新選組の本を読む ~誠の栞~

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 根岸友山と新選組 

2019年3月13日、「林修のニッポンドリル」(フジテレビ系列)を視聴した。
この日の放送は「名家に眠るお宝の値段調査」と題する内容。
後半、埼玉県熊谷市の根岸家が紹介された。およそ400年も続く名家である。
その十一代当主は、幕末から明治を生きた根岸友山。新選組といささかの縁があった人物、と承知している向きも多いであろう。

番組では、根岸家に伝わる品々を紹介。友山ゆかりの品も出てきたが、人物像には簡単に触れたのみだった。
そこで、改めて経歴などを振り返ってみる。

【根岸友山の経歴】
文化6年(1809)11月27日、武州大里郡甲山村の豪農・根岸栄次郎の長男として出生した。
母は、桶川宿本陣兼名主・府川甚右衛門の娘りさ。
幼名は房吉、実名は信輔、瓊枝。通称は伴七、仁輔。雅号を友山とする。
生家は享保以来、代々名主を務める家柄。大地主であり、農業経営のかたわら酒造業も営んでいた。
文政7年(1824)、16歳にして家督を継ぎ、根岸家十一代当主となる。
文政10年(1827)19歳の時、比企郡小川町・笠間四郎左衛門の娘さわを妻とする。

若い頃から文武に励む。
学問は、寺門静軒(水戸藩出身の儒者)、芳川波山(忍藩校学頭)に師事。
自邸内に私塾・三余堂を設け、知識人を招いて講義させ、近在郷党の学問の場とした。
剣は、比企郡志賀村の水野清吾に甲源一刀流を学び、のち千葉周作の下で北辰一刀流を修める。
さらに、自邸に剣術道場・振武所を設け、周作の門人を招いて修行を続け、地域の若者たちにも教えた。
国事に奔走する有志たちとも交際し、屋敷にはいつも10人以上を寄宿させ、援助した。
こうした交流関係から、次第に平田派国学に傾倒する。

天保4年(1833)25歳の時、大里23ヶ村の普請惣代として荒川堤防の改修工事に尽力する。
天保10年(1839)30歳の時、改修工事における不正を告発すべく、農民たちが川越城下へ押し寄せる「蓑負騒動」が勃発。友山も農民たちに協力する。
天保12年(1841)32歳の時、「蓑負騒動」で強訴の罪に問われ、居村構および江戸10里四方追放となる。追放の間、上州新田郡細谷村に仮住まいした。(厳重な監視を受けていたわけでなく、自邸や江戸にも多少の出入りはできた様子。)
安政2年(1855)46歳の時、ようやく処分を解かれる。

万延元年(1860)、長州藩の「御国塩其外産物之御用取扱」に任命され、翌年頃まで御用を務めた様子。
文久3年(1863)55歳の時、清河八郎や池田徳太郎から浪士組への参加を要請され、20余人を率いて加盟。自身は一番組小頭に任命される。そして京へ上るが、まもなく江戸へ戻ることに。
東帰後、新徴組に入り、再び一番組小頭となった。しかし同9月、病気を理由に脱退し、郷里へ帰る。

元治元年(1864)、第一次幕長戦争に際し、長州支援の挙兵を画策するも、不発に終わる。
慶応2年(1866)6月16日、武州世直し騒動の打ち壊し勢に襲撃され、武力で撃退する。
慶応3年(1867)11月、野州出流山挙兵への呼応を試みるが、幕吏に怪しまれ、これも不発に終わる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見での新政府軍勝利を知り、祝宴を開く。8月、旧幕府の関東取締出役に協力した嫌疑で新政府軍に捕われるが、やがて冤罪と判明し釈放される。
明治2年(1869)、名字帯刀を許された。
まもなく政治活動から身を引き、神葬祭運動や文化財保護などに専念する。
明治23年(1890)12月3日、82歳で病没。


この経歴を見ると、友山は幕府に対して反発する気持ちが強かったようだ。
公共事業の不正を告発したのに罰せられたとあっては、無理からぬところか。世直し騒動においても、幕府には頼らず地域の力を結集し自衛した、という自負心があった様子。
人物像として、「倒幕の志士」というより「地域自治のリーダー」という側面のほうが大きく思える。例えるなら、日野の佐藤彦五郎や小野路の小島鹿之助と近いのではないか(幕府への姿勢こそ正反対だけれども)。

さて、友山が京へ上ってすぐに戻った経緯とは、どのようなものであったか。

【上京~東帰の経緯】
文久3年2月8日、浪士組は江戸を出立。同23日、京へ到着した。
着くなり、清河八郎と幹部らは「天皇のため関東で攘夷の先鋒を務めたい」と朝廷に働きかける。
そして3月3日、江戸へ下るよう関白からの命令を取りつけた。
隊士の多くはこれに従うが、中には反対する者もいた。京の治安を守り将軍家茂を警護する目的で来たのに、それを果たさず帰るのでは本旨にもとる、という考えである。

3月10日、17人が会津藩へ京都残留を願い出る。京都守護職の会津藩主・松平容保は、幕府から残留希望者を差配するよう、正式に命じられていた。
17名の内訳は、芹沢鴨ら5人(新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助)、近藤勇ら8人(山南敬助、沖田総司、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八)、ほかに粕谷新五郎、阿比留鋭三郞の2人、京で合流した斎藤一、佐伯又三郎の2人である。

一方、それとは別に、浪士取扱役・鵜殿鳩翁が、殿内義雄と家里次雄に残留者を募るよう命じた。
こちらには、根岸友山と、清水吾一、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵の5人が応じ、合計7人となる。
友山にとって、家里は以前からの知己、清水は甥である。遠藤と神代も、知人を介し面識があった様子。殿内は、上京の途次に友山の組下へ入っていた。

3月12日、近藤・芹沢ら17人は、京都守護職お預かりを許される。翌日、浪士組本隊は江戸へ出立した。
3月15日、近藤・芹沢ら17人と友山ら7人を合わせた24人が、正式に会津藩預かりとなる。
3月22日、残留の壬生浪士たちは、家茂の滞京を訴える意見書を老中・板倉勝静に提出した。18人の連名であり、友山もこれに加わっている。

3月25日、会津藩士・本多四郎が、壬生浪士たちと壬生狂言を見物する。同席者17人の中に、友山の名はない。
その夜のこと、殿内義雄が殺害された。原因は、壬生浪士の内訌であるという。
この後まもなく、友山をはじめ清水、遠藤、神代、鈴木の5人は京を去り、江戸へ戻った。そして、東帰した浪士組の後身である新徴組に、揃って入隊している。


この経緯を、友山の実子である根岸武香は「(芹沢や近藤は)大義名分を失し、正義の士を暗殺せんとするの意あり」「父友山、このことを未発に察し、同志両三輩と伊勢大廟へ詣するを名とし、京を出、東下して組を脱したり」と『根岸友山履歴言行』に記す。父から聞いたことを書き留めたものだろう。
友山自身は、「(芹沢や新見は)何事をも我儘に行ひ威を振たる也」、「(近藤は)思慮もなき痴人なり」と、『自伝草稿』にて強く批判している。芹沢・近藤らへの嫌忌は明白と言えよう。

話を戻すと、「林修のニッポンドリル」には非常に引っかかる部分があった。
根岸家を「近藤勇・土方歳三の盟友を生んだ家」、友山を「近藤勇、土方歳三とともに活躍した壬生浪士組一番隊隊長」と紹介していたのだ。
しかし、前述のとおり、友山が近藤や土方を「盟友」と思っていたはずはない。また、彼が「浪士組の一番小頭(隊長)」だったことは事実だが、「壬生浪士組の一番隊隊長」とはいかがなものか。そのような役職の存在自体が未確認であろう。

根岸家を紹介した番組としては、これより前に「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(テレビ東京系列)があった。2018年7月20日放送の「街道一のお宝を探せ!中山道(第1回)」で鴻巣~熊谷~本宿をたどり、熊谷で根岸家を訪ねている。
ここでは、友山を「新選組の前身となった浪士組の一番隊長」と説明し、強引なこじつけはされなかった。
過剰な煽り文句がなくても、番組は成立する。誤解を生むような作り話はしないでもらいたい。

ちなみに熊谷では、友山は郷土史の著名人物として紹介されている。
根岸家では、かつて振武所が置かれた長屋門に「友山・武香ミュージアム」を開設し、当家や地域の歴史に関連した展示を行なっている。
例年4月、この長屋門をメイン会場として「友山まつり」が開催される(主催:おおさとまつり実行委員会、共催:くまがや市商工会南支所)。友山の顕彰と地域の親睦を兼ねたこのイベントは、2019年で13回目を数えた。

根岸友山について、新選組の歴史から知ると「すぐ帰った人」「芹沢や近藤を貶した人」というイメージが先行しがちだ。しかし、「地域に貢献した有徳の人」という側面も知っておいてよいのではなかろうか。

根岸友山・武香の軌跡


幕末維新埼玉人物列伝




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根岸さん

お察しの通り、私のイメージは大河ドラマの「偉そうな爺さん」その後は、「すぐ帰った爺さん」でしかありませんでしたが、
今回、略歴を知ってだいぶイメージが変わりました。
46歳まで一種のアウトロー(あるいは「硬骨漢」)だったわけですね。なかなか血の温度の熱い御仁であったとあらためて思わされました。
あるいは新撰組の近藤らのその後の活躍を知るにつけて「近親憎悪」に近い羨望があったのかもしれないですね。憂国の剣客という点で両者は実は似ていたのかもしれない。
根岸氏にしてみたら、自分がもう少し若かったら、同じように「義」のために暴れまくっただろうにという、少し早くに生まれすぎた事への遣り切れなさがあったのかもしれません。
かの武州一揆の時も確か腕づくで対抗したのでしたよね。彼のその時の記録は達筆だったもので読んでなかったのですが、翻刻もあるらしいので今度、機会があれば読んでみたいと思いました。

なお、件のテレビ番組での紹介の仕方。
インパクトを狙ったとは言え、酷いですね。それなら、おっしゃるように、地元の有徳人として扱われた方がずっとよかったと思います。
彼を日野の彦五郎さんや小野路の鹿之助さんと同じポジションとみる点は激しく賛同します。
(長文・駄文失礼しました)

2019/08/01(Thu) |URL|甚左衛門 [edit]

甚左衛門さんへ

こんなブログにおつきあいいただいて、恐れ入ります。

浪士組に加盟した経緯ひとつを見ても、根岸友山は旧知の清河八郎から直々に協力を要請され、20人以上の同志を引き連れて加盟しています。また、京都への残留も、浪士取扱役・鵜殿鳩翁が取り計らっています。芹沢鴨や近藤勇に比べれば、むしろ友山のほうが主流派というべきでしょう。
それなのに、不当な扱いをされて去ることになったのは、かなり不本意だったのでは。その後も新選組の噂を聞くにつけ、自分がリーダーであれば日本を「正しい方向」に導くため組織を使うのに、と考えたかも。そこに、ご指摘のような羨望まじりの憎悪があったとしても、不思議ではないと思います。

「そこんトコロ」「ニッポンドリル」によれば、根岸家は大変な名家です。所有地内に古代遺跡があって、歴史の教科書にも写真が載っている埴輪の名品が出土していたり。
新選組との関連をことさら強調しなくても、興味深いことはたくさんあるお宅でしょうね。

2019/08/02(Fri) |URL|東屋梢風 [edit]

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