新選組の本を読む ~誠の栞~

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 山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』 

副題『「伊庭八郎征西日記」を読む』。
文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。

伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。

この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。

本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。

第一章 将軍とともに上洛      元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個    元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ        元治元年(1864)5月
第五章 お役御免          元治元年(1864)6月

それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。

日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。

『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。

またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。

余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。

それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。

例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。

八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。

勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。

細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?

ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。

本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。

【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。

【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。

いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。

この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。

本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。

幕末武士の京都グルメ日記
「伊庭八郎征西日記」を読む
(幻冬舎新書)




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伊庭八郎

お久しぶりです。
ちょうど先月、伊庭八郎の150回忌、朝涼忌に参列してきました。ブログにもアップしましたので、よろしければご覧ください。
新選組ほどの知名度はありませんが、伊庭八郎も遊撃隊もドラマチックですよね。
ご紹介の本はまだ未見ですので、今度読んでみます。

ところでゆで卵ですが、先日耳にしたところでは、卵は生よりもゆでた方がタンパク質の量が多くなるそうですね。私も調べたわけではありませんが、動物性タンパク質が少なかった当時、特に肉体作業に従事する人たちには本能的に卵はゆでた方をチョイスしていたのではないでしょうかね。
生食よりもゆでた方が腹持ちも良さそうですし。

と言いつつ、ワタクシはゆで卵が食べられないのでしたww

2018/06/06(Wed) |URL|イッセー [edit]

イッセーさんへ

お久しぶりです。
ブログ毎回拝見しております。朝涼忌、充実しておいでだったようで何よりです。

「朝涼忌」名称の由来となった発句、「征西日記」に書き留められて後世に伝わったようですね。
いつ何をきっかけに詠まれたのか、本書で理解しました。

当時、ゆで玉子を食べたい人達がいて、そうした客が買ってすぐ食べられるよう販売する商人がいたことは、わかります。
吉原に寿司屋と並べて出店したり、春は花見の名所へ行商に来たりした、とも聞きます。
ただ、「生玉子は一般に販売されていなかった」とか「ゆで玉子のほうが生より長期保存できる」というような見解に対しては、首をかしげざるをえません。
もし生玉子が入手しにくいものだったなら、玉子料理のレシピ本『万宝料理秘密箱 玉子百珍』が流行ることもなかったでしょうね。

余談ながら、『勤番グルメ ブシメシ!』作者の土山しげる氏が5月24日に亡くなったと、当記事をアップした直後に知りました。
『ブシメシ!』連載の続きを楽しみにしていたのに、残念至極。ご冥福をお祈りします。

2018/06/07(Thu) |URL|東屋梢風 [edit]

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