎が建立した「戦死墓」「死節之墓」がある。
「死節之墓」に、他の旧幕方戦死者と並んで近藤や土方の名もある。当然、供養墓である。

5.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町寺山)
石碑は現存せず。台石のみ、土中に長年埋もれていたものが昭和33年に発見された。
なぜか土方と伝習隊隊士らの名、「慶応三辰年」と誤った年号がある。
法蔵寺に「京都の誓願寺から託された首級を埋葬した」と伝わるも、誓願寺には史料がない。

6.京都市東山山中(未確認)
小島誠之進(鹿之助の四男)が、明治29年、本田退庵に案内されて首級埋葬地を訪ねた。
当時のメモらしき墓石の図と「東大谷之傍、京都黒谷之上ノ山、霊山と申山之中央」の文言が残る。
ただし、現地へ行ってみても発見できない。大雨による土砂崩れなどで埋まってしまったのかも。

7.高国寺(山形県米沢市鍛冶町)
「近藤金太郎が板橋から首級を盗み、荼毘に付し米沢へ埋葬した」と昭和59年、浅沼政直氏が発表。
金太郎家の系図に「近藤周助の妹と茂右衛門との間に金太郎が出生」と記されるも、周助に妹はいない。
首級が京都で梟されたのは事実であり、板橋から盗んだとする点も疑問。

以上は簡単な要約。原文には、もっと説得力がある。
これがもし覆るとしたら、誰もが認めるほど確実な証拠が出てきた時だろう。
研究家諸氏もおそらく近い見解をお持ちで、そのため諸説の再検討に至らないように思われる。

◆少々補足・その壱。
天寧寺の墓には、首級もしくは遺髪が埋められたという伝承がある。ただし確証は未発見。
先日発表された愛刀メモも、今のところ傍証的なものと捉える意見が多い様子。

◆少々補足・その弐。
明治22年、本田退庵と佐藤俊宣(彦五郎の長男)が京都を訪れ、霊山の中腹で首級埋葬地を発見したという。
退庵はこの時の発見によって、小島誠之進を案内したのだろう(上記「6」)。

◆少々補足・その参。
京都での梟首を、佐倉藩士・依田七郎(学海)が閏4月10日に目撃した。
「面色生くるが如く、余とともに談笑せし時を想ひ見る、悵然として之を久しうす」などと書き残している。
1月16日に江戸城で近藤・土方と面談した彼が認めたのだから、近藤の首に間違いないと思われる。

◆少々補足・その四。
梟された後の首級は粟田口(京都)に埋められたというので、探した者があったが発見できなかった…と子母澤寛が『新選組遺聞』の初出時(『サンデー毎日』)に書いている。(※出版時には脚色が加わえられた様子。)

◆少々補足・その五。
首から下の遺体についても、龍源寺埋葬説のほかに、「板橋の処刑場にいったん埋められるも、当日中に新政府軍の命令で寿徳寺境外墓地(現在の板橋駅前)に改葬された」という説がある。
これは、板橋の石山家子孫・石山亀二の証言に基づく。

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本書には「近藤勇の首級はどこに」のほかにも興味深い論考が多い。
タイトルだけ見て「すでに周知の事柄」と思っても、読むと改めていろいろ気づかされる。
刊行後に研究が進んで少々古くなった部分もあるが、今も利用価値は高いと思う。
近藤勇の研究本自体がそれほど多く出版されていないので、その意味でも手元にあれば重宝する。

1993年、新人物往来社より刊行された。四六判ハードカバー。

近藤勇のすべて


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